おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

私の思い

高校時代が暗黒時代だったな。


令和6年9月7日(土)晴れ

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もうこの弁当には限界、
でも立つ、歩くが長く続かないので
自分で買い物、調理は無理なんですよね、
それに減塩と言う縛りもあるので市販の弁当で済ます事も無理、
食べる楽しみゼロ!!
この食欲の無さは何が原因だろうか、
動かないからだけではないような気がする。

整形の先生はよくなっているので、
歩けるようになると太鼓判おしてくれるんだけど、
最近は一段と腰痛が酷くなっているような気がする。

書きたいことは沢山あるけど、
纏める気力がないので中途半端には書けない、
私の人生を振り返ってみて一番最悪だった高校三年間の事を
書こうと思っているけどエネルギーが不足しているので
書けないな。
来し方のことを書き残したいと思う。



どこに住むか⓶(神社と本家は災害に遭わない)(追画像あり)


令和6年8月31日(土)晴れ

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数えてみたら15,6個あった、上の枝が垂れて塊りになっているので
熟し過ぎるまで見つからない
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娘が喜ぶので味噌炒めを作る、婿さんの弁当に入れるらしい、
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娘、ゴーヤをあてにしてビールを飲む
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座間で台風が来るたびにハラハラして暮らした10年弱、
私は災害に遭う土地をあちこち歩いて研究しました。
そしてもう二度と同じ災害に遭わないと決心しました。 
実地に歩いたり古老に話を聞いたりして知識を深めました。

「神社と本家は災害に遭わない」と言う言い伝えを実感しました。
一度災害に遭った土地は必ず同じ災害に遭うのです。
100年に一度位と言う人もいましたが、
それが明日かもしれないのです。

土地台帳はその土地の古名を表わしています。
座間のその土地は相模川第二段丘のすぐ傍泉の湧く土地の
底なし沼を埋め立てた土地で座間入谷字作り道根付と言います、
土地の性格を表わしています。

相模地方には他にも大沼小沼と言う古い地名の住宅地もありましたが、そこも水害常襲地でした。後からおしゃれな地名を付けた土地が沢山ありました。

その団地の北の方に市役所と道一つ隔てて鈴鹿神社がありました。
市役所側はズブズブの土地でしたが、神社側は長い年月相模川が溢れる度に運んで来たこぶし大の石が数十メートルも深く敷き詰められていてそこを掘り進むのは至難の業だったのでビルを建てるのをあきらめて二階建てにしたそうです。

今住んで居る土地は23区内で二番目に海抜の高い所に
建っています。
一番目は神楽坂だそうです。
ビルを建てるには普通は岩盤迄数十メートル
穿(ウガ)かなければならないのに
ここはすぐそこに岩盤があるので
それはそれで建設業社は苦労したと土地の古老から聞きました。

そんな土地ですから地震にも水害にも強い土地です。
ここが建設中は息子の妊娠中ですぐ近くに住んで居ましたので
憧れていました。
当時は新宿の先まで高い建物が無くて聳えていました。
完成してオープンルームがありましたので見に行きました。
とても庶民の買える物件ではありませんでした。
売値500数十万円
頭金320万円でした、周りの人が320万出せば郊外に一軒家が買えると言っていました。
完成したらエリートばかりが入居していました。
都の外郭団体が建てたので都の役人関係者と
地権者の三菱関係者で占められ、
住んでいる方に話を聞いたら周りは一流大学出ばかりで
私の旦那は二流大学出なので肩身の狭い思いをしていると
言っていました。

さて東京に借家を探している時に賃貸情報誌に
なんとこのマンションが出ていました。
大家さんは旦那さんが都庁に務めていた方で亡くなられたので
奥さんが地方に越して賃貸に出していたのです。

直ぐに不動産屋に鍵を借りて見に行きました。
西方向に富士山が見えました。
ベランダが広いのでここで富士山を見ながら
ビールを飲もうと夢想しました。
直ぐに不動産屋に電話して「借ります」と言いました。
家賃18万円、当時の私達には高値でしたが、決めました。

