おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

靖国神社

村田春樹、斯く嘆き!



村田春樹(長文です、御用とお急ぎでない方どうぞ)

千鳥ヶ淵
左から近藤昭一衆議院議員、福島瑞穂参議院議員、阿部知子衆議院議員
tidoirgafuti  花輪


一昨日15日靖国神社に参拝してきた。
私は鳥居をくぐるといつも「兵隊さんよありがとう」を口ずさむ。昭和13年朝日新聞公募「皇軍将士への感謝の歌」当選作。
橋本善三郎作詞佐々木すぐる作曲「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです、お国の為に、お国の為に戦った、兵隊さんよありがとう」

そして亡き沼山光弘烈士(令和元年5月11日社頭にて自決)を
偲んでしばし佇む。
遺書に曰く「先帝陛下へ、天皇陛下へ、お詫び申し上げるための自決です。靖國神社御親拝をお望みであらせられる天皇陛下が、靖國神社へ御親拝できない状況を打破できない、天皇陛下の靖國神社御親拝を妨げる勢力を打倒できないことをお詫び申し上げ・・」

その後足を伸ばして千鳥ヶ淵戦歿者墓苑での
平和フォーラムの集会に参加してきた。
写真左から近藤昭一衆議院議員、福島瑞穂参議院議員、阿部知子衆議院議員。いずれ劣らぬ愛国者(北朝鮮への)である。
この集会で次々と発言する内容たるや「アジアの人々への加害・反省・平和・不戦の誓い・九条堅持・国葬反対云々慰霊の場どころか完全に政治集会になっているのは、関東大震災朝鮮人慰霊祭(両国横網町・9月1日)と同じである。

それにしても反省反省と言い募るが戦った将兵に感謝こそすれ
反省を強いるのは理解の外である。

その後日の丸大行進やらで遅くに帰宅。
ニュースで武道館での戦歿者追悼式での陛下のおことばと首相の式辞を見てまたまた暗澹とした。

陛下のおことばに今年も又「深い反省」とある、
反省?一体誰がなぜ反省するのか。
何か悪いことでもしたのか。

平成六年八月一五日、村山首相は
「アジアをはじめとする世界の多くの人々に、筆舌に尽くしがたい悲惨な犠牲をもたらしました。その方々の苦しみと悲しみに対しましても深く思いを致し深い反省とともに謹んで哀悼の意を表したいと思います」と深く反省している。

ここに百艱を冒し萬死を顧みぬ忠誠勇武なる将兵は完全に加害者になり、天翔ける英霊から一転地に墜ちて罪人になってしまったのである。

歴代首相は以後毎年この式辞で「深い反省を」述べなくてはならなくなる。靖国参拝問題と全く同じ構図である。

平成一九年第一次安倍内閣も「とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、」と歴代内閣を踏襲している。

ところがこの流れに終止符を打ったのが平成二四年一二月に発足した第二次安倍内閣である。翌二五年八月一五日の式辞で、安部首相は「御霊を悼んで平安を祈り、感謝を捧げるに、ことばは無力なれば、いまは来し方を思い、しばし瞑目し、静かに頭(こうべ)を垂れたいと思います」と「反省」から「感謝」に一気に百八十度転換したのである。忠誠勇武なる将兵は再び英霊となった。

さっそく一部マスコミが中韓を使嗾して共に猛反発したのは言うまでもない。しかし安倍首相は意に介さず翌二六年も反省せず、
感謝を捧げたのである。ここまでは良かった。

しかし翌二七年、思いもよらぬ衝撃があった。天皇陛下のお言葉に「ここに過去を顧み,さきの大戦に対する深い反省と共に,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」

なんと、反省しない安倍首相に代わって天皇陛下がおことばで反省されたのである。一部マスコミと中韓の喜ぶまいこと。
なんとお蔵入りしていた細川村山内閣の「反省」が息を吹き返してしまったのである。

