おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

旅(海外)

変りたい


令和6年9月19日(木)曇り後雨

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ポテサラ胡瓜トースト
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午後2時に包括支援センターと通所リハビリの管理者が
説明と契約に見えた。
正式に契約しましたので来週から火金午前中に通所します。
夕焼け

娘が自分用の食べ物を買って来ました。
私に構わずビールを開けて食べ始めました。
納豆ご飯、餃子、粗食です。
明日からホーチミンだって、
ホーチミンはかなり昔に娘と行きましたが、
当時と現在、あまり変ってないそうです。
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変ったのはわたし!!


富士登山で思い出す事(追記あり)


令和5年8月19日(土)晴れ

昨夜何気にテレビを見ていたら昨今の富士登山の 有様だった。
なんと原宿竹下通り(最近行ってないけど)並みの混雑だった。
これじゃ事故も起きるよね。

私は良い時に行ったもんだわ。
時は昭和30年代終わり頃、そうだあの八が岳に行った頃だったわ。
沖電気に務めていた友人を誘って二人で登ったんだわ、
若かったね。

新宿から富士山5合目までバスで行ってそこから登り始めて
8合目の山小屋で仮眠してご来迎を頂上で拝む予定だった、
ツアーだったか個人旅行だったか覚えていない。

友人は8合目でダウンしてもうこれ以上登れないと言うので
私も具合は悪かったが一人で登った。
夜明け前にふらふらしながら登りました。

ときどきリュックを背にして休みます、
息が静まり目を開けると満点の星でした。
下の方まで広がっていました、ああこの星空は平安時代の人達も
眺めたんだろうなと感動しました、
なぜ平安時代だったかは思い出せない。

やっと頂上までたどり着きましたが、私も生まれて初めての高山病になりふらふらであたりを楽しむゆとりはありませんでした。
折角来たんだから初期の目的はなんとしても果たすと必死でした。
周りを見渡すと子供がまるでグランドを走るように走り回って
います。

その時私は高山病になりやすい体質だと悟ったんですが、
その何十年後タクラマカン砂漠をランドクルーザーで一周した時
天山山脈(タクラマカン砂漠の北側)とアルキン山脈(南側)を4WDで一気に駆け上がったので重篤な高山病になった。

私以外は皆さん平気でしたが、私のせいで直ぐに下山することに
なりました。
下に降りたらすっと治りました。
その後の旅程で目が霞んでよく見えない状態になり帰国後眼科に
行きましたら「あら~左目眼底出血している~」と女医さんに
言われました。それ以来左目は何度もレーザーで治療しました。

50代前半(確か53歳)の頃でした。
この旅は私が思いつき小さなアドベンチャー旅行を得意とする会社に依頼して6人集めたら催行しますと言われて日本全国の知り合いに呼びかけました、この人集めが一番大変な事でした、何しろ一か月近く休める日本人は当時あまり居ませんでしたからね。
娘が見かねて諦めたらと言いましたが、いや絶対にやるっ!と
宣言しましたよ。私は凝り性なんです。
確か費用は70万位だったと思う。

この時悟ったことがあります。
人集めで誰彼構わず声をかけていましたが、反応なし、
その時はっと気が付きました。
魚釣りでは「魚影の濃い所に竿を差す」べしと、
それで前回砂漠に行ったグループに声を掛けたらたちまち
6人集まりました、総勢7人で催行しました。
しかしその旅で私は気を使い過ぎて疲れ果てましたね。
純粋に楽しめませんでした。
呼び掛け人として責任を一身に背負った気がしました。
旅は気楽に参加する方が楽しめる。

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タクラマカン砂漠一周5800㌔走破、
日本列島の長さだと言われていました、オアシスの旅舎で泊り、
宿の無い場所ではテント泊り、砂漠は車は必ず複数で行きます。
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アルバムから(3冊あります)





遥かなる満州


左面
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以下は大分旧聞になりますが、
こんな呼び掛けをしている方がいました。
期待通りに事は運んだんでしょうかね。
大連1
大連③

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所で私は22年前、平成13年(2001年)に大連、旅順、秦皇島を
訪問しました。
当時我が社でアルバイトしていた大連出身の中国人(満州族)を
案内人にして娘と行きました。
戦前秦皇島に住んでいたことがありましたので面影を求めて行ってみました。

