おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

親、兄弟


令和7年3月20日(木)晴れ  春分の日


014


001
004
手前の山並みが白い、雪だね
006
朝食
昼食はデニーズでハンバーグ定食を食す
013
夕食、納豆、レトルト卵スープ、トマト


今日は息子夫婦に誘われて墓参りに行った。
私や娘はそんな先祖供養に無関心だけど、
嫁さんがちゃんとした家庭育ちなのでいつもお誘い受ける。
家の墓はお寺の中の納骨堂である。
お寺も歩いても15分位の処にあるのでもっと頻繁に
墓参りすべきだとは自戒している。

ペットの納骨堂もあるので「さんご」と「もんち」にも
一緒にお参りする。
すぐ傍に安倍さん宅の愛犬のお骨も納骨されている。
午後から嫁さん宅の墓参もすると言うので
昼食は近所のデニーズで済ます。
008
お寺の庭で、娘夫婦は仕事で欠席
011
嫁さんがお花と和菓子を持って来てくれた、

午後から録画テレビを観ていたら眠くなる。
最近よく昼間に眠くなるな。

ピンポ~んと同フロアーのUさんがトマトを持って来た。
頂いたと言う、トマト大好きだから喜ぶ。

上がって貰ってしばし懇談する。
彼女は一人娘を溺愛していて、
遺産としてこのマンションの他にアパートを2棟持っているのに、
その他に個人年金を月5万も掛けてあげているらしい。
こんな気前のいい親を持っている人羨ましい。

年代が違うけど、私達兄弟は高校を卒業したら
さっさと家を出て自力で道を開いたな。
お金の掛かることは何一つして貰つた覚えが無いわ。
文句はないけどさ、愛情を感じたこともないな。

当時思ったことがある、田舎のある人は良く田舎の物産を
送って来るのを見かけた。
我親は何一つ送って来なかった。
良いけどさ、何一つ期待してはいなかったけどさ。
私がさばさばしているのはそんな育ち方が
影響しているんだろうな。

叔父(父の弟)さん宅は東京に居た従妹に蜜柑とか羊羹とか
何やかやくだらない品々を送ってきたな、
だからかその子供達(従弟達)5人は一旦は親元を出たが
最後には全部親元に集まって暮らした、

我親の元に寄りつく子供は一人もいなかった。
寂しい老後だった。
それについて何一つ愚痴をこぼさなかったから偉い。
親として子供の自立を尊重していてくれたと思わなくちゃ。

それでも私は娘だから両親が死ぬ前の病床には度々駆け付けた。
当時娘が航空会社に就職したおかげで
親の飛行機代が只だったから出来たこと。
3人(弟2人と長男の嫁)は近くに住んで居る弟も
一切寄り付かなかった。
それで私は憤慨したことがあったな。
「あんた達、かあちゃんが何ばしたと言うとね」と
父ちゃんはともかくとしてね!
母の遺産は四等分しましたね。






父のアルバムから 戦跡を辿る


先日支那事変について調べようと思い、
父の軍隊時代のアルバムを開けてみた。

片づける前に少々展示してみようと思う。
父は博識だったので生きている時に聞きだしておれば
貴重な話が聞けたと思う。
残念な事だ。

arubamu

天皇皇后

白鷺城

師団長、大隊長

入隊

乗馬


父の部隊の戦跡の記録が見つかりました。
大分前に必死で探したんですが、今日見つかりました。
しかしコピー不可ですので打ち直しました。
輜重兵第十聯隊 : 『大日本者神國也』 (fc2.com)

良一軍歴

昭和12年(1937)7月7日、
北支事変(8月15日、支那事変と改称)が発生、
7月27日、第十師団に動員下令、
8月8日、連隊は動員完結、神戸港を出航し、
17日大沽に上陸後、天津に集結します。

8月13日、蒋介石軍の違法行為、
挑発により第二次上海事変が勃発、
我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