英霊にとってむろん首相の式辞より陛下のおことばの方が遥かに重い。忠誠勇武なる将兵は「天皇陛下万歳」を叫んで、北辺に斃れ南溟に散ったのではないだろうか。

嗚呼、ここに戦後レジームはさらに鞏固なものになってしまったのである。
かつて三島由紀夫烈士は「などてすめろぎは人となりたまひし」と嘆いた。(英霊の聲)
不遜極まりないが私も敢えて嘆く「などてすめろぎは反省と宣りたまひし」

さらに驚くことが続く。
その翌二八年天皇陛下のおことばは、引き続き「深い反省」となったが、安倍首相は式辞で
「より改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。」と、
感謝に敬意をプラスしたのである。
以後令和元年八月の追悼式迄、陛下のおことばと首相の式辞が完全にねじれ状態になっている。
そして一部マスコミは毎年「首相今年も反省せず」と書き立てている。下に整理してみる。

       天皇陛下おことば     首相式辞
昭和二七年~
平成四年       追悼のみ    
平成五年~      追悼のみ
二四年まで      追悼のみ      反省                 
二五年        追悼のみ      感謝            
二六年        追悼のみ      感謝                
二七年        深い反省      感謝        
二八年        深い反省      敬意 感謝          
二九年        深い反省      敬意 感謝          
三〇年        深い反省      敬意 感謝          
令和元年以降四年まで 深い反省   敬意 感謝    

このねじれ状態はいつまでつづくのであろうか。
英霊はもとより御遺族も我々国民も、いったいどうしたらよいのであろうか。
我が業界人は「首相が靖国参拝しないのはけしからん」と
非難する。しかし中韓は勿論
アメリカまで巻き込む大騒動を冒して首相参拝して、
陛下の御親拝に道筋を付けても、
「反省すべき将兵」が祀られている靖国神社にどうして陛下が参拝されるのか。首相が参拝しないのは政治的に正しい選択なのである。
そうです。日本は終わっているのです、完全に・・・・(長文お読みいただきありがとうございます)

ついでにこれも





「深い反省」はいつまでしてればいいの!


 日経
日本経済新聞夕刊一面記事

8月15日と言えば愛国者とあいまみえるようになった頃から
いつも靖国神社に馳せ参じていた。
チラシ配ったり、署名活動したり、反天連の行進を迎え撃ったりして微力ながら保守活動に邁進していました。

大分前からもうお前の出番じゃないよと己の内なる声に従って
家籠りするようになりました。
自分の面倒を見るのが精一杯ですからね。

ところで昭和20年8月15日の事は鮮明に覚えています。
母のおばさんの家は農家で、おばさん夫婦は家に来た町の親戚には腹一杯食べさせて帰りには子供の背中にまで食料を背負わせてくれました、行商の人にまで食べさせていたそうです。

母の弟達は5人いましたが4人は出征して戦地におり、
一番下の弟は予科練に入っていました、
終戦前に母の両親は相次いで亡くなりましたが、葬式、法事は
みなそのおばさんの家で執り行って下さっていました。

そして母の実家は佐世保にありましたが、空襲で焼け落ち叔父さん達は無事に戦地から帰還しても帰る実家がありませんでした。
みなそのおばさんの家に一時寄寓して身の振り方を探していました。

15日は丁度お盆の法事に家族で参加していました。
たぶん母の両親のどちらかの法事だったと思います。
当時父はサラリーマンでしたが、おばさん宅の法事には何をおいても一家で参加していました。腹一杯食べられて帰りには食料を持たせてくれるんですから、当時としては何をおいても馳せ参じます。
家から4里の道を歩いて行きました。

多分お昼頃に到着しましたら、皆沈痛な面持ちでした。
ラジオで天皇陛下が戦争に負けたと仰ったと口々に言っておりました。ラジオ放送での天皇のお言葉の意味がわからなかったと言う話を聞きますが、そんな田舎の人達は日本は負けたと理解したのです。
そして口々に「これじゃ戦死したもんは浮かばれん」と
言っていました。
私の記憶はそこまでです。