大連ではかの憧れの大和ホテルに宿泊しました。
中国人はもっと新しいホテルを進めましたが、
いや!大和ホテルだと主張しましたよ。

確か日露戦争の後、紆余曲折あるようですが、
私が一番感銘受けたのは食堂の窓ガラスです。
戦前の建物にはめ込まれていた波打ったガラスです。
大事に使っているんだなと感無量でした。

話は外れますが、昔代々木の古賀政男記念館の戦前の建物や
青梅の作家吉川英治邸もそんなガラスでした。
ヤマトホテル - Wikipedia

年月は違いますが、オールドジャズバンドで有名な
上海の和平飯店にも泊まったことがあります。

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中山広場の一番目立つところにある大和ホテル、
しかし、屋上に電光広告が乗っています。
興覚めです。

広場では中国人が連日太極拳やダンスに興じています。
中国各地で朝早く老人が集まって遊戯や太極拳をやるのは
子孫繁栄の意味があると村田春樹さんに教わりました。

昔は日本も中国も庶民は夫婦の部屋と言うものはなくて狭い部屋に雑魚寝が普通だったので老人は朝早く外出するのが当たり前だったそうです。
その間に若夫婦は子作りにはげんでいたそうです。
そうするとそんな習慣のない日本の若夫婦はいつ小作りするので
しょうか。
2
連日集団で集っています
3

広場の周りには戦前の趣のある建物群でしたが、
後ろは高層ビルが林立していました。

大連から飛行機で渤海湾を越えて秦皇島に行きました。
秦皇島では夏休みなので燕山大学の先生がガイドを
務めてくれました。

昔父は日系の長城炭坑に務め、
長い赤レンガで囲まれ門番のいる門を入つた所に
赤レンガの社宅がありました。
だから残っていると期待していましたが、
それらしいのもありましたしたが、
しょぼくれた建物しかありませんでした。
炭坑も長城炭坑だったと言う炭坑事務所に行ってみました。
この辺りの炭鉱は殆ど休業状態でした。
つくづく父が生きているときに一緒に来ればよかったと
思いました。
親孝行したいときには親は亡し!

秦皇島
秦皇島は渤海湾に面してかの有名な万里の長城が始まる処です。
秦皇島
上左の写真は旅順、他は万里の長城の始まり





今日のチベットは明日の日本


 令和4年6月18日(土)曇り


8-9
10-11
12-13

体操会の会長さんはゆとりのある功成り名遂げた典型的な方、
世話好きで人脈が広い。
先日支援しているチベット人歌手が
「私が日本に住む理由」BSテレビ東京に出るので
是非見てくれとのお話がありました。

バイマ―ヤンジンさんは日本で歌手活動や講演会で稼いだお金で
チベットに何校も小学校を建てているそうです。
会長さんはバイヤーマンジンさんを数十年前から支援しているそうです。

最近はコロナのせいで演奏会や講演会に呼ばれなくなった
そうなので最近ライオンズクラブの会合に呼んだそうです。
しかし参席者達は興味がなくざわついて歌も話も聞いてくれる方
皆無だったらしくて、彼はヤンジンさんに申し訳ないことをしたと後悔しています。

テレビを観て感じることは人それぞれだと思います。
頑張り屋さんだな、人の縁に恵まれている方だな、
誠実な日本人男性に巡り合ってよかったね、etc、etc。
しかし私はみました。

テレビではその件については一言も言及されませんでしたが
支那に占領された国の惨めさをまざまざとみました。

一世紀程前に日本は台湾、朝鮮を植民地化して朝鮮人を奴隷の
ような地位に落としたと、いまだに責められていますが、
支那人と違うところは日本人は現地教育に力を入れ福利厚生を
内地並みに、社会資源に内地以上にお金をつぎ込んで、
つまり植民地経営では赤字だったのです。


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1992年9月12日にラクダでタクラマカン砂漠を横断する旅に参加して、2年後に私が発案して今度は4WDで砂漠を一周する旅を
企画しました、6人集めたら実施しますと旅行会社に言われ、
必死で7人集めて催行しました。
私も若かった50代前半の頃です。
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赤線が行程、砂漠の真ん中の集落はまるで異世界でした、
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①
和平飯店に泊まりOLD JAZZ BARでジャズを聴きたかったので
上海回りにして頂きました。
「OLD JAZZ BAR」という名前の通り、演奏者も熟年の方揃い。
平均年齢はなんと80歳だそう。年齢を感じさせない力強い演奏です。


