旅(海外)
令和5年8月19日(土)晴れ
昨夜何気にテレビを見ていたら昨今の富士登山の 有様だった。
なんと原宿竹下通り(最近行ってないけど)並みの混雑だった。
これじゃ事故も起きるよね。
私は良い時に行ったもんだわ。
時は昭和30年代終わり頃、そうだあの八が岳に行った頃だったわ。
沖電気に務めていた友人を誘って二人で登ったんだわ、
若かったね。
新宿から富士山5合目までバスで行ってそこから登り始めて
8合目の山小屋で仮眠してご来迎を頂上で拝む予定だった、
ツアーだったか個人旅行だったか覚えていない。
友人は8合目でダウンしてもうこれ以上登れないと言うので
私も具合は悪かったが一人で登った。
夜明け前にふらふらしながら登りました。
ときどきリュックを背にして休みます、
息が静まり目を開けると満点の星でした。
下の方まで広がっていました、ああこの星空は平安時代の人達も
眺めたんだろうなと感動しました、
なぜ平安時代だったかは思い出せない。
やっと頂上までたどり着きましたが、私も生まれて初めての高山病になりふらふらであたりを楽しむゆとりはありませんでした。
折角来たんだから初期の目的はなんとしても果たすと必死でした。
周りを見渡すと子供がまるでグランドを走るように走り回って
います。
その時私は高山病になりやすい体質だと悟ったんですが、
その何十年後タクラマカン砂漠をランドクルーザーで一周した時
天山山脈(タクラマカン砂漠の北側)とアルキン山脈(南側)を4WDで一気に駆け上がったので重篤な高山病になった。
私以外は皆さん平気でしたが、私のせいで直ぐに下山することに
なりました。
下に降りたらすっと治りました。
その後の旅程で目が霞んでよく見えない状態になり帰国後眼科に
行きましたら「あら~左目眼底出血している~」と女医さんに
言われました。それ以来左目は何度もレーザーで治療しました。
50代前半(確か53歳)の頃でした。
この旅は私が思いつき小さなアドベンチャー旅行を得意とする会社に依頼して6人集めたら催行しますと言われて日本全国の知り合いに呼びかけました、この人集めが一番大変な事でした、何しろ一か月近く休める日本人は当時あまり居ませんでしたからね。
娘が見かねて諦めたらと言いましたが、いや絶対にやるっ!と
宣言しましたよ。私は凝り性なんです。
確か費用は70万位だったと思う。
この時悟ったことがあります。
人集めで誰彼構わず声をかけていましたが、反応なし、
その時はっと気が付きました。
魚釣りでは「魚影の濃い所に竿を差す」べしと、
それで前回砂漠に行ったグループに声を掛けたらたちまち
6人集まりました、総勢7人で催行しました。
しかしその旅で私は気を使い過ぎて疲れ果てましたね。
純粋に楽しめませんでした。
呼び掛け人として責任を一身に背負った気がしました。
旅は気楽に参加する方が楽しめる。

タクラマカン砂漠一周5800㌔走破、
日本列島の長さだと言われていました、オアシスの旅舎で泊り、
宿の無い場所ではテント泊り、砂漠は車は必ず複数で行きます。

アルバムから(3冊あります)

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以下は大分旧聞になりますが、
こんな呼び掛けをしている方がいました。
期待通りに事は運んだんでしょうかね。


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所で私は22年前、平成13年(2001年)に大連、旅順、秦皇島を
訪問しました。
当時我が社でアルバイトしていた大連出身の中国人(満州族)を
案内人にして娘と行きました。
戦前秦皇島に住んでいたことがありましたので面影を求めて行ってみました。
大連ではかの憧れの大和ホテルに宿泊しました。
中国人はもっと新しいホテルを進めましたが、
いや!大和ホテルだと主張しましたよ。
確か日露戦争の後、紆余曲折あるようですが、
私が一番感銘受けたのは食堂の窓ガラスです。
戦前の建物にはめ込まれていた波打ったガラスです。
大事に使っているんだなと感無量でした。
話は外れますが、昔代々木の古賀政男記念館の戦前の建物や
青梅の作家吉川英治邸もそんなガラスでした。
ヤマトホテル - Wikipedia
年月は違いますが、オールドジャズバンドで有名な
上海の和平飯店にも泊まったことがあります。