靖国神社御霊祭り


 令和4年7月15日(金)小雨曇り豪雨

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体操終わった途端に降り出しました、


コロナPCR検査の結果が午前中に来ました、
検出せず(陰性)でしたのでこれで安心して皆さまに会えます。

今日はそよ風主催の靖国神社昇殿参拝、御霊祭り、
直会に参加する。
年に一回の浴衣を着ようと思った、それでいつも思うんだけど
これが最後かなと思うのだ。
同志が着付けに来てくれることになっていたが
天候不安で大雨の予想なので中止した。
それで時間の余裕が出来たのでパンを焼く。

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ホワイトラインの幅が広すぎる、まぁ95%の出来かな、

私の焼くパンは天下一品だと思う。
パン作り屋としては街で評判の店のパンは買ってみる、
しかし私のパンを超えるパンにはお目にかからない。
先だって買った高いプルマンもふあふあして噛み応えなくて
ちっとも美味しいとは思えない。
それで私の作るパンは他にないのじゃないかと自己肯定100%の
私としては認めないわけにはいかないのだ。

私が習ったパン教室のコンセプトは引き算のパンと称して国産粉、酵母、国産沖縄砂糖、国産塩以外は添加しない引き算のパンと
称していた。
まっ食パンにはバターを入れますけどね、

だからどうしてもスーパーあたりで売っているパンとは
身分が違うのだ。
以前、元女優が私のパンを称してさんごママのパンは朝1枚食べたら
お昼まで持つけどスーパーのパンはすぐにお腹が空く、さんごママのパンがパンなら、スーパーのはフアンだと言ってくれた。

少し前に会社の近くでこのコンセプトと同じパン屋さんが開店して 私もたまには買っていたがどうしても高い、
小さなアンパンが250円もする、場所が高級でなかったので
あえなく閉店しましたね。
こういうパン屋はセレブの多い場所でないと買う人がいないと
思う。

ところで昔私のパンを売ってくれと何人かに言われて
いろいろ計算して1.5斤のパンを600円頂いたことがあります。
二度と頼む人はいませんでしたね。
だって国産粉は1K約500円ですからね
1本分を計算すると
粉代:400g、200円、最高級バター25g、国産蜂蜜25g、白神酵母、 スキムミルク、
さて材料費はお幾らになるのでしょうか、
文系少女は計算出来ません。
600円は高かったかな!

大急ぎで娘に頼まれた、牛乳、バナナ、と私の裁量で豚肉、ヨーグルトを買って、出来たてのパンとタクシーで持参しました。
其のタクシーで戻り、靖国神社に飛びました。

市ヶ谷駅出たのは3時半頃でしたが、猛烈な豪雨でした、
ハンドバックの中、靴の中まで雨がしみとおっていました。
昇殿参拝して遊就館で安倍さんの展示だけを見て、
そよ風の献灯した提灯を見てから市ヶ谷の居酒屋に
直会に行きました。
今日は盛り上がって楽しい直会でした。
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やっぱり政治家はこの位の字を書かなきゃ、
以前福島みずほの小学生並みの御習字を見て一気に
軽蔑しましたね。

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佐藤忠男さんが100個献灯していますね、何者?
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そよ風の提灯が上から2列目の真ん中にあります。
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ご一同様!


