おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

旅(海外)

変りたい


令和6年9月19日(木)曇り後雨

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ポテサラ胡瓜トースト
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午後2時に包括支援センターと通所リハビリの管理者が
説明と契約に見えた。
正式に契約しましたので来週から火金午前中に通所します。
夕焼け

娘が自分用の食べ物を買って来ました。
私に構わずビールを開けて食べ始めました。
納豆ご飯、餃子、粗食です。
明日からホーチミンだって、
ホーチミンはかなり昔に娘と行きましたが、
当時と現在、あまり変ってないそうです。
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変ったのはわたし!!


富士登山で思い出す事(追記あり)


令和5年8月19日(土)晴れ

昨夜何気にテレビを見ていたら昨今の富士登山の 有様だった。
なんと原宿竹下通り(最近行ってないけど)並みの混雑だった。
これじゃ事故も起きるよね。

私は良い時に行ったもんだわ。
時は昭和30年代終わり頃、そうだあの八が岳に行った頃だったわ。
沖電気に務めていた友人を誘って二人で登ったんだわ、
若かったね。

新宿から富士山5合目までバスで行ってそこから登り始めて
8合目の山小屋で仮眠してご来迎を頂上で拝む予定だった、
ツアーだったか個人旅行だったか覚えていない。

友人は8合目でダウンしてもうこれ以上登れないと言うので
私も具合は悪かったが一人で登った。
夜明け前にふらふらしながら登りました。

ときどきリュックを背にして休みます、
息が静まり目を開けると満点の星でした。
下の方まで広がっていました、ああこの星空は平安時代の人達も
眺めたんだろうなと感動しました、
なぜ平安時代だったかは思い出せない。

やっと頂上までたどり着きましたが、私も生まれて初めての高山病になりふらふらであたりを楽しむゆとりはありませんでした。
折角来たんだから初期の目的はなんとしても果たすと必死でした。
周りを見渡すと子供がまるでグランドを走るように走り回って
います。

その時私は高山病になりやすい体質だと悟ったんですが、
その何十年後タクラマカン砂漠をランドクルーザーで一周した時
天山山脈(タクラマカン砂漠の北側)とアルキン山脈(南側)を4WDで一気に駆け上がったので重篤な高山病になった。

私以外は皆さん平気でしたが、私のせいで直ぐに下山することに
なりました。
下に降りたらすっと治りました。
その後の旅程で目が霞んでよく見えない状態になり帰国後眼科に
行きましたら「あら~左目眼底出血している~」と女医さんに
言われました。それ以来左目は何度もレーザーで治療しました。

50代前半(確か53歳)の頃でした。
この旅は私が思いつき小さなアドベンチャー旅行を得意とする会社に依頼して6人集めたら催行しますと言われて日本全国の知り合いに呼びかけました、この人集めが一番大変な事でした、何しろ一か月近く休める日本人は当時あまり居ませんでしたからね。
娘が見かねて諦めたらと言いましたが、いや絶対にやるっ!と
宣言しましたよ。私は凝り性なんです。
確か費用は70万位だったと思う。

この時悟ったことがあります。
人集めで誰彼構わず声をかけていましたが、反応なし、
その時はっと気が付きました。
魚釣りでは「魚影の濃い所に竿を差す」べしと、
それで前回砂漠に行ったグループに声を掛けたらたちまち
6人集まりました、総勢7人で催行しました。
しかしその旅で私は気を使い過ぎて疲れ果てましたね。
純粋に楽しめませんでした。
呼び掛け人として責任を一身に背負った気がしました。
旅は気楽に参加する方が楽しめる。

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タクラマカン砂漠一周5800㌔走破、
日本列島の長さだと言われていました、オアシスの旅舎で泊り、
宿の無い場所ではテント泊り、砂漠は車は必ず複数で行きます。
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アルバムから(3冊あります)





遥かなる満州


左面
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以下は大分旧聞になりますが、
こんな呼び掛けをしている方がいました。
期待通りに事は運んだんでしょうかね。
大連1
大連③

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所で私は22年前、平成13年(2001年)に大連、旅順、秦皇島を
訪問しました。
当時我が社でアルバイトしていた大連出身の中国人(満州族)を
案内人にして娘と行きました。
戦前秦皇島に住んでいたことがありましたので面影を求めて行ってみました。

大連ではかの憧れの大和ホテルに宿泊しました。
中国人はもっと新しいホテルを進めましたが、
いや!大和ホテルだと主張しましたよ。

確か日露戦争の後、紆余曲折あるようですが、
私が一番感銘受けたのは食堂の窓ガラスです。
戦前の建物にはめ込まれていた波打ったガラスです。
大事に使っているんだなと感無量でした。

話は外れますが、昔代々木の古賀政男記念館の戦前の建物や
青梅の作家吉川英治邸もそんなガラスでした。
ヤマトホテル - Wikipedia

年月は違いますが、オールドジャズバンドで有名な
上海の和平飯店にも泊まったことがあります。

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中山広場の一番目立つところにある大和ホテル、
しかし、屋上に電光広告が乗っています。
興覚めです。

広場では中国人が連日太極拳やダンスに興じています。
中国各地で朝早く老人が集まって遊戯や太極拳をやるのは
子孫繁栄の意味があると村田春樹さんに教わりました。

昔は日本も中国も庶民は夫婦の部屋と言うものはなくて狭い部屋に雑魚寝が普通だったので老人は朝早く外出するのが当たり前だったそうです。
その間に若夫婦は子作りにはげんでいたそうです。
そうするとそんな習慣のない日本の若夫婦はいつ小作りするので
しょうか。
2
連日集団で集っています
3

広場の周りには戦前の趣のある建物群でしたが、
後ろは高層ビルが林立していました。

大連から飛行機で渤海湾を越えて秦皇島に行きました。
秦皇島では夏休みなので燕山大学の先生がガイドを
務めてくれました。

昔父は日系の長城炭坑に務め、
長い赤レンガで囲まれ門番のいる門を入つた所に
赤レンガの社宅がありました。
だから残っていると期待していましたが、
それらしいのもありましたしたが、
しょぼくれた建物しかありませんでした。
炭坑も長城炭坑だったと言う炭坑事務所に行ってみました。
この辺りの炭鉱は殆ど休業状態でした。
つくづく父が生きているときに一緒に来ればよかったと
思いました。
親孝行したいときには親は亡し!

秦皇島
秦皇島は渤海湾に面してかの有名な万里の長城が始まる処です。
秦皇島
上左の写真は旅順、他は万里の長城の始まり





今日のチベットは明日の日本


 令和4年6月18日(土)曇り


8-9
10-11
12-13

体操会の会長さんはゆとりのある功成り名遂げた典型的な方、
世話好きで人脈が広い。
先日支援しているチベット人歌手が
「私が日本に住む理由」BSテレビ東京に出るので
是非見てくれとのお話がありました。

バイマ―ヤンジンさんは日本で歌手活動や講演会で稼いだお金で
チベットに何校も小学校を建てているそうです。
会長さんはバイヤーマンジンさんを数十年前から支援しているそうです。

最近はコロナのせいで演奏会や講演会に呼ばれなくなった
そうなので最近ライオンズクラブの会合に呼んだそうです。
しかし参席者達は興味がなくざわついて歌も話も聞いてくれる方
皆無だったらしくて、彼はヤンジンさんに申し訳ないことをしたと後悔しています。

テレビを観て感じることは人それぞれだと思います。
頑張り屋さんだな、人の縁に恵まれている方だな、
誠実な日本人男性に巡り合ってよかったね、etc、etc。
しかし私はみました。

テレビではその件については一言も言及されませんでしたが
支那に占領された国の惨めさをまざまざとみました。

一世紀程前に日本は台湾、朝鮮を植民地化して朝鮮人を奴隷の
ような地位に落としたと、いまだに責められていますが、
支那人と違うところは日本人は現地教育に力を入れ福利厚生を
内地並みに、社会資源に内地以上にお金をつぎ込んで、
つまり植民地経営では赤字だったのです。