中山広場の一番目立つところにある大和ホテル、
しかし、屋上に電光広告が乗っています。
興覚めです。
広場では中国人が連日太極拳やダンスに興じています。
中国各地で朝早く老人が集まって遊戯や太極拳をやるのは
子孫繁栄の意味があると村田春樹さんに教わりました。
昔は日本も中国も庶民は夫婦の部屋と言うものはなくて狭い部屋に雑魚寝が普通だったので老人は朝早く外出するのが当たり前だったそうです。
その間に若夫婦は子作りにはげんでいたそうです。
そうするとそんな習慣のない日本の若夫婦はいつ小作りするので
しょうか。

連日集団で集っています

広場の周りには戦前の趣のある建物群でしたが、
後ろは高層ビルが林立していました。
大連から飛行機で渤海湾を越えて秦皇島に行きました。
秦皇島では夏休みなので燕山大学の先生がガイドを
務めてくれました。
昔父は日系の長城炭坑に務め、
長い赤レンガで囲まれ門番のいる門を入つた所に
赤レンガの社宅がありました。
だから残っていると期待していましたが、
それらしいのもありましたしたが、
しょぼくれた建物しかありませんでした。
炭坑も長城炭坑だったと言う炭坑事務所に行ってみました。
この辺りの炭鉱は殆ど休業状態でした。
つくづく父が生きているときに一緒に来ればよかったと
思いました。
親孝行したいときには親は亡し!
秦皇島
秦皇島は渤海湾に面してかの有名な万里の長城が始まる処です。

上左の写真は旅順、他は万里の長城の始まり
令和4年6月18日(土)曇り
世話好きで人脈が広い。
「私が日本に住む理由」BSテレビ東京に出るので
バイマ―ヤンジンさんは日本で歌手活動や講演会で稼いだお金で
チベットに何校も小学校を建てているそうです。
最近はコロナのせいで演奏会や講演会に呼ばれなくなった
そうなので最近ライオンズクラブの会合に呼んだそうです。
皆無だったらしくて、彼はヤンジンさんに申し訳ないことをしたと後悔しています。
誠実な日本人男性に巡り合ってよかったね、etc、etc。
支那に占領された国の惨めさをまざまざとみました。
一世紀程前に日本は台湾、朝鮮を植民地化して朝鮮人を奴隷の
ような地位に落としたと、いまだに責められていますが、
企画しました、6人集めたら実施しますと旅行会社に言われ、
必死で7人集めて催行しました。
私も若かった50代前半の頃です。

赤線が行程、砂漠の真ん中の集落はまるで異世界でした、


和平飯店に泊まりOLD JAZZ BARでジャズを聴きたかったので
上海回りにして頂きました。
平均年齢はなんと80歳だそう。年齢を感じさせない力強い演奏です。
1994年8月20日~9月10日までの20日間、

第1回目のラクダでタクラマカン横断の旅、
バブル真っ最中で円がとても強い時代、日本人が円を片手に世界を風切って闊歩していた時代です、この時は総勢60名、人民解放軍が車両、装備、人員を提供して(国に金がないから軍は軍で稼げと言う方針だった)大掛かりでした。
ウイグル人は人がいいのです、
日本人とどっこいどっこいでしょうね。
風穴を見付けたらどっと入り込みます
さすが人の好いウイグル人も我慢の限界が来ます。
原住民を鎮圧します。
大和民族が支那人に敵うわけがないでしょう。
令和3年3月22日(月)どんより
宿泊して綿花畑から頂いて来たものです。
鄙びた通りを歩くと妙な音が聞こえてきました。
音でした。
古綿の打ち直し屋さんで遊びに行くと物珍しく見ておりました。
昭和20年代でも機械化していましたよ。
タクラマカン砂漠は2回行きました、
1回目は敦煌~チャリクリクまで山岳地帯をラクダで行きました。
チャリクリクから人民解放軍の車でコルラ、ウルムチまで行きました。そこから希望者だけで10日間カシュガルまで飛行機で
いきました。
2回目は2年後にランドクルーザーで一周しました、
赤丸印が宿泊したオアシスです。