なぜなら多感な年頃の娘は中学3年でした。
学校の近くに住むのに分相応の惨めアパートに住んだら
娘の為に良くないと思ったのです。
電話も入れない、食事は最低、納豆や豚こまだけを
食べても住まいだけは羨ましがられる部屋にしようと
硬く決心しました。

約10年位住んでバブルが弾けて安くなったところで
同じ位置の上階を買いました。
不燃建築公社が建てたマンションなので上下燐家の影響も無く、
過去に数度の火事がありましたが、絶対に延焼はしませんでした。
その上理事会がしっかり機能していて耐震補強も施されました。

日本全国様々な災害に遭っていますが、
おかげで私は安心して暮らしています。


地球は変革期か


令和6年8月21日(水)酷暑

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やっぱりプロテインは私の胃には過剰だと思う。
一袋半あるからあの方にあげよう。
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昨夜も悶々として寝付けなかった。
睡眠導入剤を飲みたいな。
いろいろと悲観的な思いが去らないせいだと思う。
何がそんなに窮状なんだろうか、
腰と私のせいでない酷暑だけではないか。
閉じこもっていることが良くないと思う。

支援センターの支援員が二か所のリハビリ専門の
デイのチラシを持って来てくれた。
医者の許可が出ればどちらかに行こうと思う。

今日はさすがにどんよりとして寝不足症状があったが
昼間寝るとまた夜悶々するので我慢した。
溜まっている書類を整理した。
でも何度も同じ作業をする、本当にボケが始まっているわ。
今夜はぐっすり寝たいな。
日本列島は災害だらけ、酷暑と豪雨、
なにか罰が当たっているのだろうか。
確かに地球がおかしい。
変革期だろうか。
私の来た道はあまりにも順調だったと思う。
だから今大変な思いをするのは長生きし過ぎたせいかも
しれないな。


今日も誰とも話さない日


令和6年8月20日(火)酷暑

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ゴーヤの中に朝顔が混じっている


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ゴーヤの味噌炒め、これ好きなんだ。

昨夜寝付けなくて往生しました。
一晩中悶々としましたので朝起きられないだろうと
思っていましたが、いつもどうり起きられました。
そして昼間も眠くはならなかったので寝てはいたんでしょうね。
腰は腰かけていたり寝ころんでいれば痛くはないのですが、
立ったリ歩くとすぐに痛くなります。
もうこの状態で死ぬまで行くのでしょうか。
考えると生きているのが辛いです。

支援センターから何の音沙汰もないのでこちらから電話しました。
何も進展していません、訪問医もアクセスしていないそうだ。
要支援2ってそんなに軽く扱われるんだ。
訪問医も医師を紹介するから自分で手続きするようにと言われた。
私は現役時代に要支援の方の支援したことがない。

リハビリ専門のデイに行こうかと思う。
週に2回行けるらしい。
痛くても我慢して運動しようかと思う。
近いうちに整形医に掛かるので痛くても運動しても良いかと
聞こうと思う。





万引きする老人


令和6年8月 19日(月)酷暑


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二人の方から朝食後気分が悪くなるのは
プロテインのせいではないかと御指摘受けました、
それもそうかもと思い今朝は止めました、
確かにいくらか胃の調子は良くなりました。

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お昼に多少お腹が空きましたので
梨と台湾土産のパイナップル菓子と野菜ジュースを飲みました

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夕食、

今日も心身がグダグダして寝ころんでばかりで過ごしました。
もう私は正常な生活が出来ないのではないかと暗澹たる思いです。

何気にテレビを観ていたら、
大阪のスーパーで万引きする老人を摘発する様を放映していた、
犯人は殆ど男女とも老人です。
わずかな食糧品を万引きしていますが、
不景気のせいばかりではないと思いますが
老人は生活に困っている人が多いのでしょうか、
年取ってから貧乏するのは辛いことでしょうね。

私は若い頃から老後はお金が無ければみじめだと
強く思って暮らしてきました、
若い時は貧乏でも平気で過ごせるが老人になったら
貧乏したく無いと先ばかり見据えて生活してきました。
私の同時代の方々は皆同じ考えの方が多いと思います。
壮年の頃高度成長期だったことが幸いしています。
いい時代を過ごしたんですね。



プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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