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1992年9月12日にラクダでタクラマカン砂漠を横断する旅に参加して、2年後に私が発案して今度は4WDで砂漠を一周する旅を
企画しました、6人集めたら実施しますと旅行会社に言われ、
必死で7人集めて催行しました。
私も若かった50代前半の頃です。
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赤線が行程、砂漠の真ん中の集落はまるで異世界でした、
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①
和平飯店に泊まりOLD JAZZ BARでジャズを聴きたかったので
上海回りにして頂きました。
「OLD JAZZ BAR」という名前の通り、演奏者も熟年の方揃い。
平均年齢はなんと80歳だそう。年齢を感じさせない力強い演奏です。


私は1992年9月12日~10月17日までの35日間と
1994年8月20日~9月10日までの20日間、
合計55日間をウイグルで過ごしました。
そこで今に至る兆候をまざまざとみました。
2
第1回目のラクダでタクラマカン横断の旅、
バブル真っ最中で円がとても強い時代、日本人が円を片手に世界を風切って闊歩していた時代です、この時は総勢60名、人民解放軍が車両、装備、人員を提供して(国に金がないから軍は軍で稼げと言う方針だった)大掛かりでした。


ウイグル人は人がいいのです、
日本人とどっこいどっこいでしょうね。
支那人はそこへ巧みに入り込みます。
最初は腰を低くしてへりくだって入り込みます。
支那人は人民弾と言われるくらい人民が余ってますから、
風穴を見付けたらどっと入り込みます

そのうちに50%を越えたら本性を現します。
さすが人の好いウイグル人も我慢の限界が来ます。
現地人と支那人の間に諍いが生じます。
するとそこへ治安鎮圧と称して支那軍が入り込み
原住民を鎮圧します。
それが支那のやり口です。
いま日本はその入り口にあります。

お人良しでは強い民族に巻かれてしまいます。
そのうちに日本人もウイグル人と同じように下流民になります。
支那人は大陸で絶えず生存を掛けた戦をして来た民族です。
海に守られて穏やかに人と争わないのが良き習俗としてきた
大和民族が支那人に敵うわけがないでしょう。
支那人だけはこれ以上日本に入れてはなりません。
断じて!!

チベット人バイマ―ヤンジンさん
「私が日本に住む理由」BSテレビ東京、6月15日放送




心臓不調


令和3年3月22日(月)どんより

今日は午後から久しぶりの園芸を致しました。
古い土に石灰を入れて再生しておりましたが、お彼岸も過ぎたので
花材だった枝に根が出たので植木鉢に植えました。
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花材だった綿花も種を蒔こうかと思いましたが、ネットでみると発芽適温が20~25度と高いので5月上・中旬が良いとありましたので
今日は止めときました。
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綿花栽培は以前したことがあります。
その時の種は昔タクラマカン砂漠のオアシスのチャリクリクで
宿泊して綿花畑から頂いて来たものです。
チャリクリクは綿花栽培がさかんでした。

鄙びた通りを歩くと妙な音が聞こえてきました。
それは綿をほぐすために台の上に乗せた綿花を棒で叩いている
音でした。
そう言えば思い出しましたが、子供の頃友達の家が
古綿の打ち直し屋さんで遊びに行くと物珍しく見ておりました。
綿埃がすごかった、
昭和20年代でも機械化していましたよ。


タクラマカン砂漠は2回行きました、
1回目は敦煌~チャリクリクまで山岳地帯をラクダで行きました。
チャリクリクから人民解放軍の車でコルラ、ウルムチまで行きました。そこから希望者だけで10日間カシュガルまで飛行機で
いきました。
地図2
クリックすると大きくなります

2回目は2年後にランドクルーザーで一周しました、
赤丸印が宿泊したオアシスです。

お誘いチラシ

2回目は私が発案して旅行社にお願いしましたが、客は自分で集めること(後記:最低6名、結局7名参加)になりました、これが一番大変で、賛同者の方が印刷関係の仕事をしていましたのでチラシを作ってくれました、当時パソコンのパの字も知らない頃です。このチラシをあちこち貼りましたが、効果はありませんでした、何しろ20日も仕事休める人はまれでしたから、

今日は一日中心臓が不調でした。
夕食にうどんが食べたくなりましたので買い物がてら散歩に行きました。
なんとか無事にやり遂げました。

隣のリフォーム工事がほぼ終わり家人がいましたので見せて貰い
ワインを御馳走になりましたら、
床暖のせいか酔いが回り又心臓がおかしくなり、
早々にお暇しました。
だから夕食は支度しません。

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今日の歩数4226歩 2,9㌔

シニアナビ過去記事(462)「帰国しました」


[462] 帰国しました 2007.6.13  22:11:30   
19/6/13(水)晴れ富士山見える

無事に帰って来ました。
なんだか疲れました(マッサージのし過ぎです)

成田からのバスの中で義母の病院から電話がありまして
もしかしてと心配しましたが、本人は無事でしたが、
帰るなり2度も病院に行くはめになりました。
男(息子・旦那)は何の役にも立ちませんね。

落ち着いたら、お馬鹿な旅日記を書きますので
ご覧になって下さい。


シニアナビ過去記事(461)「台北旅行」

[461] 台北旅行 2007.6.9  23:22:08   
19/6/9(土)晴れ、曇り、一時小雨


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「さんご」は10歳だ、どうこの安心しきった寝顔


明日から3泊で台北に旅行する。
今回も娘のプレゼント旅行だ。

娘はツアー観光とかがあまり好きで無い、
今回も夜店などのグルメ(B級)やエステやマッサージ三昧の
癒しの旅。

老いては子に従って、黙って後から付いて行こうと思うわけ。
と言いながら自己主張の強い私の事どうなるかは
保証の限りではない。

平成5年の12月末に台湾1週の旅をした事があるが、
格安の旅でも無いのにガイドのカモにされて、
殆ど土産屋巡りのようだった、

少林寺拳法見物だと言って 怪しげな漢方薬屋に閉じこめられたり、
偽ブランド店などにも連れ込まれた。

許せないのは、最終日の「故宮博物院」見物。
9時40分~10時55分の駆け足見物、
さぁさぁさぁと急がせるので飛行機の時間が無いのかと思ったら、
なんとそれから4店も土産物屋に連れて行かれた。

同行者は10人で皆ユニークな人達ばかりだったので、
こんなひどい目にあって黙っているような「玉」では無かった。
帰国してからそれぞれ苦情を申し入れたわ。

私などレポート用紙2枚書いたし、
わざわざ窓口まで苦情を言いに行った人も居た。

それかあらぬか、その会社(地球の旅)はまもなく倒産したけど
私達のせいではないよね。
ちょっと悪かったかなとは思ったけど。

それ以来中国人関係の旅はツアーでは行きたくなくなったし、
「故宮博物院」をもう一度1日掛けて見物したいなぁと
思い続けていたわ。

そんなわけで「故宮博物院」は外せない。
市内観光はパスして、博物院見物2時間のツアーと
「九ふん」(チョウフン)「十ふん」の一日観光はするが
後はぶらぶら街歩きする。

予報によると天気は曇りと雨らしい、
まっ暑いらしいからそれも良いかと。

行って来ま~す。


シニアナビ過去記事(405)「ただいま」


 [405] ただいま 2007.2.17  18:13:38   
19/2/17(土)晴れ

成田着12時55分(ジャスト4時間のフライト)無事に帰国しました。
昨年も風邪を引いて帰国しましたが、今回も風邪気味です。

昨日朝喉が痛くなり
今日の夜中は痰と鼻汁がよく切れなくて熟睡出来ませんでした。
今朝はついに頭痛がしました。
3時半起床です。
真っ暗な海の中を大干潮ですので船が停泊しているリーフの縁まで歩きます。
(後記:カオハガン行でこれが辛いのよね、大抵大干潮で朝日が昇る前にマクタン島に向かいます)


久しぶりに湯船に浸かり
あぁ「日本人でよかった」と何時もの事ながらしみじみ思いました。


シニアナビ過去記事 カオハガン島画像集


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私の泊まったロッジ

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カオハガン島の空撮
手前が「ポントグ」といわれる砂州でセブ辺りから
「アイランドホッピング」ツアー客が来て遊ぶ、
入島料は島民の福利厚生の為に積み立てられる。
この前日本人客が来ていたので聞いたら、
一人15,000円のツアーだって。
「高~~い」