万歳三唱&靖国神社昇殿参拝


令和4年1月2日(日)晴れ

なぜか昨夜から下痢が止まらない。
昨夜は12時前に就寝したんだけど昼寝がたたってなかなか
寝付けなかった。
しかも下痢になり4度も飛び起きました。
しかし5時にはすんなり起きられて普段通りの活動が出来た。
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東京駅前にて

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二重橋前にも定刻に到着、
皆様と共に皇居に向かって万歳三唱し君が代を斉唱しました。
それからタクシー券を使い靖国神社に向かいました。
地下鉄で向かった方々はかなり遅く到着しました。
無事に昇殿参拝致しました。
靖国神社には大勢の参拝客が詰めかけていました。
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寅歳
寅年
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和紙に上の桜のマークと下の花枝は刺繍されています
正月限りの御朱印です

その後同志7人で市ヶ谷に出てお店を探しお堀端で営業している
食堂で楽しい会食を致しました。

うちに帰った頃から眠気がしてかったるいので寝ました。
また何度も下痢で起こされました。
これから又寝ます。
寝正月だ。
今日の歩数は9379歩






令和四年一月二日は皇居前にて万歳三唱!


二重橋DSC05543
 
令和3年もあと僅かとなりました。
さて、残念ながら、令和4年1月2日の一般参賀は、
取りやめとなりました(宮内庁発表)。

そよ風は、二重橋の前で、
日本国民党の皆様と一緒に万歳三唱を行います。
その後、一旦解散となりますが、ご希望の方々と靖国神社参拝も
予定しております。
そよ風会員の方も、又会員以外の方も、皇室の弥栄を願って、
共に万歳三唱致しましょう。

集合場所:二重橋前(皇居前広場の皇居正門前)
集合日時:令和4年1月2日9時45分(10時に万歳三唱)
主  催:そよ風 
問い合わせ先 si-suzuki@nifty.com

現地集合、現地解散です。
マスク着用でお願いいたします。
日の丸は当方でもご用意しますが各自ご持参自由です。

二重橋前
天長節祝賀万歳の時の写真。
同じ場所で集合です。






シニアナビ過去記事(738)「第55回『靖国神社清掃奉仕』のお知らせ」


 [738]『靖国神社清掃奉仕』のお誘い 2008.11.19  01:19:53   

この過去記事は載せる意味はあるのか疑問ですが、
一応ナンバーなので載せます。写真も失われている。
 
私たち靖国神社清掃奉仕有志の会では、
祖国の国難に殉じて靖国神社に祀られた英霊の御霊に対して、
ご奉仕を通して感謝の気持ちを捧げたいと思います。

このたびの清掃奉仕は新嘗祭の後、
大東亜戦争開戦記念日を前にした下記予定にて行い、
英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。

境内には落葉が敷詰められている季節でございます。
師走を前にして皆様大変お忙しい中とは存じますが、
年内最後の清掃奉仕でございますので、
何卒ご参集の程を宜しくお願い申し上げます。
                               
尚、当日は昇殿参拝の後、清掃奉仕を行います。
11月25日までに電話・ファックスまたは葉書メールで出欠と
参加人数を必ずお知らせ下さい。                     
               
日  時: 平成20年11月30日(日)午前8時45分集合9時~12時迄
場  所: 靖国神社参集殿前に集合
        (受付で署名と参加費を承ります。
        車の方は申し出て下さい。)
服  装: 汚れても良く動きやすい普段着 ※軍手持参
参 加 費: 玉串料として 成人1500円 家族同伴者1000円 
       大学生1000円 
高校生以下は無料(参加費は当日申受けます)
※ 全員記念写真送付、休憩時と終了後にお茶がでます。

内  容: 最初に参加者全員で昇殿参拝を行いまして、
       英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
その後本殿の周辺から境内を掃き掃除します。
軽作業ですからお気軽にご参加下さい。



シニアナビ過去記事(695)「靖国神社清掃奉仕」

[695] 靖国神社清掃奉仕  2008.8.31  23:32:20   
20/8/31(日)曇り 晴れ 後雨


心配した天候も英霊のご加護か清掃中は晴れであった。
60名程の方々が爽やかな汗を流した。
私は2度目であったが今日も又「あぁ~参加して良かったぁ」


朝、8時30分頃の大鳥居前

本殿にての参拝前の団体控え室にて、
この後神職の先導で本殿にお参りする。
いつものように日本の尊厳が守られますように英霊に御祈念した。

老いも若きも真面目に清掃します

游就館で食べた「海軍カレー」
はっきり言って美味しくない、塩味がほとんど無い。
でも今は亡き母の作ってくれた「母カレー」がこのようではなかったかと思う。
私が物心付いた頃作ってくれていた母のカレーは「うどん粉」に「カレー粉」を入れてどろどろにしたものを流し入れていた。
今となっては美味しかったかどうか定かでは無い。
当時「カレールー」と言う概念は無かった。