2回目は私が発案して旅行社にお願いしましたが、客は自分で集めること(後記:最低6名、結局7名参加)になりました、これが一番大変で、賛同者の方が印刷関係の仕事をしていましたのでチラシを作ってくれました、当時パソコンのパの字も知らない頃です。このチラシをあちこち貼りましたが、効果はありませんでした、何しろ20日も仕事休める人はまれでしたから、
隣のリフォーム工事がほぼ終わり家人がいましたので見せて貰い
ワインを御馳走になりましたら、
早々にお暇しました。
[462] 帰国しました 2007.6.13 22:11:30

癒しの旅。
保証の限りではない。
殆ど土産屋巡りのようだった、
少林寺拳法見物だと言って 怪しげな漢方薬屋に閉じこめられたり、
こんなひどい目にあって黙っているような「玉」では無かった。
私などレポート用紙2枚書いたし、
わざわざ窓口まで苦情を言いに行った人も居た。
思い続けていたわ。
まっ暑いらしいからそれも良いかと。
[405] ただいま 2007.2.17 18:13:38
19/2/17(土)晴れ
405


「アイランドホッピング」ツアー客が来て遊ぶ、
入島料は島民の福利厚生の為に積み立てられる。
一人15,000円のツアーだって。
奥は住宅密集している部落「ラウイス」
昔漁業が生業だった時は便利だった。
小学校もあり言わば山の手だ。
408

好きな写真です。

この船で送迎してくれる。
何時もはリーフの所までジャブジャブ歩くのだ。

さすがに熱帯と言えども風が吹くと寒い。
それこそ上下左右から吹いて来る。
薬を飲もうとしたら2錠も床下に落ちたわ。

隔週で随筆を書いておられるが、昨日の記事で私が島にいた時、
マルコスと言う長老が亡くなり、

空撮の写真は熊切圭介氏の撮影です。
崎山さんと熊切さんは仲良しです。
最近訃報を知りました。
熊切圭介さん27日、誤嚥性肺炎のため死去、86歳。
東京都出身。葬儀は家族のみで執り行う。
喪主は写真家で長男の大輔さん。
カオハガン島、それはフィリピンのセブ島の南10 キロの
オランゴ環礁の中にある小さな島です。
私の友人でもある崎山克彦氏が1991年にその島を購入しました。
崎山氏が島民をサポートし豊かになった島の姿、
島民の暮らしを熊切圭介は
約20 年に渡って撮影を続けてきました。
しかし長年撮影をしてきた作品を被写体である島民の人々が目に
することができていませんでした。
そこで思いついたのが現地、カオハガン島での写真展開催です。
周囲2kmほどの島には、もちろん写真展会場などありません。
そこで現地の子供達が通う学校の通学路、通称「天使の小径」に
飾り付けることになりました。
小径に連なる木々にロープを張り、そこに吊るして展示した作品に写っている島の様子は現在とは違い、木々もまばらで今の子供たちにとっては見たことのない風景でした。
写っている人々は子供たちの両親がまだまだ若い頃。
そんな写真を不思議そうに、楽しそうに見つめる島民たちの表情は忘れることができません。
そんな「天使の小径の写真展」の様子を日本の皆さんにも体験して頂きたく、本写真展を開催致します。
展示は天使の小径のように木々に括り付けたような展示方法を
再現致します。
また当時の展示の様子、島の様子を息子である写真家の熊切大輔が写した作品と合わせて、カオハガン島の空気を感じて頂ければと思います。