島民は一日おきにみやげ物を売る。
奥は住宅密集している部落「ラウイス」   
なぜ密集して住むのか、それは職住接近、リーフに近いので
昔漁業が生業だった時は便利だった。
手前の過疎地は主に崎山さんが使っている、
小学校もあり言わば山の手だ。

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オランゴ環礁空撮、
オランゴ環礁はセブ島(セブ空港はマクタン島にあり橋で繋がっている)とボホール島の間にある。
まるで小宇宙のようだと思いませんか。
好きな写真です。
カオハガン島は環礁の右肩辺り2時位の位置にある、
環礁の中では2番目に小さい島だ。

満潮の時はセブの方(左)から環礁を突っ切って行けるので30分位で到着するが干潮だと手前をぐるりと回るので1時間位掛かる。


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島で一番大きな崎山さん所有の「アミハン」北東の風、
この船で送迎してくれる。
今回は満潮だったので岸壁から濡れずに乗れたが、
何時もはリーフの所までジャブジャブ歩くのだ。

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ロッジの中、
壁も床も竹で出来ている。屋根はニッパ椰子で葺いてある。
最近は社長(後記:工務店の)の都合に合わせて2月に行くので、
さすがに熱帯と言えども風が吹くと寒い。
それこそ上下左右から吹いて来る。
薬を飲もうとしたら2錠も床下に落ちたわ。

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木曜日の読売新聞、都内版にカオハガン島オーナーの崎山さんが
隔週で随筆を書いておられるが、昨日の記事で私が島にいた時、
マルコスと言う長老が亡くなり、
崎山さんもお通夜とオランゴ島で行われたミサと埋葬に立ち会われたが、その事を書いておられた、大干潮の浅瀬を渡る棺と参列者を後ろから撮影した。

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空撮の写真は熊切圭介氏の撮影です。
崎山さんと熊切さんは仲良しです。

最近訃報を知りました。
熊切圭介さん死去 前日本写真家協会長 

熊切圭介さん27日、誤嚥性肺炎のため死去、86歳。
東京都出身。葬儀は家族のみで執り行う。
喪主は写真家で長男の大輔さん。

オリンパスギャラリー東京で本日(10月23日)より開催!
カオハガン島、それはフィリピンのセブ島の南10 キロの
オランゴ環礁の中にある小さな島です。
私の友人でもある崎山克彦氏が1991年にその島を購入しました。
崎山氏が島民をサポートし豊かになった島の姿、
島民の暮らしを熊切圭介は
約20 年に渡って撮影を続けてきました。


しかし長年撮影をしてきた作品を被写体である島民の人々が目に
することができていませんでした。
そこで思いついたのが現地、カオハガン島での写真展開催です。
周囲2kmほどの島には、もちろん写真展会場などありません。

そこで現地の子供達が通う学校の通学路、通称「天使の小径」に
飾り付けることになりました。

小径に連なる木々にロープを張り、そこに吊るして展示した作品に写っている島の様子は現在とは違い、木々もまばらで今の子供たちにとっては見たことのない風景でした。

写っている人々は子供たちの両親がまだまだ若い頃。
そんな写真を不思議そうに、楽しそうに見つめる島民たちの表情は忘れることができません。


そんな「天使の小径の写真展」の様子を日本の皆さんにも体験して頂きたく、本写真展を開催致します。
展示は天使の小径のように木々に括り付けたような展示方法を
再現致します。
また当時の展示の様子、島の様子を息子である写真家の熊切大輔が写した作品と合わせて、カオハガン島の空気を感じて頂ければと思います。





シニアナビ過去記事(404)「「さんご」の故郷カオハガン島に行って来ます」

[404] 「さんご」の故郷カオハガン島に行って来ます    2007.2.11  22:27:42   

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私を待っている「カオハガン島」


明日から17日まで「カオハガン島」に行って来ます。

始めての一人旅、娘が大変心配しましてね。
まるで幼稚園児を一人旅に送り出すように
あれこれ手筈を整えてくれました。
娘は産んどくもんです。
いや もとい 育てとくもんです。

フイリッピンエアラインに電話してマニラ空港の配置図など
こと細かく書いてくれて、おまけに究極迷子になった時の為に
日本語と英語との対話編まで作ってくれました。

「トランスファーカウンターは何処ですか」とか
「国内線の出発階にはどうやって行くのですか」とか
「take me please」「連れてって下さい」とか

あっ言い忘れましたが娘は英語が得意なんですよ。

もう大丈夫ちゃんと行けますよ。

今回の旅から私は家の事は何一つ気にしない事にしました。
今までは旦那の事、犬の事、あれこれ気を揉みましたが、
もう後は野となれ山となれ、し~らないっ

明日は4時起きですから、もうそろそろ寝ますね。



 

シニアナビ過去記事(361)「ハワイの旅(帰国」

[361] ハワイの旅(帰国)2006.12.29  01:01:39   

ハワイ6日目朝

楽しかったハワイ。

出国検査の厳しい事。
まず、靴を脱いで靴を検査機にかける。
スーツケースは鍵を掛けてはいけない。
もし掛けていれば、壊してでも中を検査するが何の保障もしないし、鍵を掛けない為に窃盗被害にあっても保障しないと言う。

これが目的地が日本だから心配もしないが、
窃盗被害常習国に行くのだったら不安だろうな。
こんな事がまかり通るアメリカもすごい。

ところで飛行機は1名の空席も無き満席だった。

前日の事だった、
JALオフイスのあるホテルに2,30名の日本人おばさんの団体が
オリエンを受けていたので「なんの団体さんですか」と聞いたら、
昨日、今日に掛けて「韓流追っかけツアー」が2000名程入国したんですよ。との事、

その韓流スターは「パク・ヨンハ」
私は「韓流」とか「ヨン様」なんてうつつをぬかしている女性とは
お友達にはなりたくないな。

良かったぁ、重ならなくてもし重なっていたら、
ホテルも飛行機も予約取れなかっただろうな。

おまけに、帰国した日にハワイでは珍しい地震、大雨洪水で
一日中停電したらしい。
もし一日遅れていたら私達しばらく帰国出来なかっただろう。

運がよい。

パク・ヨンハなんて地震の時恐怖に震えて非常階段を駆け下りたらしいよ。

カイル・オノさんが言っていたな、
ハワイは羊羹のようなビルが多いが地震は無いのですかと問うたらば、「私の人生で地震は高校の時に一度だけ経験しました」と

今回の「ハワイ旅」全て娘が出してくれました。
私が出費したのは自分用のみやげ物と「さんご&もんち」のホテル代7泊分51,450円だけでした。

有難きかな。



シニアナビ過去記事(359)「ハワイの旅(マラサダはいかが)」


 [359] ハワイの旅(マラサダはいかが) 2006.12.28  23:53:41  12/12/28(木)晴れ 穏か
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マラサダ 6個で3ドル94セントだった


ハワイ5日目午後(18/10/12)

1時から5時まで「JALプログラム」でレンタル自転車を借りて
西に東に飛び回ろうと出かけた。1台5ドルである。

まずダイヤモンドヘッドに近いカパフル通りの「レナーズ」に
マラサダを買いに行く。
娘が大好きで、ハワイに来たら必ず食べるという。
これは出来立てでないと美味しくないと言う。
ママに出来たてを食べさせたいと何時も言っていた。

以前はカラカウア通りにあって行列の出来る店だったのに閉店して
今は辺鄙なカパフル通りにしかない。
店の構えは日本の出来立てパンを売っている店のような作り、
マラサダはポルトガル出身のレナーズ氏が始めてハワイで売り出したポルトガルの揚げパンである。
だからレナーズは老舗である。

フアフアした軽いそして中身はモチモチした不思議な食感。
中身にチョコやクリームを入れた物もあるが私達は何も入っていないプレーンを買う。

店外のベンチでまず1個食す、う~~ん軽くておいしい、
2個目、なんだか最後の後口が苦い。
日本にはこんなの無いかな、わざわざハワイまで食べに来るほどの代物ではない。
粉は多分単なる小麦粉ではないのだと思う。

