おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

親の躾(追記あり)


令和6年11月4日(月)曇り


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石破さんの親の顔が見たい!!8c65d013824041a447e6da4f56f8b724_t (1)
左が正しい持ち方

私の娘も気が付いたら箸の持ち方がおかしかった。
気が付いてから何度も注意したけど
娘は頑固で反抗的で直そうとしなかった。
年単位か月単位か忘れてしまったけど
私も頑固なので食事の度に注意しました。
「ふん!!」と反抗的でした。
終いに私はその都度箸先で手の甲を穴の空くほど
どんと突っつきました。
やっと治りました。
最近そんな昔話をしても娘は感謝の言葉もくれませんね。
航空会社に勤めるようになってから、
反対に娘が私を躾けようとします。
箸を振り回さない、箸で指ささない、etc、etc!!
うるさいです!
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茄子とピーマンの味噌炒め、同フロアのUさんにもお裾分け
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今夜の夕食、茄子とピーマンの味噌炒め、冷凍焼売、
イカ焼き、トマト





何処に住むか!


令和6年8月24日(土)どんより
大町被害1

大町台風被害
佐賀県大町の台風被害

今夏、列島は地震、台風、大雨に翻弄されています。
私の長い人生でもこんなに被害続きの年はありませんでした。

私が育った家は大町では街で一番高い場所にありましたので、
大雨が降っても何の被害もありませんでしたが、
町の下の方はこの地方台風銀座と称される場所でしたので、
一雨降ると床上浸水していました。

親しくしている方の家は谷水を集めて途中家庭排水を集めて流れている(用水路)の傍でしたので一雨降ると床上浸水しました。
トイレはくみ取りでしたので汚い水でした。
一度床上浸水するといつまでも臭いと言っていましたね。
能天気な私はどうしてそんなところに住むのと
疑問を呈していました。

上京して結婚してから商売の経理を担当してくれていた方が、
座間にある家を買ってくれないかと頼まれました。
中堅の建売業者が底なし沼(岩盤迄25mある軟弱地盤)を
埋め立てて即300戸ほどの分譲住宅を建てて売り出した物件でした。
今度隣地に其の業者が新しい建売を建てたので
そっちに移ると言う事でした。
信頼していた方(私とぎりぎり迄行った方!!)でしたので
何の疑問も抱かずにその話乗りました。

越した所は用水路の近くの一角で不良物件として建売業社を訴えて
新しく建てさせた隣地(少し高台)に集団で越して、
なにも知らない新人が集団で越してきたのです。

親しくなった地元の方々から散々こき下ろされました、
あの土地は底無し沼を埋め立てて地盤がまだ固まらないうちに
建てたので段々沈んで一雨降ると床上浸水する土地だ、
そんなところを買うなんて信じられないと言われました。

ところが越して半年してから、あのテレビドラマになった、
台風被害は我団地も呑み込みました。
(1974年9月、多摩川が台風で増水し、東京都狛江市の堤防が決壊して家屋19戸が濁流にのまれた。 この多摩川水害は、山田太一さん原作、脚本の連続テレビドラマ「
岸辺のアルバム」(77年放送)の題材になった。)

団地の西側(相模川の方)に農業用水があり道より高い
ブロック塀が築かれていて、
団地の水を強制的に排水していましたが、
用水路が溢れると団地に水浸して逆流していました。

新規入居者はいろいろ調べて騙されていたことにきずき
集団で売り主と分譲した業者を訴えました。
話せば長くなりますから割愛しますが、

その後旦那が借金まみれになって
その家も貸金業者に差し押さえられましたので取られて
又東京に舞い戻って来ました。

銀行で買主と差し押さえた金貸しと私の弁護士さんとで
交渉しましたが、人生最大の屈辱でした。
土地40坪の家が2000万以内でした。

後の方は壊して盛り土をして
新築すると言う事でした。
座間駅6分の環境は良い所でした。

そこで10年近く住み子育てしました。

弁護士さんが奮闘してくださって、○○さんも子供抱えて
これから東京に部屋を借りなければならないので
100万こちらに寄越せと交渉してくれました。

ところが後半年したらバブルが押し寄せて
5,6千万で取引されるようになったのです。
運が無いとはこのことです。

それで売れれば一気に借金が返せたのです。
その後何年も借金返済の年月を過ごしました。

その後は私が全てを取り仕切り借金を完済しました。
何年掛かったかなぁ。
旦那には月5万(のちに7万)の小遣いを渡し、
働かされて好きなキャバレー遊びも出来なくなり、
いつもむくれていましたね。

続く!
乞うご期待!


