令和7年3月15日(土)曇り

今朝起きて暫くしてから右の背中に
まるでぎっくり腰の様な痛みが走った。
段々酷くなる、
どうしてもこうしても息しても痛い。
今日は午前カーブスに行くつもりでいたので支度して、
もしかして整体院やってるかもしれないと
その道を通ったら、午前中やっていたので飛び込みました。
いろいろやってくれましたが、全然よくなりません。
寝違いですかと問いましたら、そうだと言われました。
帰宅後鎮痛剤を飲んでみましたが、全然効きません。
もう踏んだり蹴ったりです。
時の過ぎるのを待つしかないのか。
今日は1400円でした。
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夕方娘が自分の食べ物を持って来ましたので一緒に食べました。
最近戦争中の東京の様子を描いた本を読んでいるので、
私の思い出を話して聞かせます。
東京と違って田舎のことですから、そんな恐怖は経験ありませんが、ただ一回だけそれらしいことがありました。

田舎と言えども炭坑町ですから、警戒警報、空襲警報、のサイレンは炭坑側か町役場かで鳴らしておりました。

其の日父が坑内事故で炭鉱の病院に入院していましたので
弟と二人で母のお使いで届け物を届ける為に病院に向かう途中、
いきなり空襲警報が鳴り響きました。
普通は警戒警報の後に空襲警報が鳴るのです。

歩いていたところは広い道路で左側に芋畑、
右側に炭住がありました。
いきなり空襲警報が鳴り響きましたので道行く人々は
皆驚き慌てて隠れました、
私は自分一人で芋畑に潜りました。

芋の葉越しに見上げるとB29操縦の飛行士迄はっきり見えました。
敵は日本の防衛力を侮って低空で飛んでいたのでしょうね。
弟はどうしたかわかりませんでした。
炭住のおばさんに連れられて炭住に逃げておりました。
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我が街にはお月様もさぞや煙たかろう煙突が2本も立って
おりました。
我が町はその程度でしたが、我が町は山の中腹にあり、
有明海の向こうの大牟田などの工業地帯の空が真っ赤に
燃えているのが何度かみえましたね。

そうそう母の実家は佐世保にありましたが、空襲で焼けました。
母の弟達5人は兵隊(3人)、満鉄、予科練と
全部家を出ておりましたが、
皆無事に帰還しましたが帰る家はありませんでした。
祖父祖母も終戦間際に二人とも亡くなりました。


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朝食
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昼食、セブンのおにぎり、レトルト味噌汁、ほうれん草のお浸し、
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夕食、ニチレイの冷凍食、レトルト味噌汁、サラダ、
ホウレン草のお浸し、ビール

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