それから、今度は西の方の「ワードセンター」まで炎天下を行く。
美味しいので有名な「ハンバーガー」があるらしい。
「クアアイナ」アボガドバーガーが美味らしい。
系列の店が東京にもあるらしい。
アラモアナセンターのさらに先だ。

日本でもそうだが娘とサイクリングすると私がとろいと怒る。
とろいと言ったって、自分の身の丈にあった走行をしなければ
危険じゃないの。

この時も何故か怒っていた。
到着した時は暑さと娘に付いていくのにへとへとになっていたので
1階の駐車場のベンチで「ここで待っているから買って来たら」と
言った。

大分待ったが来るなり「さっ、いこっ」と言って先に行く。
私は暑さよけの対策をして後を追う、入った出入り口に向かう。

居ない、何処をどう探しても居ない。
私は必死でもと来た道を辿る。
私はカード以外1セントも持っていないし、英語も話せない。
ダイヤモンドヘッド方向、超高層ホテルの林立している方向を目指して走った。

JAL窓口に自転車を返却に行ったら、15分ほど前に娘から母親が
迷子になったので探しているが見つからないと電話があったそうだ。

娘の携帯に電話したくても番号を知らないし、
JAL窓口は5時でクローズするそうだし、
さぁ困った。今度は母として娘が危険な目に遭うのではないかと
不安になる。

ホテルに帰り、フロントで日本語を話す人を出してくれと頼み、
事情を話し部屋で待つことにする。

程なく娘から電話があったが「腹の虫は怒っていたが、ここは納めよう」と努力した。
娘もそう思ったらしく、何事も無かったように振舞う。

娘「西も東もわからない老婆が迷子になって心配で店内放送を
  お願いしたがそんな事はしないと断られた」そうだ

私「何を仰る、私だって馬鹿ではありませんよ、ハワイ位で迷子にはなりまっせぇ~~ん」

件のハンバーグ、すっかり水っぽくなって不味く、
気分も不味く娘捨てた。
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哀れ、「クアアイナ」のハンバーガー、このままホテルの屑篭へ


一風呂浴びて、気を取り直して6時にトロリーバス(バス代フリー)で「アラモアナセンター」まで行き、
そこからタクシーで「アロハセンター」に行く。
なんとなく活気のないセンターだ、

お腹も空いたので何処にしようかなと思っていたら、
日本語で客引きされたので「香港海鮮大酒楼」に入る。

①海鮮焼きそば(沢山残した)
②海老チリ(まじっ)
③スープ(すっぱい)
④ピータン
もち、ビールも
計68ドル11セント(チップ込み)8291円也
味は、日本の中華ファミレス「バーミヤン」の方がよほど美味しいな。

タクシー(17ドル)で戻り、カラカウア通りを散策、
最後の夜を過ごす。
ハワイでは、金曜日の夜とて一段と賑やかだ。
屋台やいろんなパフォーマンスが繰り広げられている。

ふと、なんとなく聞きなれた音楽、新宿の路上でよく聞いた
アンデスの音楽「コンドルは飛んでいく」ではないか、
最近見かけないと思っていたら、ハワイに出稼ぎに来ていたのかと近づくと3人のメンバーで竹を組み合わせた楽器を演奏するメンバーだった。

路上マッサージ師が営業していたので娘と2人で試す。
私達、世界何処でもマッサージには目がないの。
まあまあ、ツボを抑えていた、10分10ドル+チップ2ドル払った。
彼はハワイ州の免許を所持していると証明書を展示していたが、
外人は肩こりしないと聞いた事があるが嘘なのね。
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カラカウア通りのマッサージ師、
ふざけながら、楽しそうに、遊んでいる








シニアナビ過去記事(349,351,352,353)「ハワイの旅、ホテル裏方ツアー」


 [349] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.19  22:21:47  18/12/19(火)曇り

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"裏方ツアー”証明書


ハワイ 5日目午前

毎週金曜日の10時からハレクラニホテルの
”バック オブ ザ ハウス”ツアーが催行される。
好奇心旺盛な私としては勿論参加した。

黒人系の女性が英語でガイドする。
参加者は15名、4人の白人男女の他は日本人だった。
日系のホテルなんだから人材は豊富なんでしょうから
日英両語で説明してくれれば良いのにねぇ。

由緒あるフレンチレストランの知られざる物語や、
調理場、ケーキ室、花屋、洗濯工場、印刷室、従業員食堂、
在庫室等あらゆる場所をフリーパスで案内してくれる。

ケーキ室では出来立てのケーキを試食させてくれるし、
花屋さんは薔薇を1輪づつプレゼントしてくれるし、
仕事の邪魔になるでしょうに何処に行っても、
フレンドリースマイルで迎えてくれる。

皆さんとても楽しそうに働いていらっしゃいました、
従業員は総勢700人もいるそうです。
ルームサービスはスマイル民族のフイリッピン人が
多いようでした。

約1時間の案内の後はアウトキーで茶菓の接待とポラロイドで
記念写真を撮り彼女のサインで証明書発行と至れりつくせり
でした。


[351] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21  22:56:02   

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上等な席、ハワイでは海が見えると言うのが重要である。
14名定員の個室では窓側の席が海が見えないので壁に鏡が貼って
あったが、昔の造りのせいか一枚ガラスではなく細長い鏡で
たいした眺めではないと思われるが、それでも、、、


[352] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21  23:07:50   

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印刷室、
懐かしい小型のオフセット印刷機があったので
「マイハズバンドもプリントファクトリーなんたらかんたら、、、、」と
訳わからん言葉を並べたら、
どうやら片言の日本語がわかる日系人らしく、
嬉しそうに応対して下さった。
もう少しお話したかったが、ツアーに遅れるので、残念であった。
「ハレクラニブルー」と言って全ての印刷物にこのユニフォームに似た沈んだブルーが使われている。


[353] ハワイの旅(ホテル裏方ツアー)2006.12.21  23:12:41   

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メインロビーの巨大な生け花、
毎週金曜日に活け替えるそうだ、日本人らしい2人の女性が何時間も掛けて活けていたので、聞いたら日本の「草月流」から派遣されて来ているそうだ。

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「キングプロテア」
ハレクラニホテルのメインロビーの生け花の中に取り入れられていた。
「これは東京では2000円位しますよ」と言ったら、
ハワイではマウイ島産で3ドル位だそうです。

(後記:過去記事
シニアナビ過去記事(158)「キングプロテア」


シニアナビ過去記事(347)「ハワイの旅(マノア渓谷ハイキングツアー)


 [347] ハワイの旅(マノア渓谷ハイキングツアー)    2006.12.17  23:35:20   

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マノア渓谷トレッキング、先頭がカイルさん
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マノア滝の滝壷で遊ぶ人達「危険」この文字が目に入らぬか、
全長(60メートル)は納められない

ハワイ 4日目午後

前日旅行代理店に申し込んでいた、
マノア滝ハイキング、1人55ドルであった。
直接催行社に申し込めば50ドルであった。
まっ、楽しかったからよいか。

ガイドは有名なカイル・オノさんですよとなにか
私達が幸運なような話しぶりであった。

カイルさんは白人でもない日本人でもない不思議な
中年の男性である。
お聞きしたら、父は日系2世、母は白人のハーフだそうです。

ハワイで日系であり、白人であるというのは有利な地位ではないかと私は想像します。
自信に溢れた方です。

流暢な日本語を話されるので、日本語で育ったんですかと
お聞きしたら父は日本語はまったく話せませんでした。

ハワイ大学、大学院を出てから英語教師として日本に8年間滞在して
猛勉強したそうです。
因みに奥さんは日本人のようです。

ハワイは観光業しか産業が無いので優秀な人は皆本土に移住しますが、私は優秀ではないので、残っているのですと謙遜なさいますが。
どうして、どうして、環境保護で力を尽され「アロハアイナエコツアーズ」も経営なさっていますし、NHKにもしばしば出演なさって大活躍しておられます。