「カレールー」の存在を知ったのは昭和29年に高校に入学して家庭科で習ったのが事始めだ。
今の様な既製の「カレールー」が出回ったのは随分後の事である。

帰りに新宿三丁目で下車して映画「SEX AND THE CITY」を
観ようと思ったが7月19日新装オープンした「ピカデリー」は凄い行列であったので又にする。3階から11階まで全て映画館(10スクリーン)で今話題のプラチナルームがある。
世界一高価な2席で30,000円也。

おまけ

今夜の粗食

①タカベ(昨日2匹買ったので昨日も食べた)
②牛テールの味噌スープ風(冬瓜、コンニャク、豆腐、ショウガ、ニンニク入り)昨日の残りだ、二晩かかってやっと食べた、
今「もんち」が骨と格闘している。
③ジャガイモと人参と豚肉と卵の炒め物
④いつものトマト
⑤黒霧島焼酎

マンネリ
(後記:例によって画像は削除しましたのでありません)


みたままつり


令和3年7月13日(火)晴れ怪しい天気


今日は午前パソコン教室
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今日作成したチラシ

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このチラシ作りました、気にいっていますよ
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そよ風献納の提灯は上から3段目
その右の角屋久平さんは100個献納されていますね、
一燈12,000円だそうですから、120万です、
私も死んだら遺産を少し献納しようかな

午後から、靖国神社に参る。
特別な祭事と昇殿参拝する。
終わってからそよ風、川崎正論の会が献納した提灯を
確認して記念写真を撮る。
みたままつりbokasi

直会は新橋の居酒屋で開催され、
私もお誘い受けましたが、
心身が完全ではありませんでしたので失礼しました。
今日の歩数は2406歩
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今日のお昼、冷凍のちゃんぽん、結構うまい、
お腹一杯で夕食抜きました。
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パソコン教室の同級生から奄美のモズクを頂きました、
娘が好きだから娘にもと


みたままつり&靖国神社昇殿参拝、遊就館見学


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靖國イベントチラシ表面_page-0001

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シニアナビ過去記事(508)「靖国神社清掃奉仕」


 
[508] 靖国神社清掃奉仕 2007.8.26  23:43:04   
19/8/26(日)晴れ 暑い

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老若男女真面目に清掃します。
我が家も同じようにやりましょうね(私の事です)


今日は始めての「靖国神社清掃奉仕」に参加した。
「維新政党・新風」の東京代表をしている鈴木信行氏が有志の会の代表を務められているので今まで何度か参加する機会はあったんだけど、その気にはならなかった、
実は朝早いのがどうも(8時45分集合)

でも8月15日に靖国神社参拝した時いつもセットで参拝する
「戦没者墓苑」には余力がなくて行けなかったので
今日は良い機会だと思い参加した。

8月15日に靖国神社で「有志の会」でチラシを配っておられたので
それを見て来た人やインターネットで知ったと言う人がかなりいて 総勢60名程の参加であった。
参加費は1500円である(昇殿参拝の玉串料、記念写真代、茶菓代込み)

一同参集殿に参集して宮司の案内でいつも皆様がお賽銭を上げている建物の中で(畳敷き)中庭を通して本殿に向かって宮司が祝詞を申し上げ辞儀をして宮司の案内で左側の渡り廊下を渡り
「本殿」の中に通される。

