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令和7年7月20日(日)晴れ

私は自分の記憶として三食の写真を展示している、
お読みになった方は毎回トマトを食べる
私の食習慣に違和感を抱かれていると思う。
トマトが大好きと言うわけではなくて、
いろんな野菜も食べられますが、
料理を展開するのが面倒でトマト一色で
必要な野菜の栄養が取れると思い
安直にトマトを食べているだけです。

トマトの事始は昭和35年頃に遡ります。
当時私は肺浸潤を患い、仕方なく実家に帰りました。

父は明治42年生まれの典型的な関白でした。
そんな父と結婚した母の心境を聞いて置けばよかったと思いますが、 
それさえも恐れ多かった。 

父とはうん、うんにゃ(はい、いいえ)以外の
言葉を発したことが無いような気がします。
弟が3人いましたが、皆学業を終えると家を出て
二度と戻ることはありませんでした、
だから両親の晩年は寂しいものでした、
でも決して弱音は吐きませんでしたけどね。 

それなのに私は結核を患い、6か月入院加療して家に戻りました。
父は始めに一度だけ療養所に来ましたが、
玄関にさえ入らず、息を凝らして外に出ろと言って、
離れたところで話しました、
当時のことですから国民健康保険以外はなく
医療費は実費で払わなければなりません。  

当時父の事業が落ち目になって家計は苦しく
長弟が早稲田に入学して父は其の学資に苦労していました。
「仕方ない、○○(弟)を休学(退学か)させるしかない」と申します。
佐賀では早稲田は非常に尊敬されて父の自慢でした。
それを私の療養費の為に退学、、、、

私は外出許可を頂き、当時住んでいた町内を地盤にしている
一面識もない議員さんを訪ねて苦境を訴えました。
其の議員さん、すぐさま市役所に
私を同道して福祉課の担当者に面会して
医療保護を受ける手続きを強行してくれました、

ただ医療保護だけで生活保護(小遣い)は働いていた
おじさん宅にお願いしなさいと言われました。
私はすぐさま父に手紙を書いて事情を話し、
生活費(女性には人に言えない費用が掛かる)として
1000円だけ援助してくださいとお願いしました。
その晩は本当に枕を高くして休めました。
6か月して退院しました。

父は私を黴菌扱いしました。
末弟が高校生でしたが、一切近づくな、父母とも近づくな、
と命じました。

母は洋裁師として縫製工場で働いていましたし、
私の昼食は独りぼっちで食べました。
近くの市場から鯨の刺身を皿一杯20円分買って
トマトと食べました。
毎回同じ食事をしました。
クジラ肉で動物性蛋白質、
トマトで必要な栄養素が取れると確信していました。

私って結構苦労の人生を送って来たのです。
だから、あの不良旦那なんて苦労の内には入りません。
自分で制御できましたからね。

まっ!当時は皆貧しかった。