参加者は6名です。参加者同士会話はありませんでした。
カイルさんが優秀なガイドなので、ハワイのあらゆる事に詳しく
只聞き入るだけでした。

ハワイ大学の敷地を通りその先に高級住宅地のマノア地区が渓谷まで広がり昔から豊かな土地柄だったそうで、日系人の多い土地だそうです。
すこし前に成功した家族しか住めないそうで、
ニューカマーには憧れの住宅地です。

今では1億近くするそうで、1億と言えばハワイでまじめに働いている勤労者には高値の花です。取引の半分は投資だそうです。
でも、高級と言うより中流と言うべきか、広い道路に広い敷地、
平屋の住宅が塀も無くむき出しで建っている、
目を見張るようなお屋敷は見かけなかった。

マノアの住宅地のはずれで車を降り、リュック、ステッキを貸してくれて、水1本支給されます。
しばらく住宅街の歩道を歩くのですが、カイルさんの注意にもありましたが歩道に犬の「ウンチ」が意外に沢山放置されていました。
東京では今やそんなに見かけない現象です。

緑豊かな川沿いの道を登ります。
豊富な雨のお陰でうっそうと茂るジャングル
知識豊富なカイルさんが目に付く動植物、歴史等あらゆる事象の
説明をしてくれます。

それと環境保護に尽されているカイルさんは
目に付くゴミを拾います。
私達にすればそんなにゴミがあるとは思えないのですが、
沢に下りてまで拾うのです。
タバコをくわえている白人の女の子にも捨てるなと注意します。

下山したら、袋一杯ありました。
カイルさんの仲間達が登山道の補修もしているそうで、
まるでカイルさんのお庭にお邪魔しているような心境でした。

雨の多い地域ですが、今日は天気に恵まれて
マイナスイオンたっぷりのハイキングコース、
是非皆様にもお勧めです。
私にも楽勝でした。

滝は全長60mあるそうですが、全部は見られないそうです。
垂直の壁を伝って流れていますが、常に崩落の危険があるそうです。滝壷で遊んでいる人達がいましたが、
注意されるまでも無く危険そうでした。

帰りに華僑の墓地も見学しました。
「マノアチャイニーズセメタリー」
馬蹄型に盛り上がった丘に異国情緒たっぷりの眺めの
良い墓地です。

このマノア渓谷の事はネットでいろんな方が書いていますので
興味のある方は
どうぞ「アロハアイナ通信」など。

4時に帰着しましたので、一風呂浴びてアウトキーでカクテルなど
飲みながらカノエミラーさんのフラと夕日を堪能しました。

ハレクラニでは1日に2回部屋の清掃をしてくれます。
夕方風呂に入ってから出かけるとまた整頓されているのです。
私達が部屋を乱したって事を遠隔操作で見張っているのでしょうか。

夜は、クヒオビーチでフラショウをのんびり見物して、
今夜もまた「鮨好」で食べました。
あまりお腹も空いていなかったので
1人前を2人でシェア(わけわけ)しました。
39,88ドル(4,855円)でした。





シニアナビ過去記事(324・325・326・327)パンケーキ


 [324] パンケーキ  2006.11.1  21:28:56   
18/11/1(水)晴れ、汗がにじむ暖かさ

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「エッグスン・シングス」「ギョッ」その巨大さに驚く。


ハワイ、3日目の午後の話
18/10/11(水)快晴

ダイヤモンドヘッド登山の後トロリーバスで終点のDFSで下車して
お昼は、行列の出来る評判のパンケーキ屋があるから
このまま歩いて行こうと言う。
カラカウア通りを西の外れまで炎天下を歩く。
「エッグスン・シングス」「ギョッ」その巨大さに驚く

時間が良かったのか、行列はしていなかったが、
なかなか繁盛していた。
見たところ90%は日本人客のようだ。
なんだ行列の好きな日本人が行列しているんだな。

街を歩いている人の70%は肥満体。
こんな物を日常的に食べていればそりゃぁ、肥満するわね。

二人でシェアする事にして一番売れ筋と言う
「バナナホイップパンケーキ」9ドルと
アイスコーヒー2杯で(4,5ドル)を注文した。
計14,06ドル+チップ

うまかったか、不味かったか、今となっては思い出せないが、
甘すぎて残した。


[325] クヒオ・ビーチでハワイアンショウ 2006.11.1  23:49:36  

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ハワイ、3日目の夕方

パンケーキを食べてから、
カラカウア通りで明日のマノア渓谷ハイキングツアーの手配をする。
「アロハアイナエコツアーズ」の催行でガイドは有名な
「カイル・オノ」さんですよと、さも私達が運がいいような話だった。

免税店で化粧品を買ったり、手書きの素敵なTシャツや
ホテルの石鹸がプルメリアの香りが素敵なのでプルメリアソープも土産に買って。

毎晩、日没と共に始まる、
「サンセット・オンザ・ビーチ」にハワイアンショウを見に行く。
芝生の舞台らしき場所を囲んで観客が見物している。

今夜は男性のダンサーもいたが、次会は又違うメンバーだったし、
車窓から眺めた時は子供の踊り子もいたので、
多分私思うに、同好会みたいなグループがこの舞台にたてることを
名誉にして日替わりで出演しているのではないかと思う。

各ホテルでもハワイアンショウはやっているが、
ここのも芝生に寝転んだりしながら気楽に楽しめる。

夕食は「タイ&アメリカンクイジーヌ料理」の「ケオニ」で
食べた。

①トムヤンクン・スープ
②グリーンカレー
③カラマリサラダ
④もち米ご飯
もち、ビールも
計 チップ込み59,77ドル(7,62円)
お味は さぁ忘れた。


[326] サンセット・オン・ザ・ビーチ  2006.11.1  23:52:40   

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私って、好きよねぇ


[327] 可愛いダンサー 2006.11.1  23:59:55   

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すらりとした白人の若い女性二人に囲まれて
小さな先住おばあさんダンサー
釣りバカ日誌のハマちゃんそっくり


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ハレクラニのサンセット

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日の午後2時にうちの97歳の老婆を風呂に入れる予定だった。
午前の仕事が押してお昼を食べる時間の余裕も無く駆けつけた。

浴槽にお湯を入れ、部屋に入ってみると老婆は椅子に腰掛けて
ぼーぜんとしている。1週間前頃から背中や頭や腕が痛くてたまらないと言う。
下痢もしていると訴える。

1週間前からって、28日(土)に医者に連れて行ったばかりじゃないの。
話が漠然としてよく判らない、ケアハウスの職員に聞きに行ったら、ウンチは出ていると毎日報告があるし、昼食の後必ず「さんごママ」を呼んでくれ、辛いので入院したいと訴えるが見たところ異常もなさそうなので様子を見ていたそうだ。

私に判断できる事ではないので、入院の用意をして病院に行った。
熱が38度あったので、痛みはそのせいかとも思うが、検査したら
腸の中には便とガスが充満していて、下痢なんてものじゃない。

入院させて帰宅したら、もうくたくた。娘も来てくれたが、
長生きするって辛いのねぇと感じ入る。
まさに。


シニアナビ過去記事(ダイヤモンドヘッド登山)


[316] ダイヤモンドヘッド登山 2006.10.31  23:16:50
  
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さ~~ あの頂上目指して登るぞ~~


[317] ダイヤモンド登山 2006.10.31  23:21:55  

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こんなトンネルを通って


[318] ダイヤモンド登山 2006.10.31  23:23:42   

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こ~~んな階段を登って


[319] ダイヤモンド登山 2006.10.31  23:32:21   

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こ~~んな所をくぐって、なんせ要塞でしたから


[320] ダイヤモンド登山 2006.10.31  23:34:22   

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頂上だ~~ ばんざ~~い


[321] ダイヤモンド登山  2006.10.31   23:36:50   

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「絶景かな」ワイキキ方面 ピンクパレスも頑張っているね


 [322] ダイヤモンド登山 2006.10.31  23:40:42   
18/10/31 (火)晴れ、汗かく暖かさ

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ダイヤモンドの反対側、耕して天に至る、じゃなかった、
都心に住みたいよ~~