本殿も畳敷きで正面に大きな鏡があり
(目があまり良くないのではっきりしないが)その周りに茶色の
ひだひだしたものが取り囲んでいた。
簡素な季節の野菜が供えてあった。
そして宮司の先導で「2礼2拍手1礼」をして黙祷する。

私は英霊に感謝し、そして現下の「国難」を払う為に
私達に力を下さいと必死で祈った。
以前だったら「家内安全」我が幸せしか祈らなかったが、
今は純粋に「国内安全」しかお願いしない。
神道の祈りの儀式は簡素である。

それから今度は右側の渡り廊下を渡って、途中で御神酒を頂き、
素焼きの酒杯を頂いて退出した。

9時半頃から本殿の周りを時計回りに清掃する。
ゴミ一つない境内を竹箒で主に枯葉を集める。
今の季節あまり枯葉も沢山はない。

靖国神社には何度も来ているが本殿脇は涼しげな木立の道が
続き、本殿裏には池や滝のある日本庭園や茶室(3カ所も)や
相撲土俵まであるのだ。

途中池の側で小休止し記念写真を撮り又清掃の続きをする。
今日は暑さもぶり返しタオル1本分の汗が出たし疲れはしたが
無事に努められた我が身が誇りである。
参加者は以前は年配の方が多かったそうだが
現在は若者が多くなったそうです。
でも今日も結構年配者が嬉しそうに参加されていた。
11時半頃終了した。

この清掃奉仕は年に4回あるそうですが、
仲良しとおしゃべりしながら森林浴、庭園見物をかねて
参加されると気分も爽快になって大変よろしいかと思います。

皆様もぜひ参加されるようお勧めいたします。
経験者によると11月が季候もよく落ち葉も沢山落ちていて
やりがいがあるそうです。


シニアナビ過去記事(427)「千鳥ヶ淵に夜桜を見に行く」


 [427] 千鳥ヶ淵に夜桜を見に行く 2007.4.1  21:54:42   
19/4/1(日)曇り花冷え
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牛ヶ淵 皇居のお堀で一番海抜の高い濠、
このあたりの水深は歩けるほどだそうです。
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北の丸公園の入り口、菜の花と桜、いいなぁ
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夕暮れの千鳥ヶ淵
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千鳥ヶ淵の夜桜


絶対に行く千鳥ヶ淵の桜を今年も見に行く事が出来た。
まだ「来年はないだろう」なんて思ってはいないが、
千鳥ヶ淵の桜を見に行く事は命をかけているような気がする。
今日の一日を必死で生きたから心おきなく明日が迎えられる思い。

今夜は見事満開で良き桜見物の最後の日と誰もが思っているようで
最高の人出であった。

靖国神社(残念、今夜は7時閉門に間に合わなかった)に
参ってから境内の屋台で飲食してから帰る。
娘と二人 あぁ、良い気分。



靖国神社初詣


令和3年1月8日(金)晴れ 富士山おぼろ

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敬意と節度を持たずに入境する輩がいるのか
簡体字とハングルで提示するべきでしょう
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ソロモンと見ると見逃せない
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縮小朝雄叔父さん
朝雄叔父さん
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父(左陸軍)と朝雄叔父さん(海軍)
朝雄叔父さんの軍歴
朝雄叔父靖国
義父靖国
義父の戦没場所
義父軍歴
義父の部隊は戦後無事に帰還している
父の軍歴
ついでに父の軍歴
父は支那事変で招集されましたが、2年で除隊になっています、
叔父さんは12年に召集されて戦後21年まで一度も除隊になっていません。可哀そうな生まれ合わせです。大正生まれは損な生まれです、私達昭和生まれはまれにみる良い時代を生きました。