私は1992年9月12日~10月17日までの35日間と
1994年8月20日~9月10日までの20日間、
合計55日間をウイグルで過ごしました。
そこで今に至る兆候をまざまざとみました。
2
第1回目のラクダでタクラマカン横断の旅、
バブル真っ最中で円がとても強い時代、日本人が円を片手に世界を風切って闊歩していた時代です、この時は総勢60名、人民解放軍が車両、装備、人員を提供して(国に金がないから軍は軍で稼げと言う方針だった)大掛かりでした。


ウイグル人は人がいいのです、
日本人とどっこいどっこいでしょうね。
支那人はそこへ巧みに入り込みます。
最初は腰を低くしてへりくだって入り込みます。
支那人は人民弾と言われるくらい人民が余ってますから、
風穴を見付けたらどっと入り込みます

そのうちに50%を越えたら本性を現します。
さすが人の好いウイグル人も我慢の限界が来ます。
現地人と支那人の間に諍いが生じます。
するとそこへ治安鎮圧と称して支那軍が入り込み
原住民を鎮圧します。
それが支那のやり口です。
いま日本はその入り口にあります。

お人良しでは強い民族に巻かれてしまいます。
そのうちに日本人もウイグル人と同じように下流民になります。
支那人は大陸で絶えず生存を掛けた戦をして来た民族です。
海に守られて穏やかに人と争わないのが良き習俗としてきた
大和民族が支那人に敵うわけがないでしょう。
支那人だけはこれ以上日本に入れてはなりません。
断じて!!

チベット人バイマ―ヤンジンさん
「私が日本に住む理由」BSテレビ東京、6月15日放送




心臓不調


令和3年3月22日(月)どんより

今日は午後から久しぶりの園芸を致しました。
古い土に石灰を入れて再生しておりましたが、お彼岸も過ぎたので
花材だった枝に根が出たので植木鉢に植えました。
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花材だった綿花も種を蒔こうかと思いましたが、ネットでみると発芽適温が20~25度と高いので5月上・中旬が良いとありましたので
今日は止めときました。
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綿花栽培は以前したことがあります。
その時の種は昔タクラマカン砂漠のオアシスのチャリクリクで
宿泊して綿花畑から頂いて来たものです。
チャリクリクは綿花栽培がさかんでした。

鄙びた通りを歩くと妙な音が聞こえてきました。
それは綿をほぐすために台の上に乗せた綿花を棒で叩いている
音でした。
そう言えば思い出しましたが、子供の頃友達の家が
古綿の打ち直し屋さんで遊びに行くと物珍しく見ておりました。
綿埃がすごかった、
昭和20年代でも機械化していましたよ。


タクラマカン砂漠は2回行きました、
1回目は敦煌~チャリクリクまで山岳地帯をラクダで行きました。
チャリクリクから人民解放軍の車でコルラ、ウルムチまで行きました。そこから希望者だけで10日間カシュガルまで飛行機で
いきました。
地図2
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2回目は2年後にランドクルーザーで一周しました、
赤丸印が宿泊したオアシスです。

お誘いチラシ

2回目は私が発案して旅行社にお願いしましたが、客は自分で集めること(後記:最低6名、結局7名参加)になりました、これが一番大変で、賛同者の方が印刷関係の仕事をしていましたのでチラシを作ってくれました、当時パソコンのパの字も知らない頃です。このチラシをあちこち貼りましたが、効果はありませんでした、何しろ20日も仕事休める人はまれでしたから、

今日は一日中心臓が不調でした。
夕食にうどんが食べたくなりましたので買い物がてら散歩に行きました。
なんとか無事にやり遂げました。

隣のリフォーム工事がほぼ終わり家人がいましたので見せて貰い
ワインを御馳走になりましたら、
床暖のせいか酔いが回り又心臓がおかしくなり、
早々にお暇しました。
だから夕食は支度しません。

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今日の歩数4226歩 2,9㌔

プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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