私を待っている「カオハガン島」
あれこれ手筈を整えてくれました。
いや もとい 育てとくもんです。
その韓流スターは「パク・ヨンハ」
もし一日遅れていたら私達しばらく帰国出来なかっただろう。
私が出費したのは自分用のみやげ物と「さんご&もんち」のホテル代7泊分51,450円だけでした。
[359] ハワイの旅(マラサダはいかが) 2006.12.28 23:53:41 12/12/28(木)晴れ 穏か

マラサダ 6個で3ドル94セントだった
西に東に飛び回ろうと出かけた。1台5ドルである。
だからレナーズは老舗である。
危険じゃないの。
言った。
私は必死でもと来た道を辿る。
JAL窓口は5時でクローズするそうだし、
不安になる。
気分も不味く娘捨てた。

哀れ、「クアアイナ」のハンバーガー、このままホテルの屑篭へ
一風呂浴びて、気を取り直して6時にトロリーバス(バス代フリー)で「アラモアナセンター」まで行き、
お腹も空いたので何処にしようかなと思っていたら、
最後の夜を過ごす。
アンデスの音楽「コンドルは飛んでいく」ではないか、

カラカウア通りのマッサージ師、
ふざけながら、楽しそうに、遊んでいる
[349] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.19 22:21:47 18/12/19(火)曇り

"裏方ツアー”証明書
”バック オブ ザ ハウス”ツアーが催行される。
調理場、ケーキ室、花屋、洗濯工場、印刷室、従業員食堂、
在庫室等あらゆる場所をフリーパスで案内してくれる。
ルームサービスはスマイル民族のフイリッピン人が
多いようでした。
記念写真を撮り彼女のサインで証明書発行と至れりつくせり
でした。
[351] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21 22:56:02

上等な席、ハワイでは海が見えると言うのが重要である。
14名定員の個室では窓側の席が海が見えないので壁に鏡が貼って
あったが、昔の造りのせいか一枚ガラスではなく細長い鏡で
たいした眺めではないと思われるが、それでも、、、
[352] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21 23:07:50

印刷室、
「マイハズバンドもプリントファクトリーなんたらかんたら、、、、」と
訳わからん言葉を並べたら、
どうやら片言の日本語がわかる日系人らしく、
嬉しそうに応対して下さった。
もう少しお話したかったが、ツアーに遅れるので、残念であった。
[353] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21 23:12:41

メインロビーの巨大な生け花、

「キングプロテア」
[347] ハワイの旅(マノア渓谷ハイキングツアー) 2006.12.17 23:35:20

マノア渓谷トレッキング、先頭がカイルさん

マノア滝ハイキング、1人55ドルであった。
私達が幸運なような話しぶりであった。
中年の男性である。
お聞きしたら、父は日系2世、母は白人のハーフだそうです。
自信に溢れた方です。
お聞きしたら父は日本語はまったく話せませんでした。
因みに奥さんは日本人のようです。
豊富な雨のお陰でうっそうと茂るジャングル
説明をしてくれます。
目に付くゴミを拾います。
私にも楽勝でした。
注意されるまでも無く危険そうでした。
「マノアチャイニーズセメタリー」
良い墓地です。
興味のある方は
どうぞ「アロハアイナ通信」など。
飲みながらカノエミラーさんのフラと夕日を堪能しました。
あまりお腹も空いていなかったので
[324] パンケーキ 2006.11.1 21:28:56

このまま歩いて行こうと言う。
なかなか繁盛していた。
なんだ行列の好きな日本人が行列しているんだな。
[325] クヒオ・ビーチでハワイアンショウ 2006.11.1 23:49:36

食べた。
[326] サンセット・オン・ザ・ビーチ 2006.11.1 23:52:40

私って、好きよねぇ
[327] 可愛いダンサー 2006.11.1 23:59:55

すらりとした白人の若い女性二人に囲まれて
小さな先住おばあさんダンサー

ハレクラニのサンセット
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1週間前からって、28日(土)に医者に連れて行ったばかりじゃないの。
まさに。

