令和6年7月14日(日)雨模様

リハビリを担当してくれた職員さんが
中学生の息子が反抗して手を焼いていると
悩みを打ち明けられました。
私、男の子の育て方については持論があります。
「男の子はね、小学生まではおんぶにだっこ舐めまわして育てなさい」と
只貴女もその様に育てたかと問われれば、
忸怩たるものがあります。
しかし真剣に対峙したことは自信を持ってそうだと言えます。

中学生になると途端に親の言う事に悉く反抗します。
放射線を描いて遠くに飛んで行きます。
それが正常な成長だと思う。
戻って来てくれるのか判りませんが小学生まで十分可愛がって
育てたのでそれ以上は望まないこと、

 当時私の周りの母親は言っても聞かないので
何も言わないことにしたと言っていました。
そうじゃない!
親として言うべきことは聞こうと聞かなかろうと言うべきだと。

反応は無くても親の云ったことは骨身にしみているはずです。
我が息子も多感な年頃に家庭内が大混乱していましたので
親として何も期待はしませんでした。

只他人に迷惑を掛けず、金銭問題を起こさなければいいと
それだけを願っていました。
40代までは割と疎遠でしたが、
結婚して落ち着いてからは近づいてきました。

ある時息子と一献傾けた時、息子しみじみと言いました。
「俺は実家があると言うことがとてもありがたい、○○子(娘)も同じ考えだと思うよ」と言われた時は
しみじみと子育て成功だと嬉しかった。
当時離婚してもおかしくない状態でした。

それと縁談があった時「俺が高卒だったらこの縁談は無かったと思う」とも言われました。

と言うのは息子は小学2年生から野球をやっていましたので
大学入学の時監督さんに無理なお願いをして寮に入れて貰いたい、そうでなければこれから東京で暮らすには3部屋の部屋は借りられないしアルバイトしなければ大学生活は不能だと無理な
お願いをしました。

いろんな方のお力添えで寮生活に入りました。
しかし野球の名門大学だったので全国から甲子園級が
沢山居て挫折して2年時にとうとう退部して我が家に戻りました。

寝る部屋も無かったので私達夫婦の部屋で過ごしました。
当時私は少しでも稼ぎたいと思い家業が終って家族の夕食の支度を終わってからスカイラークでパートしていました。
しかし当時娘は高校受験を控えているのに
私の留守をいいことに勉強を一切していないことに気が付き、
止めました。

代りに息子を12時までと言う条件で入れて貰いました、
しかし朝起きてみると息子は終夜働いていたのです。
私は無慈悲に叩き起こして学校に行かせました。

店長に可愛がられて頼みを聞いて終夜働いていたのです。
すれすれでもいい、成績はびりでもいい、
大卒の資格さえあればいいと考えていました。

幾ら名門の高校を出ても高卒は高卒、
程度の低い大学でも大卒でなければ
スタートラインに並べないと言うのが私の持論でした。

無事に卒業しましたので親としての責務は果たしたと思いました。
その後母が亡くなり遺産が少々貰えましたので、
スラムみたいなマンションでしたが、
幡ヶ谷駅4分のぼろマンションを買い結婚するまで何十年も
住んで居ました。
月々3万円入れさせましたし、
地権者に損のない価格で買って貰えました。

私の子育ての信条は人に迷惑をかけない、
金銭問題を起こさないと言う事でした。
子供達はその点親よりしっかりしていますので
親としてとても嬉しいです。
只一つ、幸せであればいいと願っていました。


002
朝食 生ゴーヤ
003
昼食、玉蜀黍、メロン
夕食
夕食、