31日、北支那方面軍(寺内壽一大将)が編成され、
第十師団は方面軍戦闘序列の第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に
編入されます。

9月2日、連隊は第十師団と共に津浦線に沿って南下、
9月24日、滄県、
10月、徳州を攻略戦、
12月23日、黄河の敵前渡河に成功、
26日、済南攻略戦に参加しますが、
IMG_20240527_0001
左縦に済南站と押されている

連日の豪雨に輸送は困難を極めます。
昭和13年1月7日、第二軍の山東平定作戦において、
16日、済寧城攻略戦、
4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、
4月下旬、集結した蒋軍50師団を殲滅すべく中支那派遣軍、
北支那方面軍の徐州会戦に参加、第十師団は棗荘から
微山湖を迂回し南下前進しますが、
蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、
6月20日、さらに蒋軍は我軍の追撃を阻む為黄河を決壊させ
自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

第二軍は中支那派遣軍戦闘序列に編入され
第十師団は蘆州付近に移駐します。

8月下旬、連隊は第十師団と共に第二軍の漢口作戦に参加、
六安、固始、光州の戦闘に参加、連日の炎天により日射病
に加えコレラ罹患者が多発、
9月15日、連隊長・前野四郎大佐がコレラにより病没して
しまいます。

第十師団により編成された瀬谷支隊(歩兵第三十三旅団長、瀬谷啓小将)に2個中隊編成の輜重隊配属し、
蒋軍の退路を遮断すべく大別山を突破し、
10月、応山に進出、
26日、第六師団により漢口は攻略され、
26日、同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、
29日、応域を攻略します。
この間、逃げ遅れた蒋軍の敗残兵が自軍と間違え夜行軍中の
輜重隊に紛れ込み、
夜明けとともに敵軍と気づき逃走する事件が発生します。

10月29日、第十師団は北支那方面軍戦闘序列に編入され
北支那移駐が決定、
11月、連隊は南京に移動、津浦線を北上し、石家荘に連隊本部を
設置、歩兵連隊に中隊を分派し警備、匪賊討伐に協力します。
IMG_20240527_0001
石家荘 下の丸印
昭和14年10月16日、姫路に帰還します。

IMG_20240527_0001
昭和14年10月16日 宇品港



野球愛DNA


令和5年3月25日(土)雨

013
008
010
004


スターティングメンバー

002
003
004
005
006
012
014
033

日本中どこ行っても日本勝利で賑わっている。
その動向の一挙手一投足に関心が向けられています。
これを機に野球が又昔の様に隆盛になると良いですね。
日頃からみんながみんな野球に関心を持っていたわけでは
ないと思う。
かくいう私も昔に比べたら野球に疎くなっていた。

でもDNAは野球に縁があるのだ。
父は野球キチガイで当時西鉄ラインズのフアンで
福岡の平和台球場に良く行っていた。
家ではスポーツ新聞を購読し、
テレビでは野球放送が常に放映されていた。
独身の頃は会社の野球部で活躍していたようだ。

IMG_20230325_0001
独身の頃は隣町にあった西杵炭坑で働いていた、
ユニホームに「西杵」とある
因みに父は黒シャツを着て写っている。

その血を色濃く引き継いだ息子は小学2年の頃から
いまだに野球と縁が切れないようだ。
当時はサッカーなんて誰も見向きもしないで野球一筋だった。
私は住宅地の子供会の役員をしていたので
野球に詳しい役員と話し合って野球好きな子を集めて
野球部を作りました。
旦那も柄にもなくコーチ等引き受けて朝練を指導していました。
息子は小学、中学、高校、大学、会社と野球一筋の人生です。
008
当時神奈川県は全国一のチーム数で200を超えていました。
新設校で弱小高でしたので一勝が願いでしたし、
監督さんが息子にその願いを託していると仰っていましたが、
とうとう三年間願いは叶いませんでした。

