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[220] 九州行き① 私の叔父さん 2006.3.30 00:33:07
18/3/29 (水) 晴れ 花冷え

まずビールで労働の疲れを取る
今日も午後から、会社に行ってパソコン業務の追い込みと訪問を一軒こなす。
昨日に引き続き、疲れが背中に溜まっている。
でも千鳥ケ淵の桜見物は行かねばならぬ。
這ってでも行く。
這ってでも行く。
今夜娘と夜桜を見に行った。
疲れが頂点に達していたので、まず靖国神社境内の屋台で腹ごしらえとビールを飲んで緊張を解いてから花見散策する。
やはり大変な人出でおまわりさんやガードマンが交通整理していた。
昼間も行かねば、天気が続けばよいのだけど。
たくさんいた叔父さん叔母さん達もだんだんいなくなり、
血縁の叔父さんはたった一人になってしまった。
伊乃作叔父さんは母の弟で今年82歳になる。
終戦後、叔父さんは満州から引き上げて、戦時中両親(私の祖父母)が亡くなっていたので、我が家に挨拶に見えた。
両親も大変喜んで歓待し、おいとまする時に実は妻を連れて来たと言った。
なんだ、どうして最初に連れて来ないんだと両親は呆れていたが、
連れてきた叔母さんは頭は丸坊主で男の格好をしていた。
当時の事を記憶しているシニアなら納得なさると思うけど、
当時満州では、満人やロシア兵の暴漢が日本人女性に乱暴していたので男装してほうほうの体で引き上げてきた女性が沢山いたのだ。
叔父さんは満鉄で車両修理工をしていた、
同僚達が続々召集されて行くのに自分には来ないので、
それはそれなりに心配になり、直属の上司が上のほうに聞きに行ってくれたら、満鉄にとって必要な人材なので免除の申請をしたと言われたそうだ。
(後記:叔父さん曰く、それから女にもててねぇ、引っ張りだこだったよ、兵隊に行かなくていい男はまれだからね)
そして、満鉄病院の看護婦だった叔母さんと一緒に引き上げてきたのだ。
その後叔母さんの故郷の福岡県に行き、福岡県警に職を得て、
叔母さんも看護婦として定年まで夫婦で働いた。
大宰府の高級住宅地に東京だったら豪邸といえる家を建て、
二人の子供も関東で暮らしている。
叔母さんはスポーツセンターで毎日泳ぎ、叔父さんより元気で
長生き間違いないと思われたが、脳に癌が出来て60代後半で亡くなった。
昔の男ってだめね~、叔母さんがいなくなったら、
男一人で家一軒守れず暮らしていけなかった。
それでケアハウスに入居した。
叔父さんは武士の子孫だ。一徹者だ。
諸々の修羅人生を背負って生きて来た、おばあさん達と暮らすのは
容易ではないのだ。
まず入居した時、叔父さんは得意の俳句を披露して挨拶した。
「あなうれし とも(心友)のいる ケアハウス」
しばらく後「だんまりと 白目でにらまれ 日が暮れる」となった。
また「人の苦を 笑いあう ケアハウス」ともなった。
叔父さんはケアハウスの運営や人々の暮らし方にまで黙っていなかった。
まず、食器、ひびや欠けた食器が嫌で経営者に文書で改善を申し入れたが聞き入れてもらえなかったので、ひびや欠けがある食器があるとバンバン投げ捨てた。
とうとう経営者は割れない食器に取り替えたそうだ。
その他、いろんなことに果敢に挑戦したので、一目置かれて居心地悪いそうだ。
この度も「もう居心地良くなった」と聞いたら、
「俺の性格じゃぁ無理だ」そうだ。
最近、叔父さんは亡き叔母さんに申し訳なかったと懺悔しているそうだ。
叔母さんが亡くなってはじめて叔母さんのおかげで、
自分がいかに安楽に暮らしていたか、それも解らず能書きばかり垂れていた事を。
でも叔父さんはクラシックのコンサートや美術展など常に出かけて、7月までに10枚程の前売りチケットが買ってあった。
生活も前向きで規則正しい暮らしをしている。
自分に課している日課表をコピーして私のお世話している年寄りに見せろと言う。
私はそんな叔父さんが好きだ。九州に行く時は叔父さんの所に
顔を出す事にしているが、最近なんとなく気になっていた所に、
佐賀の従兄弟から法事をやるから出席してくれと電話があり、
「そうだ叔父さんに逢ってこよう」と思った。
それと、最近楽天でブログを書いているMさんにも会いたかったので
三つの事を果たすため一泊二日で九州に行った。