最近の世相を見ていて気が付いたことがある。
事件や不幸な事案でその家庭がシングルマザーと
言う事例が多すぎる。

子供がいたら絶対に離婚してはならないと思う。
まっ、本人にキャリアがあって経済的に安泰とか
実家が支援してくれるとかであれば離婚してもいいでしょう。

でもね、何の資格も経済的な見通しもなく
子供抱えて離婚するのは子供の人生を閉ざしてしまいます。
だから、子供が大学出るまで待つのです。
その間自立できる資格を取るとか勉強して耐えるのです。

私の事例を申す。
私の旦那は印刷関係のすぐれた技術を持って、
バブルの最中でもあったので仕事はやり切れない程ありました。
このまま真面目にやっていれば
多分小さいビルの2棟や3棟は建ったと思う。

しかもタフでした、遅くまで仕事しても
それから歌舞伎町に繰り出し、
キャバレーやクラブに入り浸りました。
毎晩深夜に帰宅して夜明けとともに早朝に出社しました。
子供達は日曜日疲れた顔した父親の顔しか見られませんでした。

当時私の友人の親類が車を買い替えると言うことで
そのベンツを譲り受けました。
中古でしたが夜見ればベンツはベンツです。
夜の女にもてました。

毎晩のようにカードで10万程下ろして(それは借金)
夜の歌舞伎町に出没しました。
ヤンと言う源氏名のキャバレーの女に捉まりました。

その女に店を出させて、自身も仕事終わってから
黒いチョッキを着こんでカウンターの中に納まっていたようです。
その店を出す為に義兄の家を担保に金を借りました。

我が家はとっくに担保になっていました。
車を走らせて神奈川県中央地にある役所に登記簿を見に行った時に全て悟りました。
二重三重に担保されていました。

そんなスポンサー男のいる店が繁盛するわけはございません。
間もなく潰れた様です。
旦那は逃げた。
その後その女から何度も電話がありました。
私が出ると切れます。

後年、区役所通り辺りを旦那と歩いて居た時、
地下に通じる店舗をしみじみ見ていることに気が付きました。
その場所あたりにお店があったのでしょう。

私は当時籐工芸に凝って資格を取り、車の免許も取り
指導したり、販売したり、充実した生活をしておりました。

でも、なんだかおかしいので会社に出ると言うのを
旦那は引き止めます、
私は町田にある夜間の計理学校に通い簿記の資格を取り、
会社に乗り込みました。

あてもなく手形を切っておりました。
銀行から今日の3時に何十万落ちますと電話があると
仕事ほったらかしてバイクにまたがって出かけました。
金と言う文字を求めてやみくもに飛び込んで
金策していたのでしょう。

その後有能な弁護士さんに巡り合い、
弁護士さんの支援をうけ乍ら一つ一つ解決していきました。

旦那は借金魔で独身の時は義母が尻ぬぐいし
結婚してからは私にお鉢が回ってきました。
父と私の次弟からそれぞれ200万借りていました、
10年経った頃父から
「返せないなら返せないと何か言い訳するべきだろう」
そして「俺には良いから弟には何としても返せ」と言って
きました。
旦那にそのまま伝えたら「返すのはいつでもいい」と
言ったくせにと恨み事を述べます。
父と弟には私が毎月5万づつ返済しました。
話せば切りがないので割愛します。

当時父から「子供を連れて帰ってこい、子供二人は俺が大学まで行かせてやる」と言って来ました。
しかしつらつら考えてみました。
あの父の下では暮らせないと思いました。
地獄はもう二度と嫌だと、

離婚はしない、二人を大学まで出すには何の取り柄資格もない
私一人では無理です。
二人が一人前になるまでは
「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぼう」と決心しました。