しかし高校まではエースで部長で生徒会の会長も引き受ける
人気者でしたが、大学に入って始めて人後に落ちる経験を
した様です。
首都大学野球連盟の加盟大学でしたが、全国の甲子園級の学生が
わんさかいてレギュラーの位置を得る事は出来なかったようです。

入学当時、我が家は困窮の底にいましたので野球部の先生に強硬にお願いして寮に入れて貰いました。
寮に入れないと野球は続けられないと切にお願いしました、
野球部員が250人もいる大学ですから無理な相談だったのですが
私の熱意が通じました。

しかし2年だったか3年だったかに突然我が家に帰ってきました。
当時も今も同じ間取りですが、寝室は2部屋しかありません、
どこに寝るのと言う話です。
暫く私達夫婦の部屋で寝ました。

それから少し経済も良くなっていたのと母の遺産が入りましたので 古いけど駅近の1DKのマンションを買って住まわせました。
そこに結婚するまで何十年も住んでいましたね。
家賃として3万入れさせましたよ。
売りましたら買った値段の半額以上で売れましたので
投資金額の元は取りました。

そして息子は会社の野球部で活躍し、おまけにお得意さんの野球部の欠員で助っ人で駆り出されましたし、高校時代の野球部員と
草チームを結成して毎週のように試合に出ていましたし、
最近50代になったのでもう野球から足を洗ったのか聞きましたら 「監督だよ」と言っていました。
冥途の父も俺の血を引いたと喜んで居る事でしょう。








弟と電話した、しらんわ!


令和5年3月9日(木)晴れ

 001
一昨夜が満月だったらしい、大急ぎで西に沈む月
019
真中より少し左の赤いビルに沈む月
013
015
018


今日は一日家に籠っていた。
意を決して弟に電話した。
とても不愉快でしばらく日を置かないと書けない。
夕方知り合いの方が来訪して話し込む。

過日商店街で保護して家に送り、のちに地域包括支援センターに
繋いだ方、ため口が担当することになったそうだ。
その時は手一杯だから依頼されると困ると言っていたのに
「あんたが繋いでくれたおかげで1件増えたわよ、ありがとう」
だって! 介護認定受けたら要介護①だったそうなので、
あの状態で①はないでしょうと言ったら、
「何しろよく喋るから軽く見られたようだ、区変(区分変更)を
出して調査には私が同席するわ」と言っていた。

028
今夜の夕食、肉じゃが丼(たまご乗せ)トマト、赤ワイン、イチゴ


今日の歩数は2984歩




弟に早急に電話しなければならないが、その気にならない。


令和5年3月7日(火)晴れ

001
003
大分明るくなってきた、体操始まる前に消灯する
008
 日の入り 大分北の方に上がって来た、
体操中に撮影したので傍の連中が驚いていた


今日は午前パソコン教室
わが家の防災マップ._page-0001 (4)

今日の課題、自己流でも出来る課題ではあるが教科書の教えに
従ってやると結構面倒だ、我ながら良く出来たと思う。
家のイラスト以外は全て手作りだ。
010

014
今日のお昼 近くの台湾料理屋でルーロー飯を食す。
1100円
016
今夜の夕食、今夜の料理は全て出来損ない、
鱈の煮付け(みりんの代わりに油を入れた、甘くないのでおかしいと思ったし、汁をスプーンですくった時感触がおかしかった)
ホウレン草の胡麻和え(市販の胡麻和えの素でやったが不味い)
汁(昨日のうどんの汁に菜の花を入れたが、超不味い)
ご飯(コメが1カップ弱しかなかったので小さな鍋で炊いたら
カチカチの焦げが鍋底一杯出来た)
赤ワイン

今日の歩数は6636歩





父の躾と教育③


金銭教育編

支那時代家族4人
支那時代の一家 昭和17年頃、母はその後次男を妊娠して
帰国して18年に出産しました。

二番目に厳しく躾けられたことは借金するなでした。
小学校の頃学校で10円収めなければならないことがあって、
たった10円(当時でもたっただった)なので
友達に借りて収めました。
そして父に褒められると思って報告しましたら
忘れもしない大変叱られました。
「子供のくせに借金するとは何事だ、先生に明日収めますと
なぜ言わなかったのだ」と

