先日支那事変について調べようと思い、
父の軍隊時代のアルバムを開けてみた。
片づける前に少々展示してみようと思う。
父は博識だったので生きている時に聞きだしておれば
貴重な話が聞けたと思う。
残念な事だ。
父の部隊の戦跡の記録が見つかりました。
大分前に必死で探したんですが、今日見つかりました。
しかしコピー不可ですので打ち直しました。
輜重兵第十聯隊 : 『大日本者神國也』 (fc2.com)
昭和12年(1937)7月7日、
北支事変(8月15日、支那事変と改称)が発生、
北支事変(8月15日、支那事変と改称)が発生、
7月27日、第十師団に動員下令、
8月8日、連隊は動員完結、神戸港を出航し、
17日大沽に上陸後、天津に集結します。
8月13日、蒋介石軍の違法行為、
挑発により第二次上海事変が勃発、
挑発により第二次上海事変が勃発、
我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
31日、北支那方面軍(寺内壽一大将)が編成され、
第十師団は方面軍戦闘序列の第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に
編入されます。
9月2日、連隊は第十師団と共に津浦線に沿って南下、
9月24日、滄県、
10月、徳州を攻略戦、
12月23日、黄河の敵前渡河に成功、
10月、徳州を攻略戦、
12月23日、黄河の敵前渡河に成功、
昭和13年1月7日、第二軍の山東平定作戦において、
16日、済寧城攻略戦、
4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、
4月下旬、集結した蒋軍50師団を殲滅すべく中支那派遣軍、
北支那方面軍の徐州会戦に参加、第十師団は棗荘から
微山湖を迂回し南下前進しますが、
蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、
蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、
6月20日、さらに蒋軍は我軍の追撃を阻む為黄河を決壊させ
自国民もろとも押し流します(死者89万人)。
自国民もろとも押し流します(死者89万人)。
第二軍は中支那派遣軍戦闘序列に編入され
第十師団は蘆州付近に移駐します。
第十師団は蘆州付近に移駐します。
8月下旬、連隊は第十師団と共に第二軍の漢口作戦に参加、
六安、固始、光州の戦闘に参加、連日の炎天により日射病
六安、固始、光州の戦闘に参加、連日の炎天により日射病
に加えコレラ罹患者が多発、
9月15日、連隊長・前野四郎大佐がコレラにより病没して
しまいます。
9月15日、連隊長・前野四郎大佐がコレラにより病没して
しまいます。
第十師団により編成された瀬谷支隊(歩兵第三十三旅団長、瀬谷啓小将)に2個中隊編成の輜重隊配属し、
蒋軍の退路を遮断すべく大別山を突破し、
10月、応山に進出、
26日、第六師団により漢口は攻略され、
10月、応山に進出、
26日、第六師団により漢口は攻略され、
26日、同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、
29日、応域を攻略します。
29日、応域を攻略します。
この間、逃げ遅れた蒋軍の敗残兵が自軍と間違え夜行軍中の
輜重隊に紛れ込み、
輜重隊に紛れ込み、
夜明けとともに敵軍と気づき逃走する事件が発生します。
10月29日、第十師団は北支那方面軍戦闘序列に編入され
北支那移駐が決定、
11月、連隊は南京に移動、津浦線を北上し、石家荘に連隊本部を
設置、歩兵連隊に中隊を分派し警備、匪賊討伐に協力します。
北支那移駐が決定、
11月、連隊は南京に移動、津浦線を北上し、石家荘に連隊本部を
設置、歩兵連隊に中隊を分派し警備、匪賊討伐に協力します。