今日は午後3時頃靖国神社に参りました。
家から出ても30分位で着く距離ですがさすがに歩く気はしない。

私こう見えても立派な英霊の遺族なんですよ。
昔上京して間もなく高校の同級生に折伏されて創価学会に
入ったばかりに英霊に対して無関心ご無礼で申し訳なかった。

もし入会していなければ靖国神社に縁が出来て様々な戦友会や遺族会につながり、今葛藤を抱えている問題も少しは糸口が見つかったかもしれません。

父方の叔父さんはソロモン諸島のピエズ島で戦後まで生き延びていたのに餓死しましたし、
旦那のお父さんはマラッカ海峡で海の藻屑となっています。

私はこの英霊の軌跡を知りたいと常に思っていますが、
私の力、知識ではどうすることも出来ません。
もう少し若い時だったら頑張って探求できたかもしれません。

遊就館の売店に沢山の戦記が並んでいましたが、
若ければこれら全部を読破したいと悔しい思いです。
もうすべて遅いのです。

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日章旗と軍艦旗のシールとストラップと
航空自衛隊の制服生地のマスクを買いました
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以前大村の航空自衛隊でリュックも買いました
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今日の歩数はどっちをとればいいのか!

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今夜の夕食、お昼抜きなのでお腹空き過ぎて、即食べたかったので
靖国通りのリンコスで銀鱈の西京漬け弁当を買った、旨かった
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新年皇居参賀と靖国神社初詣のお誘い


  二重橋靖国

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叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事


叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事

1942年8月、日本軍はナウル島、オーシャン島を占領し、
海軍第67警備隊として前者に4000名、
後者に500名の守備隊を置いた。

1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。

1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした。

9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、
仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。

但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、
行軍に不慣れな者ばかりであり、
その上、気温は摂氏35~38度もあった.

しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、
行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
このため,恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。

例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。

最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)

ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、
第一隊の惨状があったにも関わらず、
第二隊も同じ方式で行なわれた。

更に、悲劇は続く。
ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、
免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。

10月末に、常設収容所に移送された際、
この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも,、
一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、
免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、
ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。

で、だ。
このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、
彼らを死の淵から救う…わきゃない。

彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。

その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
 「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。

トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった.
最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、
4週間で530名が発病。

ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」

この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、
12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、
オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。


この手記はおじさんが67警備隊所属だったことを知ってからネットで検索して見つけたものです。

叔父さんは赤道直下のナウル島にいたものと思っていましたが、
67警備隊はナウル・オーシャンを警備していたので
どちらか不明です。
私はまだ詳細を極めていません。
それを成し遂げるまでは元気でいたい。
朝雄叔父さんの軍歴

朝雄叔父靖国
叔父靖国神社ご祭神
朝雄靖国
義父靖国神社ご祭神
マライタ島
この地図は平尾軍医の戦跡を辿った地図です。
平尾軍医は戦後、第一生命の重役をされていた方で
村田春樹さんが尊敬しているかたです。

ピエズ島

ピエズ島地図

参考書籍
「ソロモン軍医戦記」平尾正治著
「ソロモン戦記」福山孝之著
「ソロモン収容所」大槻巌著(元海軍第67警備隊)


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シニアナビ過去記事(287)「ピース島はいずこに」

[287] ピース島はいずこに 2006.8.14  22:45:14   
18/8/14(月)酷暑

287_picture
今年も元気に参拝出来ました。


今日は娘と「靖国神社」と「千鳥が淵戦没者墓苑」に
手を合わせて来ました。

午後3時までの仕事を終わってから渋谷から半蔵門線で15分で
九段下に到着した。
東京は本当に交通が便利だなぁ。

4時に大鳥居の前で娘と待ち合わせ。
大型バスが参道までぎっしり停車して、皆さん遠くから参拝に来ているんだなと感心した。
報道陣もなにやら期待しているような待機の仕方であるが、
今日は穏やかである、若い人も沢山いて、この所の騒ぎのお陰で
今まで気にもしていなかった人々も関心を持つようになったのだろう。

実は私もそう。

私の血縁では只一人父の弟の朝雄叔父さんが戦死(餓死)しているし、旦那の父親がニューギニアで戦死している。

父の兄弟は3人共体格はがっちりしていて兵隊には一番先に取られそうだが、
父は当時の基幹産業の炭鉱で採鉱技師をしていたので免れ、
次の弟は生まれつき首が斜頚で免れ、一番下の叔父さんだけが
海軍に行った。