その教えはいまだに効いています。
私は借金は大嫌いです。
今までに借金したのは上京して衣服の整理に必要な
整理ダンス4500円を10回払いで買いました。
その借金を払い終わる前に
私がもし死ぬようなことになったらと不安でした。

その後の人生は買いたい物は貯めてから買いました。
その後車と家を買う時はさすがにローンを組みましたが
それ以外はありません。

それなのに結婚した相手が借金王でした。
そればかりではなく借りた金を絶対に返しませんでした。
独身の時は義母が払い、
結婚してからは私が払いました。
旦那の金銭問題を論じたらきりがないのでここでは割愛します。

いや!一つだけ論じます。
結婚する時、式について旦那は積極的に論じませんでしたので
私が主導して取り決めました。
そして喫茶店で思い切って聞きました。
「○○さん貯金は幾らあるんですか」
『兄貴から幾らだろ、おばさん①から幾らだろ、
おばさん②から幾らだろ』と御祝儀を当にしているのです。
「そんなものは貰ってみなければわからないじゃないのよ」
つまり1銭も貯金が無いのです。

そして結婚してからわかったんですが
旦那はいい給料もらっていたのに家(義母)に
1銭も入れて無かったのです。
殆どを遊興費に使い果していました。
ダンスが得意でクラブやキャバレーで使い果たしていました。
後にカラオケも得意で、フランク永井や裕次郎張りの
いい声でした。

私なんか二人の子供が就職したらその月から
娘は5万、息子は3万入れさせましたよ。
二人名義で貯金しましたけど結婚する時あげました。

結局兄貴は1万円でした、そして義母は義兄は1万円もくれたの、
ずいぶん張り切ったねと言いました。

そしてなんと義母は1銭もくれませんでした。
なぜかわかりませんが、私が気に入らなかったんでしょうね。
兄貴の時は寿司屋でやったそうですが、全部払い。
北海道に新婚旅行に行く費用も出したそうです。
私は新宿にあった厚生年金会館で最低の費用であげました。
義母たちはそれが気に入らなかったようです。

おばさん②は夫婦と娘と3人出席しましたが5000円でした。
叔母さん①は私はもう少し上げようと思っていたんだけど
②が5000円出すと言ったので合わせたんだよと言いました。

私の例の弟は5万円、長男は3万円くれました。
それでも鈍い私は旦那の本質を見抜けませんでした。
結局式費用は私が全部負担しました。
そして住まいは義母が借りている借家で同居生活でした。
これが聞くも涙、語るも涙の物語で最悪でした。

その時見抜いて結婚を止めていたら、
親孝行な子供にも巡り合わなかったわけだから
良しとしましょうか。

これは血筋と言うより義母の躾の問題だと思いました。
義母は子供二人が幼児の時に子供を置いて離婚しました。

兄弟は継母に育てられました、
実父は戦死し東京の家が戦災に遭ったので
義父の実家福島に疎開しましたが
いつもひもじい思いをさせられたと継母を恨んでいました。
当時実の母子でも飢えていましたけどね。

でも福島の実家は農家なのにどうして孫を飢えさせるのだと
私なんか疑問に思っていました。

そして小学校5年の時に実母に引き取られましたので、
義母は贖罪意識で強く躾けられなかったんだと思います。
義父は南洋で軍艦諸共戦死しました。
義父靖国
義父軍歴
部隊は戦後21年に無事に復員しています、
これはどういうことでしょうか、
部隊諸共船が撃沈したのかと思っていました。

義父の供養は誰もしていないし、墓もありません。
家庭を崩壊させると末はこうなりますね。





父の躾と教育②



父とは会話はありませんでしたが、
子供が幸せになる方式を常に考えていたと思います。
只会話が無いのに押し付ける姿勢は子供の反発を呼びましたね、
特に私や次男は反発しました。