[323] おわり(登山編)  2006.10.31  23:44:11

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噴火口の中                      


ハワイ、3日目
18/10/11(水)快晴だった

今日も朝早くから行動開始
6時半起床
8時55分 トロリーバスで出発
9時15分 登山口着(噴火口の中)駐車場と入山口になっている。
入山料1ドル

現地の人達が蒸し暑いと嘆いていたここ数日、
不用意にも帽子も無くて火山瓦礫の山を登るのは
本当に暑かったです。
農協で買える農婦帽があればよかったなぁ、
あれは優れものですね、タクラマカン砂漠を一周した時
とても重宝でした。

噴火口の駐車場から頂上までは標高170mあるそうです。

さて、しばらくはコンクリート道ですが、
噴火口の内壁をぐるぐる曲がり道を歩きます。
途中展望台がありましたが、
ここからは外輪山の向こうに海が見えました。
昔、ここは軍の要塞だったので資材を引き上げる為のウインチと
ケーブルの台座だったそうです。

76段の急勾配の階段を上り詰めると70mもある狭いトンネルです。
そして99段の階段を登り、又トンネルをくぐり螺旋階段を登ります。
この辺まで来ると要塞の面影が彷彿としています。
そして階段と狭い天井をくぐり抜けると頂上です。

絶景です。
ぐるりと展望出来ます。
じりじりと容赦なく照りつける太陽以外は楽勝でした。

10時40分下山
駐車場に一台だけ屋台カーがあり、
アイスクラッシャーやスムージーなどが良く売れていました。
こんなに照りつけるんですもの、売れますよね。

ここで商売出来る権利はどんなものでしょうか。
入場料を徴収していたのは先住民でしたから、
彼らに特権が与えられているのでしょうか。
スムージー 3,50ドルでした。
トロリーバスでワイキキに帰りました。
(後記:シニアナビでは写真は1枚しか搭載出来ませんでした)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日は、午前午後遅くまで忙しかった。
被害妄想のお方を都立病院精神科に通院介助、
脳のMRIや受診や血液検査等など、
被害妄想者なのでご主人の見守りと言う名目で
留守番のヘルパーを配置し、

自分の荷物さえ重くて大変なのに利用者が全財産(???)を
持参するのでそれもお持ちして介助って仕事は楽じゃない。
でもそれを顔に出しちゃぁ おしまいよ。




シニアナビ過去記事(313,314,315)「秘宿「ブレーカーズホテル」の「鮨好」」


[313] 秘宿「ブレーカーズホテル」の「鮨好」 2006.10.30  22:48:22  18/10/30(月)晴れ、穏やかな秋晴れ

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「鮨好」は外人客が多い、75,15ドル(9,142円也)であった

引き続き
18/10/10(火)の午後

サイクリングツアーが終わってからトロリーバスで
アラモアナショッピングセンターに行く。
トロリーバスの乗り放題カードを日本で2000円(5日間)で
求めていたが、2回しか乗る機会が無かったので無駄だったわ。

2時過ぎに着いた、お腹もすいたので何か食べようと物色したが
これと言って食べたくなるものは無い。

セルフサービスでない「丼・丼」なんて店があったのでつい入ったが、うかつだった。こんなところでうまい丼が食べられるわけが無い。
お茶を頼んだらティバック(有料)
牛丼と天丼で20,48ドル+チップ2,50ドル

どうも日本人経営ではなさそう、多分コリアンのようだった。

中にある2店のデパートに行ったが、
そのダサさとひと気のなさに驚いた。
閑散としていて、品揃えもまばらで、
まぁ、言っては悪いけど「ヨーカドー」ってとこかな。
おっと、私、最近大型スーパーには縁が無いんだ。

そこ行くと日本のデパートは素敵ですね。
華やかでセンスがあってサービス良いし。
私は外国のデパートはニューヨークとローマとバンコックとホーチミンしか知らないが、外国人は日本のデパートには驚くと思うよ。

「さんご達」に何時もホリホリされて消耗品の玄関マットを買ったら重いの、
前から買おうと思っていたサムソナイトのピギーバックを買って
よかったわ。
でもキャスターが全方向型の4輪のが少ないの。
日本ではほとんど4輪だけどね。

つかれた。

夜は「鮨好」で鮨を食した。
「鮨好」は5年前に現地の人に教えられて食べたが、行列の出来る店で親父(廣井)さんが気さくで気持ちいいの。
まるで百見の客のようなもてなし、で又来ようと思わせられる。
角がバーバリーの店があるビーチウォーク通り、
訪ねて行ったら以前の場所ではなく前方のホテルの中に構えていた。

このホテルは「ブレーカーズホテル」
地図にも載ってなくて何にも宣伝してなくて
古い2階建てで真ん中にプールがあってコの字型に客室がある。
入り口の開放的な事務所がロビーなの。
経営は「裏千家」だそうで、儲ける気はさらさら無いようだと
親父は言う。

ハワイには日本資本のホテルは沢山あるが、
このホテルだけが土地まで所有している唯一のホテルだそうだ。
この知られざるホテルはアメリカ本土からの客がほとんどらしい。
親父さんのすすめで部屋を見せてもらったが小さなキッチンも付いていて悪くは無い、長期滞在にはもってこいだろう。
何しろ安い、ツインの部屋で99ドル来年から120ドルに値上げするそうだ。

シェラトン系はほとんど三井不動産の資本だそうだ。

私が11年前に来た時は国際興業の小佐野賢治氏が
モアナサーフライダー始め名のあるホテルを所有していて
彼がハワイに来た時は知事が出迎えパトカーの先導で
自室のあるホテルまで行進したそうだ。

バブルがはじけてから、彼の買ったホテルはどうなったのだろうか。
今でもモアナ・サーフライダーホテルは国際興業の傘下だろうか。
占い師の藤田小女姫さんは小佐野氏の囲い女と言うのはハワイでは有名は話だったそうです。

ハワイは癒しの島だそうだ。
心身の疲れた方はのんびり療養をお勧めします。

11時45分就寝


[315] ブレーカーズホテル見学  2006.10.30   23:24:54   

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99ドルの部屋、入り口にミニキッチンがあり、バスタブは無い

[314] 「鮨好」 2006.10.30   23:21:42   

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「鮨好」店内(?)店外かな、
ハワイって1年中冷暖房が要らないのね。
奥さんと息子と息子のガールフレンドが接客していて、
親父さんの助手でベトナム人が働いていた。


シニアナビ過去記事(310・311・312)「サイクリングツアー」


[310] サイクリングツアー 2006.10.30  00:05:26   

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さっそうとしゅっぱ~~つ

18/10/10(火)午前中の行動
ダイヤモンドヘッド一周「サイクリングツアー」の集合が9時なので6時半には起きようと思っていたのに二度寝して7時45分に起きた。やっぱり疲れているのね。
折角のウイズアウトキーでの朝食バイキング(22ドルもするのよ)
大急ぎでかき込む。

参加者8名+白人青年のガイドとJALデスクの日本人女性がヘルプ。
こまごまと注意がなされたが、アメリカは歩道を走行する事は禁止。
自転車も慣れないし。ヘルメットも必需品。
おまけにホノルルマラソンコースで一番の難所の登坂もあるらしい。
要所、要所で英語で説明、それを日本人女性が通訳する。

①クヒオビーチ
②デューク、カハナモクの像(オリンピック水泳選手でサーフインを世界に広めた
③水族館(アメリカで一番古い、アザラシの研究をしている)
④海水プール(カハナモクもここで練習した、第一次世界大戦記念)
⑤ダイヤモンドヘッド坂登坂、なんと私は完走したよ)えらいっ!
⑥高級住宅地ダイヤモンドヘッド地区を通り
⑦カピオラニカレッジの駐車場でトイレ休憩
⑧ダイヤモンドマーケットプレイスで25分休憩
 日本人女性が出入りしている(オーナー?)
 喫茶店で「マンゴスムージー10ドル」を注文したが、
  なんか、粉っぽくて不味かった。
⑨アラワイ運河(水の通る道)
12時に帰着