 

質問魔


令和6年8月16日(金)酷暑


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これでも直ぐにお腹一杯になる
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夕食

今日も一日無為に過ごす。
私の様に話好きが誰とも会話しないで
一日過ごすなんて難業苦行です。
おかしくなります、ボケ始めています。
弁当を配達してくれる方に「ご苦労様」と
たったこれだけが一日の会話です。
たまにお隣さんや同フロアの方が何か手作りの物を
持って見えた時位かな。

私は子供の頃から質問魔で周りの大人達が迷惑がっていました。
知りたくて知りたくてたまらない子供でした。
それからどうした、それからどうしたと誰彼構わず聞きたがりましたので母など終いに「ああ~やぐらしか~、種まいて芽が出て樹になって花が咲いて実がなって落ちてもまだ聞く~」と
発狂しました。

近所のおばあさんが「そんなに怒るもんじゃないよ、こんな子は今に偉くなるからちゃんと答えんばならんよ」とたしなめましたね。偉くはならなかったけどやっぱり聞きたがり屋で敬遠されていたような気がします。

だから私は自分より知識の或る頭の良い人が好きでした。
字が読めるようになってからは本から知識を得られるように
なりましたので多少は質問しなくなったかな。

母の末弟(実は私の兄だった)などに宇宙のことが知りたくて
ソレからどうした、それから、、、と質問して
投げ出すわけにもいかず途方に暮れていましたね。

今でも私より頭の良い人に、
ついすぐに聞きますので敬遠されていますよ。
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運動不足解消の為にこれ買おうかと思うけど、どうだろうか!


8月15日と言えば思い出す


8月15日と言えば思い出すことはあの事だけ。

大町から農村部に4里の距離にあった母のおばさんの家、
おばさんの家は豪農(?)だった、
気前のいいおばさん夫婦が来た人誰にでも
ご飯を食べさせてくれていました、
皆腹を空かせていたのです。
行商の人にも食事を出していたそうだ。

母の兄弟は下に5人の弟がいたが、4人は満鉄、兵役で居なかった。
一番下の弟(実は母が結婚する前に産んだ息子)は
確か予科練に入隊出来る年令に達していた。
入隊して間もなく終戦になったので
そのおじさんは「俺、予科練崩れだ」と自嘲していました。

佐世保の実家は長男の嫁さんが留守を守っていたが
空襲で焼失していたのでその農家のおばさんの家に寄宿していた、
戦後母の弟たちは無事に帰還しても帰る家が無かったので
其のおばさんの家に暫く落ちつき
それぞれの落ち着き先に向かった。

だからそのおばさん宅が母たち兄弟の実家の様なものだった。
おばさん宅で祖父祖母の葬式、法事を全てやってくれていたのだ。食糧難の時代いくら農家と言えども
こんなに寄食、寄宿してくれる家は当時他にはなかったと思う、
葬式法事があるとご馳走が一人づつご膳に並べられた、
だから愛想の良くない父も仕事を休んででも
必ず出席していました。
なぜなら腹一杯御馳走になり、
帰りはそれぞれに食料を持たせてくれて小学2年生だった、
私の背中にも食料を沢山背負わせてくれた。

ある時父が母に腹を立てて追い出したことがある、
母はその叔母さんの家に行きました。
手のかかる幼児二人を残されて父は仕事にもいけない、
近所のおばさん二人が私にその行き道を聞いて
迎えに行ってくれました。