さ~~ あの頂上目指して登るぞ~~

こんなトンネルを通って
[318] ダイヤモンド登山 2006.10.31 23:23:42

こ~~んな階段を登って
[319] ダイヤモンド登山 2006.10.31 23:32:21

こ~~んな所をくぐって、なんせ要塞でしたから
[320] ダイヤモンド登山 2006.10.31 23:34:22

頂上だ~~ ばんざ~~い

「絶景かな」ワイキキ方面 ピンクパレスも頑張っているね
[322] ダイヤモンド登山 2006.10.31 23:40:42

ダイヤモンドの反対側、耕して天に至る、じゃなかった、
都心に住みたいよ~~

噴火口の中
本当に暑かったです。
とても重宝でした。
ここからは外輪山の向こうに海が見えました。
ケーブルの台座だったそうです。
ぐるりと展望出来ます。
[313] 秘宿「ブレーカーズホテル」の「鮨好」 2006.10.30 22:48:22 18/10/30(月)晴れ、穏やかな秋晴れ

「鮨好」は外人客が多い、75,15ドル(9,142円也)であった
そのダサさとひと気のなさに驚いた。
よかったわ。
親父は言う。
心身の疲れた方はのんびり療養をお勧めします。
[315] ブレーカーズホテル見学 2006.10.30 23:24:54


「鮨好」店内(?)店外かな、
ハワイって1年中冷暖房が要らないのね。
[310] サイクリングツアー 2006.10.30 00:05:26

さっそうとしゅっぱ~~つ
喫茶店で「マンゴスムージー10ドル」を注文したが、
[311] ダイヤモンドエリア 2006.10.30 00:53:36

えっちら、おっちら、登りきったぞ~~ 最高地点で
それは考証違い。
[312] おまけ 2006.10.30 00:58:36

日本では歩道を走行しているので、
幹線道路を車と一緒に走行するのは怖いです。
[305] 「ハウス・ウイズ・アウト・キー」でディナー 2006.10.29 22:02:50

第一日目の夕食
18/10/9(月)夕方の行動
今夜は夕立のせいで室内で演じられた。
大笑いよ。
[309] いたるところ、気を貰う 2006.10.29 22:58:54

「シェラトン・モアナ・サーフライダーホテル」のバニヤンの樹はホテル建設時の1918年以前からの主。このバニヤンの樹を中心に「バニヤンコート」が作られ、
[308] シェラトン・モアナ・サーフライダーのフラ 2006.10.29 22:33:40

今夜の「モアナサーフライダーホテル」のフラダンサーは素朴な感じの女性、見物客も少なくて立ち去れなかった。
[307] 優雅にハワイ 2006.10.29 22:17:52

カノエ・ミラーさんとハイチーズ
[306] チップ計算表 2006.10.29 22:10:59

多分、日本人だけが頂くんだろうな「裏表をコピー」
[304] ♪あぁあ~あ あこがれ~のハワイ~航路♪ 2006.10.29 01:07:50

DFS」にてアクアマッサージ、14分20ドル

[279] カオハガンキルト① 2006.7.29 23:52:03

我が家のカオハガンキルト、オランゴ環礁の海の魚達

居間に広げたら「さんご」が早速寝転ぶ、
「もんち」は頓着しない、

島のいたるところでキルト作業をしているが、やはり島民の家は狭い、去年、キルトの売り上げから拠出したお金で「キルトの家」が造られた。

数ヶ月掛けて出来上がるので、やはり汚れている。
出来上がると洗う。

人気作家エルニン、
過去記事掃除が出来ないお年頃になりました)

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コメンダドール女史の家で3回目(2006年2月)の訪島時、
大変ご無沙汰をして申し訳ございません。

雲上の日没(フィリピンエアライン機上)

働くプレド


カオハガン島ポントグ(島の西端の砂州)の日没

ボス犬、目は黄色、この色、日本では珍しい
mamasango672
さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!