令和4年9月4日(日)曇り後晴れ
大分前から子供エリアを改造工事している。そろそろ完成しそうだ。
公園の南西角はフェンスだったがここを入口にするようだ、
私的には一番の近道になる。
随分沢山の鳩がいるなと思ひ撮ってみたが
写真をズームにして見ると真ん中にパン屑が撒かれている、
奥のベンチにいる3人が撒いたのかな。
ベンチに残飯の残骸が放置してある、数歩歩けばゴミ箱があるのにどうしてこんなことが出来るのだろうか、頭かち割ってその中身を見てみたい。
今朝は14輪
今時珍しい物が落ちていた、つげの櫛、
つげの櫛と言えば思い出すことがある、
終戦後間もなくの頃
子供達の身体から頭までシラミが蔓延していました。
頭は新聞紙を敷いた上で毛髪を柘植の櫛で梳くとパラパラパラと
シラミが沢山落ちてきました。
柘植の櫛は目が細かいのです。
衣服は熱湯で煮沸しました、
パンツのゴムの縫い目に潜んでいました。
学校で定期的にDDTを頭から身体迄振りかけられました。
私は両親が健在でしたのでそんなに不潔にはしていませんでしたが、近所に母親のいない子がいて、いつまでもシラミがたかって
いましたので休み時間にその子を取り囲んでシラミ取りをして
あげていました。取ったシラミはその子が爪で潰す役目でした。
今日は日本書紀の勉強会に茗荷谷迄行く。
今日勉強したのは巻第二十七天智天皇即位前期。
白村江の戦いの巻が詳細に述べられている。
日本書紀って日付からあらゆることが書き残されていますね、
全て手書きの時代にこんなに詳細に書き残すのは困難だった
と思う。
日本人だったら誰でも勉強すべきだと思うな。
今夜の夕食、大塚駅の駅ビルでステーキ弁当と
たい焼きを買う。
水分がビールだけじゃ喉が詰まる。
今日の歩数は6757歩
娘宅に又北海道富良野産の玉蜀黍が沢山贈られて来た
そうです。お隣さんにも分けてあげました。
早速娘宛に報告されました。
関東大震災の記事を書く時は書こうと思っていたことを
書きます。
もう実際に経験した人の話は聞けませんね。
義母は明治42年生まれです。
義母の実家は下町深川門前仲町にありました。
魚屋でした、魚屋と言っても店舗を構えている魚屋では無くて
ボテフリの魚屋です。
ボテフリがわからない人はシニアには居ませんよね。
女ばかりの5人姉妹の長女でした、父ちゃんはぼてふりだから
いつ帰って来るかわからない、飲んで帰って来る事も度々
あったそうです。だから貧しい家だった様です。
小学校を出ると山の手のお屋敷に女中奉公に出されました。
その頃あの関東大震災が起こったのです。
深川の実家も消失しました。
焼け跡に掘っ建て小屋を建てて住んでいたそうです。
畳なんかありません。
義母は月に一度の休みに帰った時
畳を1枚づつ買ってあげたそうです。
母親がとても喜んで絹は親孝行な娘だ娘を産んで
おいて良かったと何度も喜んでくれたそうです。
義母はいつもそれを語って自慢していました。
何枚買ってあげたのかは語りませんでしたね。
私の父も明治42年生まれ、母は大正4年生まれですが、
二人とも九州に住んでいたので何の影響も無かった様です。
大震災は噂で聞いただけの様です。