私の反発は見えない反発でしたが父は見抜いていて
私と次男は親の言う事を聞かないと思っていたようです。

私の場合は近場で良縁を得て結婚させることだったかも
しれませんが、私は家を飛び出しました。

21,2歳の頃結核になり、半年療養所で療養し
半年家で過ごしましたが、
勿論保険もありませんので療養費は弟の勉学費で
精一杯の親には頼めず、、、

父は終戦の頃ダイナマイトの事故で右手指を怪我しました、
それで脱サラして衣類の卸の商売を始めました。
始めの頃は繁盛していましたが戦後落ち着いてくると
殿様商売も落ち目になって私が高校に行く頃には
大学進学は絶望的になっていたのです。
長男一人を大学出すのが精一杯でした。

私は地元選出の面識もない市会議員さんにお願いして
医療費補助の申請をしていただきました。
その代り小遣い(生活費)は0査定されましたので
親に月1000円だけ送金してくれとお願いしました。
その額は生活保護者より少ない額でした。
女性にはどうしても必要な出費があるのです。
その決定が出るまで寝てもおれない心境でした。

なぜなら父は弟を退学させてでも療養費は出すと
言いましたので、そんなことをさせるわけにはいきません。
私の一番困窮した時代です。

佐世保市には恩があるのです、私が死んで残っていたら
僅少でも寄付したいと思っています。

父は当時は仕方のないことでしたが、
私を黴菌扱いして家は針の筵でした。

まだ健康に自信はありませんでしたが、弟(長男)が
東京の大学に行っていたので東京の就職先を
新聞広告で見つけて上京しました。

上京前夜に父はしおらしくつらく当たったことを
詫びるような口調でしたが、
その後は絶えず都会に憧れて飛び出したと非難していました。
だから私と次男は父から見ると親不孝者だったのです。

さて次男は始め鉄工所に就職しましたが、
馴染めなかったようで直ぐにやめて
千葉の運送会社に転職しました。

社長はやくざっぽい人らしかったが
弟を可愛がり弟も馴染んでいました。
運送会社では長距離運送に従事していました。
長距離の運転手は人と交わるのが苦手な
弟にはピッタリだったかもしれません。

父は戦後すぐに事故に遭い炭鉱を退職しましたので、
老後手厚い福祉が受けられないことを残念に思っていたようです。
叔父さんは定年まで働き退職金も年金も十分貰い
悠々の老後でしたので、働くのは福利厚生のしっかりした
会社でないと駄目だと思っていました。

だから次男がやくざっぽい運送会社で働くことを憂いていました。
三井関係で働いている知人に息子の就職を頼みました。
次男は言う事を聞きません。
だから私に説得しろと命じられました。
次男を呼んで説得しましたが当然首を縦に振りません。

その後大分たってから佐世保の叔父さん(母の弟)に
靴屋の跡取りとして呼ばれました。
私は叔父さんの性格をよく知っていましたので反対しました。
父も反対していました。
しかし反対を押し切って行きました。
当然直ぐに飛び出しました。

それから運送会社に勤め、
そのうちにダンプカーを買って独立しました。
誰にも気を遣わずそりゃよかったでしょうね。

雲仙岳が噴火した時は地元の業者は山が噴火するたびに
又何年分の仕事が増えたと喜んで遥拝していたそうです。
近隣の業者も大分うけに入ったようです。

でもいつも順調に仕事が入るわけではありませんので
ならすと残すところまではいきません。
最後の頃はいつも仕事がない、金が無いと言っていました。
そしてとうとう80近くになり仕事も入らず体もがたがたで
辞めざるを得なくなりました。

そんなわけで貯金もわずかで、
年金もわずかで、
私にも借金返せず、
そのうちに生保のお世話になる運命です。

私の兄弟で老後設計が成り立たないのは次男だけです。
父はこうなることを見通していたんです。
弟の人嫌いで頑固なところは育ちのせいでしょうか?
持って生まれた性格のせいでしょうか?