海軍兵曹長(いまや死語ですね変換しません)であった。

朝雄叔父さんは家族みんなの希望の星、自慢の息子、自慢の兄弟であった。
当時誰でも貧しい頃、兄弟の多い家に生まれたが性格もよく
頭も良かったので、町で町長の息子とたった二人だけ
旧制の中学に行った。
当時は我が母校武雄中学はまだ無かったので遠い小城中学に行った。

叔父さんの写真が仏間に飾ってあって毎日目にしていたが、
日本人離れのしたきりりとしたいい男であった。
私は洋画の好きなませた少女だったので、
当時胸躍らせたハリウッド俳優の「ロバート・ミッチャム」に
そっくりだなと思っていた。

叔父さんは終戦まで、戦死の公報が来なかったので、
無事に帰って来るだろうと家族は期待して毎日待っていた。
我が家は山の斜面にある町の上の方だったので、
毎日のように復員兵や海外からの帰国者が登ってきた。

ある時、父が郵便配達人とすれ違った、何故か胸騒ぎがして急いで引き返した。
やはり叔父さんの死を知らせる手紙だった。

叔父さんは戦死ではなく「ピース島」と言う小さな島で餓死したそうだ。
(後記:その後ピエズ島と判明した)
父は嘆いた「日本に居たならば餓死だけはさせないのに」と
そして母に大急ぎで「銀シャリ」を炊かせて大盛りのご飯を仏前に供えた。


叔父さんの「骨箱」にはお骨は無く、
「新品のハンカチと新円切り替えの証紙が張ってある郵便貯金通帳」だけであった。

新円切り替えの事は私は「根掘り葉掘り質問魔」だったので
子供ながらよく理解していた。

昭和19年に小学校に入学した時、当時国民の義務とて
母が私名義の貯金通帳を作ってくれて、毎月確か5の付く数字「5銭か50銭か」の貯金をしてくれた。

私より一回り年上の師匠に聞いたら当時50銭はかなり値打ちがあったそうなので5銭ではなかろうかと、思う。

そして戦後(昭和21年2月)「新円切り替え」をした。
子供心に叔父さんは新円切り替えをするまで生きていたのだと思った。
周りの大人に聞くことはせず、一人納得していた。

でもず~っと後になって、あれは本人がしたのではなく、日本で所属の機関が通帳を預かっていて、やったのだろうと理解した。

それ以来私は折に触れ「ピース島」はどこにと思い出す。
叔父さんの餓死した島はどこにあるのだろう。
調べて判れば意地でも尋ねてみようと思う。

調べよう、調べようと思いながら、日々の生活に流され未だ果たさずに居る。
今年こそ調べます。靖国神社の霊前で誓ってきましたから。

(後記:追画像)

2014_0423_001606-父と叔父①50% - コピー - コピー (2)
父左(陸軍)と朝雄叔父さん(海軍)
遺骨は収集されていません。ピース島の密林の中でしょう。
戦後女の人が消息を訪ねてきたと伯母さんが言っていました。



安倍晋三前首相が靖国神社を参拝

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安倍晋三前首相が靖国神社を参拝
9/19(土) 10:06配信 産経新聞


安倍晋三前首相は19日午前、靖国神社(東京・九段北)を
参拝した。
自身のツイッターに「本日、靖国神社を参拝し、
今月16日に内閣総理大臣を退任したことをご英霊に
ご報告いたしました」と写真を添えて投稿した。
安倍氏は首相在任中、平成25年12月26日に1回だけ
靖国を参拝している。

この記事、売国新聞のようなそっけない文章ですね。
産経新聞がよ!


惜しむらくは最後の一日でもいいから首相在任中に
参拝して頂きたかった。

プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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