今日は嫌でも汗かく事をしたが、
現地の人達はしきりと今日は風が無くて蒸し暑いと辛そうに言っていたが、なんの、なんの私はこれしきの暑さ慣れてますよ~~。


[311] ダイヤモンドエリア 2006.10.30  00:53:36   

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えっちら、おっちら、登りきったぞ~~ 最高地点で

ダイヤモンド地区は山麓に広がる高級住宅地、この地区に住めるのは「ステータス」らしい。
でも、後日歩いたマノア地区もやはり自慢の住宅地だそうだが、
気がついた事は、住宅番号だけで表札を掲げていない(一軒も)

どうして、と問うたらば、当然の如くセキュリテイの問題らしい。
その点日本はやはり素晴らしいわ。

以前、何かで読んでうろ覚えなんだけど、
日本も江戸時代は表札を掲げなかったそうですね。
時代劇で「鍋島上屋敷」などと大きな表札が出ているが
それは考証違い。

何でも、高級旗本が多く住んでいた番町あたりで炭商を営んでいた商人が一日中、賄賂を届ける使いの者に住者のありかを訪ねられるのにうんざりして住民の名前入りの絵地図を作ることを思い付いたそうですよ。


[312] おまけ 2006.10.30   00:58:36   

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日本では歩道を走行しているので、
幹線道路を車と一緒に走行するのは怖いです。


 

シニアナビ過去記事(305・306・307・308・309)ハワイ見聞


[305] 「ハウス・ウイズ・アウト・キー」でディナー  2006.10.29   22:02:50   
18/10/29 (日) 晴れ、ブラウスで過ごせる

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第一日目の夕食


18/10/9(月)夕方の行動
一眠りしている間に夕立が降ったようだ。
外に出てみるとホテルの周辺も
ロイヤル・ハワイアン・ショッピングセンターも工事中だらけ、

ホテルを出てすぐ左側の通りはカラカウア通りまで全て工事中。
地元の「すし屋」のおやじさんの話ではアウトリガー系は全て本土資本に買収されて新たにホテルが建設されている、
かの有名な不動産王ドナルド・トランプも投資しているそうだ。

この度はJAL系で行ったので、格安で利用できるキャンペーンを利用する。
来年の4月5日まで5ドルで楽しめるイベントが数多くある。
その中の
①ガイド付きサイクリング
②レンタルサイクル
を利用しようと、
「オハナワイキキビーチコマーホテル」のJALデスクに申し込みに行った。
申し込み用のクーポンは飛行機の座席のポケットに入っている。
このホテルはホノルルマラソンに参加したとき泊まったホテルだ。

隣のデスクの旅行代理店で「マノア渓谷ハイキングツアー」も申し込んだ。
一人55ドルだったが、催行社に直接申し込めば50ドルだった。
まっ、、いいっか。満足だったから。

6時に早速、ディナーといくか、、
ハレクラニホテルの「ハウス・ウイズ・アウト・キー」
文字どうり鍵の無い半野外ダイニング。

ここは以前にもよく利用した所。好きなんだ。
ここのサンセットとハワイアン音楽とフラダンスは有名なんだ。
専属のフラダンサーのカノエ・ミラーさんはかってのミス・ハワイ。
11年前始めて拝見した時はさすが美しい優雅なお方だと思ったが、
今回感じた事はやはり「お年だなぁ」お腹もポッコリ出てちょっと厳しいな。
バンドもロートルだし、やはり日系資本だから終身雇用かな。

(後記:当時バブル真っ最中でハワイの数多くの有名ホテルが日本資本に乗っ取られていた、聞いた話ではハレクラニも日本資本です、国際興行の小佐野賢治さんも有名ホテルのオーナーでハワイに到着するとハワイ知事が出迎えノンストップで疾走したそうだ、最上階の特等室に小佐野さんの部屋があるそうだ


今夜は夕立のせいで室内で演じられた。
今夜の献立
①生ビール
②ココナッツエビフライーー→甘すぎて食えない、頑張ったけど半分残す
③マグロと海老のカクテルー→う~~ん、びみょう
④オニオンスープーーーーー→味悪し

ビールを注文したら、
白人の気の弱そうなお兄ちゃんが娘に20歳過ぎているかと問う。
大笑いよ。
娘「リップサービスよ」
私「私には聞かないのか」と問うたらば、実に困った顔をしていた。
(後記:アルコール年齢制限の為、日本人は幼く見えたらしい)
お会計 チップ込み64.77ドル→最近請求書が来たが7847円であった。
まっいいっか。気分良かったから。

会計の時、
チップ計算及び記入の仕方が日本語で書かれたカードが添えられていた。
我々日本人にとってチップは難儀で悩ましいもんだが、
彼らにとっても日本人から適正にチップを徴収するのは難儀らしい。

その後カラカウア通りを散策して今度ここに泊まろうと思っている
「シェラトン・モアナ・サーフライダーホテル」でフラダンスを観た。

明日は朝早いので9時半に就寝。


[309] いたるところ、気を貰う 2006.10.29  22:58:54   

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「シェラトン・モアナ・サーフライダーホテル」のバニヤンの樹はホテル建設時の1918年以前からの主。このバニヤンの樹を中心に「バニヤンコート」が作られ、
「本物の貴婦人達」が優雅に午後のお茶を楽しんだそうだ。
あぁぁ、今じゃぁ「私だって」楽しめるのねぇ。


[308] シェラトン・モアナ・サーフライダーのフラ  2006.10.29   22:33:40   

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今夜の「モアナサーフライダーホテル」のフラダンサーは素朴な感じの女性、見物客も少なくて立ち去れなかった。
背景の「バニヤンベランダ」で優雅にお茶したいな。


[307] 優雅にハワイ 2006.10.29   22:17:52   

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カノエ・ミラーさんとハイチーズ


[306] チップ計算表  2006.10.29   22:10:59   

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多分、日本人だけが頂くんだろうな「裏表をコピー」



シニアナビ過去記事(304)「♪あぁあ~あ あこがれ~のハワイ~航路♪」


[304] ♪あぁあ~あ あこがれ~のハワイ~航路♪  2006.10.29  01:07:50   

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DFS」にてアクアマッサージ、14分20ドル


私がハワイ旅行の感想をちっとも語らないとオーナーの娘が不満を言う。

さて、ぼちぼちと語るとしよう。
これから述べる事は私の備忘録のつもりで、時系列的に書き連ねるので読者には面白くないかもしれないが、ご容赦の程を。
月、日、曜日は日本時間です。

18/10/9(月)
夕方5時に家を出て「さんご親子」を初台クリニックに連行する。
2匹で1泊7000円×7=49000円也 いたっ。

22:17 離陸 ジャル・ウエイズにて最終便 ひたすら寝ようと努力する。
4:30 着陸(日本時間 所要時間 6時間13分)

バスでホテルに行きました。1人9ドル
ドライバーがホテルは何処だと聞いたので「ハレクラニ」と言ったらば
「ヒェ~イ、ハ レ ク ラ ニ」と驚いてみせる。
そうでしょうよ「ハレクラニ」にバスで乗り着ける客なんてマレでしょうよ。

11時(ハワイ時間)ホテル着 
チエックインは3時なので、それまで控え室に通される。
空港でビジネス客が休める「なんとかラウンジ」のような部屋。
シャワー室やロッカーや飲み物、菓子、果物、新聞雑誌などがおいてありソファーがあって長く寝そべっている老人も居た。

3時チエックイン(部屋でする)オーシャンビュウ1654号
ダイヤモンドヘッドの裾野が見える部屋、

部屋とベランダの広さは充分だったが、ダイヤモンドヘッドは裾野しか見えないし
なんとなく「これ~~」と思った。
疲れても居たのでつい不機嫌になり「部屋変更出来ないのかな」と言ったらば
娘「やっと取れた部屋なのよ」と怒る。
娘も「6万もするのにこれ~~と思ったらしい」人に言われると腹が立つのだ。
でも帰国する頃気がついたがいつの間にか充分満足していた。

①ダイヤモンドヘッドビュウ
②オーシャンフロントビュウ
③オーシャンビュウ
④パーシャルオーシャンビュウ(ベランダから身を乗り出せば海が見える)
⑤コートヤードビュウ(庭が見える)
それぞれ値段が違うのだ。

3時から2時間ほど熟睡して街に繰り出す。
明日からの予定の確保などして、DFSで「アクアマッサージ」をする。
強烈な水圧で全身をマッサージする。
もう背中バリバリなのだ。なんとなくすっきりした。