好きにしたら!!と(4)


2月17日(金)に県営住宅の所員から電話があり、
審査が通り契約手続きをしたいので弟さんに3回電話しましたが
通じません、月曜日に電話くださるようにお姉さんから連絡して
下さいと言われました。

それから私も何回も電話して留守電に入れていますが
応答がありませんでした。
だから包括のIさんに電話しましたが外出中でしたので電話に出た
方に、ひょっとして倒れているのかもしれないので様子をうかがって貰えませんかとお願いしました。

夕方遅くIさんから電話があり、本人と話が出来たそうです。
『弟さん転居を迷っていますのでお姉さんからも強く推してください』と言われましたので
「もういいです、好きにさせます」
『そうおっしゃらずに、いまの住まいでは危険なので説得して下さい』
弟は私と電話すると説得されるのが嫌で電話に出なかったようです。

腹は決まりました。
好きにしろっ!

24日に始めて本人から電話あり、
県住宅移転を迷っているとつべこべ言い訳しました。
包括のIさんからほぼ聞いていたので何を言っても好きにしたらと
言いました。。
弟は説得される言葉に反論する言葉しか用意してなくて、
『うっ』と詰まります。
『皆は引っ越しを進めるけど、住むのは俺だからな』と言います。
「だから好きにしなさい」
『そんな風に言われると迷うんだよ』
「だから好きにしなさい」

結局3月1日に県住宅に行くと約束はしてあると言いました。
「好きにしてください、私は何も言わない、それから言っとくけど、いつも電話に出ないけどそんな身体で独居なので皆が心配するから電話には必ず出なさい」と厳命しました。
『携帯買い替えたら良く判らないから出ないんだよ』
「わからないなら、買った所に行って習ってきなさい」
以前はいつも電話を持ち歩いているわけではないと
ほざいていました。

明日3月1日、どう展開するでしょうか。
私の連帯保証人放免はなるでしょうか。

続く






親父と弟と私(3)


帰京して以来私はうつうつとした状態でした。
住宅賃貸の保証人に親子でなったという事は
高齢で身体障害で貧乏な弟の悲惨な運命を
丸抱えしたことになります。
何か事が起きれば究極は金です。
とてつもない重荷を背負ったような気がしました。
85歳の私に対処できるでしょうか、
まして娘にまで迷惑はかけられません。

それなのに弟は文句ばかり言って感謝の言葉が無いのです。
私は感謝されないとやる気が起きません。

初日の夜に居酒屋で私に借りた150万円のことが気になって
しょうが無いと言いました。
私はしたたかに酔っていましたのでつい「その金返さなくていいよ」と言いました。
しかし弟はお礼も言いませんでした。
あれやこれや考えると眠れません。

 IMG_20230227_0001
20年前 弟に振り込んだ150万

弟はおやじの事を話題にすると必ず言う事があります。
「親父にはいつも殴る蹴るされた、えすかった(怖かった)」と
おやじには言葉の暴力はやられっぱなしでしたが体罰は受けたことがありませんでした。
他の長弟、末弟からも聞いたことはありません。

つまりオヤジに暴力を振るわれていたのは次弟だけだったのです。
弟に暴力をふるいたくなる気持ちが、私今ならわかります。
良かれと思う親心を拒否するんですね、
カチンとくる態度を示すんですね。
つまり私は父の気質を引いているってことです。

包括の職員も県住宅職員も私も弟に良かれと必死で対応してくれているのに感謝の気持ちはなくて文句ばかり言う弟、
もう知らんと言う気持ちになりました。

漏れ聞くと「今のアパートに住んで40年、慣れ親しんでいるし、
ここから眺める景色が好きなんだ」と、馬鹿か!!
しかし弟の足腰は限界を超えているし悪くなることはあっても
良くなることはありません。

県営住宅に入居しなければ私の保証人不安も無くなりますから、
やめればと言う気持ちになりました。

続く





佐世保12,13,14日(2)