近所のおばさんはお礼に沢山の食料を貰って帰り、
大変喜んでいてそのことが一番印象に残っています。
それほど奇特な親戚でした。

当時は農家と言えども滅多に食料を分けて呉れる事は
あり得ませんでした。
帰って来た母は何気にいつもの家事をしていました。
父も何も言いませんでしたね。

8月15日もその家に両親と向かいました。
確か法事があったのです。
家に着いたら、そこにいた人たちが沈痛な面持ちで
天皇陛下が戦争に負けたと仰ったと言っていました。
皆口々にこれじゃ戦死したもんが浮かばれんと言い合って
いました。
私の覚えている終戦の日の出来事です。


今日は誕生日


令和6年5月31日(金)雨一時小雨


今日は私の誕生日だ、実は私には誕生日が二つある。
もう一つは6月中頃、当時父は支那事変で召集が掛かっていたのか
留守で代りに爺さんが入籍手続きをした様だ。

この爺さんがいい加減で自分の子供の入籍も出鱈目で
父はその件でよく文句を言っていた。
父が独身の夏の頃「今日は俺の誕生日だからご馳走を作ってくれよ」と母親に言ったら、
じいさん「なんばお前の誕生日なもんかい」
父「じゃいつだよ」と言ったら
じい「そうさなお前が生まれた日は雪が降っていたな」と言った。
父は酒を飲むと思い出すようで文句を言っていた。

私の下3人は正確な日に入籍しました。
そのおかげで一番下の弟は昭和21年3月13日に生まれたので
周りが早生まれは可哀そうだから、
4月に入れたらと忠告したが頑固に正確に入籍しました。

もし4月に入れていたら兵隊さん達が続々と帰還し
第一次ベビーブームと重なり
その後の人生が違ったものになった筈です。
弟の生まれた年までは超出生率が低かったので
その後の人生は悠々の広き門でした。

何しろ私の出た小学校は日本一生徒数の多い学校でしたが、
例年は一学年10クラスでしたが、
弟の学年は7クラス、その翌年から14クラスになりました。

弟が就職する時トヨタにするか日産にするかと迷って
トヨタにしたおかげで兄弟の中では一番安定した人生でした。

 
話は変わりますが、美空ひばりは昭和12年5月29日生まれで
私とは2日違いでした。
名前も加藤でおまけに私もひばりと同じ歯並びが悪かったので
親近感を持っていました。
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でも小学校の5年頃歯列矯正させられました、
当時歯列矯正が出来る病院は佐賀には無くて
小倉の歯科大学しかありませんでしたので
学校休んで一人で通院するのがとても嫌でした。

怖い父でしたが行きたくないと駄々をこねたら、
「今に大人になったら親に感謝するだろう」と言って
聞き入れて貰えませんでした。

因果は巡る、
私は異常に歯並びを気にする人間になり、
子供二人も歯列矯正してあげました。
完璧を期しました。
当時は歯列矯正する時期が大切だと言われていましたので
貧乏盛りの頃でしたが娘のときは無理に無理して矯正して
あげたのです。
その後息子が大学4年頃だったと思いますが「俺は歯並び等気にしていないのでその金で車買ってくれよ」と言いました。
私「歯並びは親の責任で直すけど、車は自分で買え」と言って
はね付けました。

当時友人の友人の息子さんが盛大な反対咬合でした。
父親そっくりだと其の母親は笑っていました。
その母親は真っ赤な愛車で颯爽と来ていました。
私はそんな親を理解出来ません、可哀そうにその男の子は
一番大事な時期に醜い出っ歯で過ごすのです。
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今朝の朝食
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今日の昼食

今日もとても体調はすぐれず、
カーブス迄歩くのは難儀でした、
これから夏になったら通えるでしょうか、
不安、

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始めてみる花
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一休みしてからパンを作る、今日はちゃんと見守って作った。

今夜は婿さんが久しぶりに夕食食べようよと言ってくれて
寿司屋を予約してくれました。
遅い時間8時過ぎに取れたそう、
寿司はいつでも好きだ。

今迄の歩数は4089歩


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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