シニアナビ過去記事(301)「帰国

[301] 帰国  2006.10.15  21:52:02   
18/10/15(日)晴れ

301_picture

今日無事にハワイ1週間の旅から帰国しました。
芯は疲れているようですが、体はバリバリに元気です。
まだまだいけそうです。

記憶がうすれないうちに記録を残したいと思います。
ただ残念な事は写真があまりよくない。
なんだか何時ものモードでは無かったような、
ピントがボケているのです。

おまけにスマートメディアの予備を持っていかなかったので
何度も容量不足の表示が出てそのつど削除しながら写しました。
こんなに撮るとは思いませんでした。



シニアナビ過去記事(279~283)「カオハガンキルト」


[279] カオハガンキルト① 2006.7.29  23:52:03   
18/7/29 (土)うす曇(一日中缶詰になって研修を受けていたので分からない)

279_picture
我が家のカオハガンキルト、オランゴ環礁の海の魚達
どんなに小さな魚にも丁寧に目が縫いつけてある。ボニィの作品



2月にカオハガン島に行った時注文していたカオハガンキルトがやっと到着。

カオハガンキルトは島の所有者、崎山氏のパートナー
吉川順子さんが島に住むようになってから島民に指導していまや、島の収入の30%を稼ぐ地場産業に育った。

順子さんは日本にいた時キルトスクールの校長だった。
順子さんが来る前の島の収入は、
① 島の宿泊施設の従業員、
② 島の村長、議員、小学校の先生(わずか2名ほど)などの公務員
③ アイランドホッピングで島に来た観光客に売るみやげ物売り、
④ 零細漁業で稼ぐわずかな収入、
フイリッピン一の貧しい島だった。

最初は子供に教えていたのが大人もやるようになり、
それが日本から来た観光客に良い土産として売れるようになり、
それまではおしゃべりで過ごしていた日常をキルト作りで過ごすようになった。今では男性もやる。

日本人には格安だがフイリッピン人には高価な作品なのだ。
セブのデパートで展示即売した時、いかにも金持ちそうなご婦人が
欲しくてたまらないが、高いと言って買えなかったそうです。

だから、順子さんが日本で精力的に展示会などに参加して売り込んでいる。
フイリッピンでは通用しない日本人あってのいびつな産業なのだ。
それが順子さんの憂いでもあるのだ。
何とか島民だけでやっていける体制にしたいようだ。

お値段は
ダブルサイズ(210×210)26,000円
シングルサイズ(210×150)18,000円
ストーリーキルト(100×80)6,000円

我が家のはシングルサイズだが、とても広い。
居間に敷いたらパァ~ッと明るくなった。
寝転んでテレビを見ると気持ちいいもんだ。

注文してから半年程掛かるが代金は前払いしておく。
出来上がると、その時帰国する客に頼んで成田で宅配便(着払い)で送ってもらう。
私達もメッセンジャーをやった。
[280] カオハガンキルト②  2006.7.30   00:50:00   

280_picture
居間に広げたら「さんご」が早速寝転ぶ、
「もんち」は頓着しない、
やはり「さんご」は生後4ヶ月過ごしたカオハガンの匂いを覚えているのだろうか。
「さんご」の夜中の様子。
[281] カオハガンキルト③  2006.7.30   00:57:01   

281_picture
島のいたるところでキルト作業をしているが、やはり島民の家は狭い、去年、キルトの売り上げから拠出したお金で「キルトの家」が造られた。
島民は風通しの良い涼しい家で気ままにキルト作りに励む。

[282] カオハガンキルト④ 2006.7.30  00:59:35   

282_picture
数ヶ月掛けて出来上がるので、やはり汚れている。
出来上がると洗う。

[283] カオハガンキルト⑤    2006.7.30   01:09:06   

283_eruninn
人気作家エルニン、
彼は元々大工だった、崎山さんが母屋を建築した時、作業員として島に来て島の女性と恋に落ち、結婚して島に住むようになった。
そしてトゥバ(椰子酒)作りで生計を立てていたが、
いち早くキルト作りに目をつけて今や流行作家である。
やはり彼は芸術家である、その作品は素晴らしいそうで、
彼に作ってもらうには数年の辛抱がいるらしい、そうだ私も頼んでみようかな。
おかげで、島の住民は椰子酒を飲めなくなった。

(後記:その後、訪問した時にもう一枚買いました、
過去記事
掃除が出来ないお年頃になりました
73b988c0-s[1]
2枚目、現在居間に敷いています。

シニアナビ過去記事(213~)「奨学金 №4」


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[213] 奨学金 №4 2006.2.19   21:32:15   
18/2/19(日)曇り おだやか

213_picture
コメンダドール女史の家で3回目(2006年2月)の訪島時、
まじめに勉強していた頃、崎山氏写す


去年の5月に崎山さんから手紙が来た。
少し長くなるが少々略を入れて原文を写してみよう。

さんごママ、もんちネエネ様
お元気でお過ごしの事と存じ上げます。
大変ご無沙汰をして申し訳ございません。

              略

ジュマール・ラボルデは2004年に、ミッション系のセント・ドミニク・ハイスクールを優秀な成績で卒業いたしました。
そして2004年6月からは、本人の強い希望もあって、セブ地区での最優秀な医科大学「セブ・ドクターズ」に入学する事が出来ました。

              略

ジュマールはハイスクールの時から、マクタン島に住むコメンダドール女史の家に下宿をさせていただいておりました。
コメンダドールさんは文部省に30年以上勤めておられ、その間、小学校から大学まで教鞭をとられた教育の専門家です。

私がカオハガンに渡ったときの「パンガナン/カオハガンの小学校システム」(当時は、カオハガンの教育は2年生までで、それ以降は隣のパンガナンの小学校まで歩いて通っていました。カオハガンの小学校はパンガナンの分校だったのです)の校長をされており、大変お世話になった方です。

コメンダドールさんは、母親のいない、そして父親も酔っ払いのジュマールを、自分の子供のようにかわいがり、面倒を見てくださいました。

6月に大学の授業が始まって、ジュマールは元気に通学していました。そしてコメンダドールさんが文部省を定年退職され、所要もあって7月にアメリカに行かれ、2005年の1月の初めまで家を留守にされたのです。その間にジュマールの様子が変わってきました。

セブ・ドクターズはフィリピン中の最も優秀な学生が集まる大学で、あまりにも学校の環境が変わった事。
全ての授業がジュマールの暮らしの周囲に無かった内容で、とても難しいこと。
母親代わりのコメンダドールさんがおられなかったこと。
そして、悪い仲間と付き合うようになり、授業にも欠席するようになったようです。

結局、3月末に1年の授業が終わった段階で、ジュマールはほとんどの単位を落としてしまったのです。
ジュマール本人、コメンダドールさん、大学と何回も話し合いをいたしました。
最後にはコメンダドールさんが学長とも会って下さいました。
本来ならば、ここで退学になるところなのですが、事情を汲んでくださり、大学はもう一回のチャンスを与えてくださいました。

医学部の中では比較的授業内容が容易なエックス線専門の学部の授業を受ける。
そして一学期目(6月~10月)終了時の成績を見て、本来の医者のコースに戻るか、そのままエックス線の学部を続けるかを決める。
そして又悪い成績の繰り返しだった場合は退学という事になりました。
まさに最後のチャンスというところです。

ジュマール本人も、新しい出発に、新たな決意をしているようです。
私自身、そしてコメンダドールさんに十分なケアーをお願いしながら、この最後のチャンスにかけてみたいと思っています。
皆様の好意に、心よりの感謝をいたします。
そして、残念ながら、これが一年間の報告です。

               略
2005年5月24日 崎山 克彦

続く
2/21~2/25までカオハガンに行ってきます。
続きはその時判るでしょう。

215_picture
雲上の日没(フィリピンエアライン機上)
219_picture
働くプレド

217_picture
歌って昼寝しましょ
216_picture
カオハガン島ポントグ(島の西端の砂州)の日没
221_picture
ボス犬、目は黄色、この色、日本では珍しい
プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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