地域包括支援センターのIさんを訪ねて行ったら、
なんと公営住宅(市営・県営)の募集要項が揃えてあり、
市営住宅の空きは無いが、弟の住んでいる同じ地区で
包括の担当地域でもある県営住宅の1階が丁度募集中だと言う。
これは単身者用でいくら田舎とは言えこんな僥倖はめったに
ありませんと言う。Iさんも私も大変喜びました。
弟も喜んでいたと思っていました。
291

県営住宅
クリックすると大きくなる、
家賃は当然非課税者だから最低の20300円です。
289
これが単身者用の狭い間取り、東京だったら4人家族用ですね
窓から見える景色、緑豊かじゃないですか、

I さんはこれは早い者勝ちだから今からすぐに行って申込みした方が良いですよと仰ったのですぐに県住宅の出先機関に行きました。

県の担当者もとても感じが良くてそこにいるみんなが
祝福しました。
私も弟も高齢で短期記憶が短いのに根気よく付き合って
下さいました。
当然ですが保証人を二人立てなくてはなりませんでしたが
弟は人づきあいが悪くて一人も居ません。
私と娘(電話して了解を得た)を立てました。
そして県や市の証明書が4通必要だと言うので
多分弟だけでは億劫がって放棄すると思ったので
すぐに3か所(1か所は戸籍謄本だから本人が後日取りに行く)
回って取りました。
これで身辺審査(やくざではないかと)が終れば
正式に契約になります。
全て終わりホットしてカフェで休憩しましたが
何となく弟の態度が気になりました。

前夜は居酒屋(まずい店)で久しぶりに5杯も飲んで酔っぱらい
ホテルのロビーで満座の中で転倒する騒ぎでしたので
その夜はホテルで自粛することにしました。

うつうつと考えました。
私は持ち前の強引さで事を決めましたが、
これは誰が考えても良いことだし、
本人も喜んでくれるべきだと思いましたが、
本人の態度が気になりました。
だから上京する前に電話しました。
「あの住宅で良かったよね」と
『う~~~~~ん、よくよく考えたら広過ぎる』と言います。
「あれが最低の広さで単身者用だからこれより狭いのは無いし、
狭いよりいいじゃないの」と反論しましたが、
ますます気が重くなりました。

続く


佐世保12,13,14日(1)


287
佐世保湾に面してどこからでも見える、愛宕山(愛宕富士とも称される)

私は九州に行く時は必ず佐世保に住んでいる弟に逢う為に
足をのばすことにしている。
今回も行く前に電話して最近の消息を聞いた。
弟は生涯を運転手として過ごしたので腰膝を傷めている。
何度も手術したらしいが段々悪化しているらしい。
10分も歩けずどこに行くにも車で行く。

それが最近すごく悪化していて道路から敷地まで手すりの無い階段を上り更にアパートの2階に住んでいるが何度も転げ落ちたと言う。
「そりゃ大変じゃないのよ、階段の無い家賃の安い市営住宅に申込んだら」と言った。
『でもどこに申し込んでいいかわからないし』と言う、
「そんな事市役所に聞けばいいじゃないのよ」

しかし何しろ弟は面倒くさがり屋で人と接することが大嫌いなので  私が乗り出すことにしました。

佐世保市役所の福祉関係の部署に電話してこれこれこうだから
市営住宅に入れて貰いたいと言いました。
役所の男性はとても親身に話を聞いてくれて、
弟の住んでいる地区の地域包括支援センターに繋いでくれました。

翌日そこの女性相談員から電話がありましたので独居老人(80歳)で身体障碍者なので格別の支援をお願いしたいと申しました。
公営住宅は年に数回申込み募集があるので申し込んで、、、と
言われましたので、特段の措置で入居できるように支援して
ほしいと申しました。

そして2月13日(月)に訪問して詳しくお話したいと申しました。

続く



 
プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

最新コメント
記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリー
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