おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

川崎正論の会、勉強会

戦後レジームとは


令和5年2月5日(日)晴れ 富士山見える


003
005
001
007
006


今日は朝食後早めに支度して家を出ました。
川崎で川崎正論の会連続講座の一回目が開催されるのです。
第一日曜日は日本書紀の勉強会とぶつかるのですが
日本書紀の方が講師の都合で日程が変更になったので
こちらにお邪魔しました。
と言うのはこの会の会場は狭くて希望者全員を収容
出来ないのです。
今回大分お断りしたらしい。
2回目からは他の希望者に譲ります。
今日は23名参加でした。

佐藤先生の今日の講義は主に戦後憲法についてでした。
戦後レジームとは(戦後の「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」とされる)

重要なお話ですが、少々難しいのです。
でも皆さん熱心に聴講しています。

川崎正論の会第1回チラシ③_page-0001 (1)
川崎正論の会挨拶 訂正版_page-0002

終わってから丁度お昼となりましたので地下のレストラン街で
皆様と昼食としました。
013
お蕎麦屋さんでしたので皆さま蕎麦を食べておられましたが、
肉食女子としてはラム肉のハンバーグが珍しいと注文しました、
トロロ汁と鶏のから揚げも点いて来て、肉肉で満杯になりました、
夜は抜きます。

010

先ほどお隣さんが明日廃品回収業者を呼ぶから出したい物が
あれば一緒に出していいよと言ってくれましたが、
物で溢れてはいますが俄かに言われてもねぇ、
娘のテープなどベランダに置いてあるものを出していいかと
娘に電話しましたら、見てみないと出せないと言います。

そうなんですよね、私もほとんど見ないテープが山ほどあります、    見る為の機器はすべてそろってあるんですけどね、
もうほとんど見ませんね。
折角だけど又にしますわ。

今日の歩数は6909歩








川崎正論の会 新連続講座第1回


川崎正論の会第1回チラシ③_page-0001 (1)

川崎正論の会挨拶 訂正版_page-0002




告知


川崎正論の会挨拶 訂正版_page-0001
川崎正論の会挨拶 訂正版_page-0002

ー-----------------------------------------
1
2
ー-----------------------------------------

3
4



川崎正論の会会長・酒井信彦先生


IMG_20221016_0001


川崎正論の會会長の酒井先生は体調を崩されていると聞きます。
余人をもって代えがたき先生が一日も早く元気になられることを
願います。



終戦の詔書


令和4年8月13日(土)台風来襲

終戦の詔書

午後から川崎正論の會主催の講演会に参加してきました。
詔勅研究家の佐藤先生の講義を聞きました。
さすが高校の国語の先生だった方なのでよどみなく
お話なさいます。

動画が撮影されましたのでそのうちにアップされると思います。
ところで終戦の詔書はよく語られますが、聞いた方の感想は何を
言われているのか判らなかったという事です。
今日はその放送された原音を聞きましたが、
確かに何を言われているのか判りませんでした。
先生の解説を聞いてその意味がよくわかりました。

024
027
029

以下にネットから拾って開陳します。

終戦の詔書(昭和20年8月15日)
<玉音放送の全文>

 朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇(べいえいしそ)四国(しこく)に対し、その共同宣言を受諾する旨(むね)通告せしめたり。

 そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽(たのしみ)をともにするは、皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)おかざるところ。さきに米英二国に宣戦せるゆえんもまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出で、他国の主権を排し領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。

 しかるに交戦すでに四歳(しさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ真(しん)にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。

 かくのごとくは朕、何をもってか億兆の赤子を保(ほ)し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応じせしむるに至れるゆえんなり。
 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。
 帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者および、その遺族に思いを致せば、五内(ごだい)ために裂く。かつ戦傷を負ひ、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん)するところなり。

 おもうに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。なんじ臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
 朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常になんじ臣民と共にあり。
 もしそれ、情の激するところみだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局をみだり、ために大道を誤り、信義を世界に失ふがごときは朕最もこれを戒む。

 よろしく挙国一家、子孫相(あい)伝え、かたく神州(しんしゅう)の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操(しそう)をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
 なんじ臣民それよく朕が意を体(たい)せよ。

<現代語訳>

 私は深く世界の大勢と日本の現状に鑑み、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。
 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連の4カ国に対しその(ポツダム)宣言を受諾することを通告させた。

 そもそも帝国臣民の安全を確保し世界の国々と共に栄え、喜びを共にすることは、天皇家の祖先から残された規範であり、私も深く心にとめ、そう努めてきた。
 先に、米・英2カ国に宣戦を布告した理由もまた、帝国の自存と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の心志(意志)ではない。

 しかしながら、戦闘状態はすでに4年を経て、わが陸海将兵の勇敢な戦闘や、官僚・公務員たちの励精、一億民衆の奉公は、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もわれわれにとって不利に働いている。
 それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう。

 そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子ともいえる多くの国民を守り、皇祖皇宗の神霊に謝罪することができようか。これが私が政府に宣言に応じるようにさせた理由である。
 私は帝国とともに終始、東亜の解放に協力してきた友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
 帝国臣民であり、戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると内臓が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦禍に遭い、家や仕事を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。

 思うに、今後、帝国の受けるであろう苦難は尋常ではない。あなたたち臣民の本心も私はよく知っている。しかし、私はこれからの運命について堪え難いことを堪え、忍び難いことを忍んで将来の万世のために太平の世を切り開こうと願っている。
 私は、ここにこうして国体(天皇を中心とする秩序)を護持して、忠良なあなた方臣民の偽りのない心を信じ、常にあなた方臣民と共にある。もし激情にかられてむやみに事をこじらせ、あるいは同胞同士が排斥し合って国家を混乱に陥らせて国家の方針を誤って世界から信用を失うようなことを私はもっとも戒めたい。

 国を挙げて一つの家族のように、子孫ともどもかたく神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操(守って変えない志)をかたく持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように期すべきだ。あなた方臣民は私のそのような意を体してほしい。

ー---------------------------
022
出かける時も帰る時も猛烈な雨でした。


終了後サイゼリアで懇親しました。
033
マトンの肉ステーキ 美味しかった。
ビーフよりうまい!
美味しく頂きました。


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

最新コメント
記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリー
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