
昭和41年房総
人間は死ぬ間際に一言いい残すようだ。
ありがとうとかお世話になったとか。
恨みつらみとか。
私の旦那も死ぬ前まだ歩ける時になにか言いたいような
素ぶりだった。
素ぶりだった。
しかし私達夫婦は50代終わり頃から家庭内離婚状態だった。
それは私だけが心に秘めていたことで旦那に宣言したことはない。
死ぬ前に恨みつらみを言われたら後に残された私は尋常な精神ではいられないと思ったのですっと避けていた。
何を言いたかったのだろうかと時々思う。
多分ありがとうではないと思う。
私は最近しきりに思う、
私はなんと言い残すだろう。
最近思うことは我が人生に悔いは無いと断言出来る事だ。
生々しい頃は悔いや恨みつらみが沢山あったような気がするが、
今となっては何もかも忘れていい事だけしか思い出せない。
今となっては何もかも忘れていい事だけしか思い出せない。
私の生まれ時の皆さんは皆同じだったと思うけど、
皆一様に貧しかった。
しかし皆貧しかったので引け目は感じなかった。
明日を信じて必死で頑張った。
私も昭和35年に仕事を求めて上京してきた、
思えば高度成長の兆しは昭和36年頃からだった。
思えば高度成長の兆しは昭和36年頃からだった。
なぜ36年とはっきり覚えているかと言えば高校の同窓生が
1年浪人して国立大学に入学したが、
1年浪人して国立大学に入学したが、
順調にいけば昭和35年に卒業だけど其の年は就職難だったが、
36年は企業から求人が殺到して教授が振り分けるのに
苦労していたそうです。
36年は企業から求人が殺到して教授が振り分けるのに
苦労していたそうです。
彼は日立製作所に入社してかなり出世して定年後1年以内で
年金も貰わずに病没しました。
年金も貰わずに病没しました。
同窓会のお世話を長年やってくれていました。
その頃はまだ私達底辺には高度成長の波は到達していませんでしたが、必死で働きました。
まるで移民一世です。貧しい国から移民した者は二世三世で上層に行けるように必死で子供を教育しました。
私は長いこと金銭破綻者の旦那を恨んで
そのしりぬぐいに必死でした。
そのしりぬぐいに必死でした。
でも最近はそんな辛かったことは彼方に行って、旦那がいたから
良い子が生まれ、旦那と結婚したから東京で浮かび上がれたのだと思い至りました。
甲斐性のない男と結婚していたらどうでしょうか、
いくら私が頑張ってもここまでは来れなかったと思う。
二人の子供を必死で教育したから子供達の現在がある、
現在子供達はかなり上層に属しています。
現在子供達はかなり上層に属しています。
二世にして上層階級に登れました。
只言える事は私自身何事も諦めないで
必死で挑戦して頑張りました。
持って生まれた才能のない物にも一応挑戦しましたが、
駄目でしたね。
駄目でしたね。
カラオケとかダンスとか水泳とか、
今!しみじみと幸せを噛み締めています。
一年の終わりに思う事!
最晩年に幸せを噛み締める人生、
お互いに良かったね。
mamasango672
が
しました