最近支那大陸からの贈り物黄砂が物議を醸しています。
私が黄砂なる言葉を知ったのは高校卒業した
昭和30年代初めころでした。
昭和30年代初めころでした。
高卒後、長崎県佐世保で3年間暮らしましたが、
春になると春の風物詩黄砂到来と新聞に踊っていました。
当時は公害とは捉えられていなくて洗濯物が干せないと言う位の
困りものでした。
困りものでした。
東の方の内陸だった佐賀では聞いたこともありませんでしたが、
佐世保は海を隔てて支那大陸と対峙していますからね、
有史以来の春の風物詩だったんでしょうね。
当時までは単なる砂でしたが、高度成長期以後世界の工場と化した頃からの黄砂は毒入りですからね、春の風物詩なんて優雅なもんじゃなくなりました。
佐世保は海を隔てて支那大陸と対峙していますからね、
有史以来の春の風物詩だったんでしょうね。
当時までは単なる砂でしたが、高度成長期以後世界の工場と化した頃からの黄砂は毒入りですからね、春の風物詩なんて優雅なもんじゃなくなりました。
その後黄砂の源を旅してその発生源を垣間見て驚愕しました。
タクラマカン砂漠の周辺を二度長期滞在しました。
春ではありませんでしたが、ものすごい砂嵐に遭遇しました。
これが春に地球の自転の法則で海を越え朝鮮半島、日本列島まで
襲来するんだなと実感しました。
襲来するんだなと実感しました。
天山山脈の裏側を通った時山影の至る所に煙をもうもうと
たなびかせている工場群をみました。
それが全て東の方にたなびいているのです。
まっ朝鮮日本に来る前に支那大陸が一番の被害者ではあるんですが、それは自業自得と言うもんで朝鮮日本が正式に文句を言ったと言う話は聞いたことがありませんね。
地球の自転が反対側に回っていたら欧州大陸を襲うわけで、
それらの国も支那様には何も言えないのでしょうかね。
それらの国も支那様には何も言えないのでしょうかね。
1992年夏ラクダ60数頭を連ねて砂漠の一部を旅した。
朝の決まり事、砂漠に放水する男共
ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠がこれほど一木一草も無くなったのは 近年らしいです、北京から敦煌近くの柳園まで汽車で移動しましたが、長旅の間に現地の方達とお話しましたが、古老がはげ山を指さして「私の子供の頃はこの辺りは緑豊かだった」と申しておりました、毛沢東の大躍進政策ではげ山になったんでしょうね。
当時お人好し日本人が砂漠に植林に行っておりましたが、
そんなもの彼らが帰国したらすぐに燃料にされてしまうんですよ、 そんな国に日本流の施しをして自己満足していた心優しい日本人!!!
天山山脈の裏側に煙をもうもうとあげる工場が沢山ありました、
その他にこの辺の地下には石炭が無尽蔵に埋蔵していて、
自然発火している場所が沢山あったようです。
煙害と言えば私が小学5,6年生の頃(昭和25,6年朝鮮動乱真っ最中の頃ですが)私は歯列矯正治療のために小倉の九州歯科大学病院に通院していました。
その時の唯一の楽しみは八幡の沿線から見える八幡製鉄所の
煙がもうもうと上がる煙突群でした。
なんか子供ながら自慢の風景だと思いました。
当時八幡は煙都と称して自慢の種でした、誰一人公害だと言うものはいませんでしたね。