借金返済しながら老後資金も貯めました、
途中バブルの恩恵を受けて立ち退き資金も得られ、
マイナスからプラスに激変しました。

60歳頃まで頑張った頃印刷業界に地殻変動が起き、
激変しました。
紆余曲折ありましたが、ゆとりを残して閉業しました。

閉業してから平成11年頃、新聞テレビで介護保険の話題で
毎日のように取沙汰されました。
問「うちのばあさんを介護しても一銭も貰えないが、隣りのばあさんを介護したら金になる、これいかに」と言う問がありました、
資格が無くて介護しても金にはならないが
資格があれば金になると回答

そうだ私には実母と義母が居る、資格取ろうと思いました。

区役所が募集している講座に何度申し込んでも
抽選に漏れますので新聞広告に乗っていた民間の
「やさしい手」の講座に通いました。

当時受講生はベテランの家政婦さんばかりでした、
これからは資格がないと働けないという動機でした。
そこで私は大ベテランに取り入りました。
私はどこに行っても一人は友達を作ることにしています。

その方は夜間専門の付添婦をしていて
月収は60万はくだらないよと豪語していました。
講座を受講して思った事は私は介護される側にもする側にも
回りたくないと言う事でした。
私には籐工芸があるしと

介護保険が始まったのは平成12年4月1日でしたが、
私の資格取得日は平成12年3月31日でした。
元祖です。

其のベテランの紹介でその後定年まで勤める会社に
12月に入社しました。
そこで5年働いてすごく稼ぎました、
あの当時の制度は大穴だらけで幾らでも稼げました。
其の稼ぎで我が家のリフォームをしました。
1千万以上掛けました。

5年後、66歳で介護支援専門員の資格試験に挑戦しました、
去年我が社で10人受けて全滅だったと聞いたので
私は今さら資格取っても役には立たないだろうと
思いましたが、私の実力を見せてやろうと言う動機でした。
ため口にも進めました。

昼間仕事夜勉強は1月頃から受験日の確か10月まで必死でした。
毎晩のビールが飲めないのでこれを来年も続けられないと
頑張りました。
其の間あちこちの講座も受けて万全の力で臨みました、
多分満点だったと思う。
当時の合格率は30%でした。

暫くして、当時ケアマネは引っ張りだこで
月給は正社員で30万は下りませんでした。
よし離婚しようと思いました。

それで渋谷と新宿の占い師の元に一日で回りました。
どちらの占い師も同じことを言いました。
あなたは十分やっていけるけどご主人はこれでだめになりますよ、
だからご主人を掌に載せて優しくしてあげて
暮らしたらどうですか、
そうすればご主人も変わりますよと言います。
私が変って主人とうまくやって行こうとは思いませんと
申しましたが、

待てよ、もし離婚したら、
旦那の行きつく先は「橋の下」だろうなと思いました。
そこで子供達の父親が橋の下では可哀そうだと思い至りました。
だから旦那には宣言しませんでしたが
私の中で「家庭内離婚」をしました。

それからは夜の食事は作って一緒に食べるが朝昼は放置する、
私は何事をするにも独断で決めて、
例えば旅行に行く時も「明日からいつまでいません」と
宣言するだけです。
旦那の年金は全て旦那の受け取りにしましたので
金銭的には楽にやっていたようです。

その後、息子と居酒屋で一献傾けている時です。
「俺は、実家があるってことがとてもありがたい、○子(娘)も同じ考えだと思うよ」と言われました。
しみじみと嬉しかった!!

私の一番うれしいことは子供二人が旦那に似ていないことです。
多分私の方の血筋だと思われます。
私の一族は仕事も住まいも一度決めたら決して変えませんね。
真面目に一途に働きます。
資格証
資格取ったお陰で83歳まで働けましたし、
辞職申し込んだ時社長には90歳まで働きなさいよと
引き止められました。
私も区か都の最年長ケアマネと言われるまで働くかなと
冗談言っていましたがさすがにそこまでは頑張れませんでした。

長文をお読みいただきありがとうございます。