令和5年8月15日(火)夜半に雨、曇り

終戦の日の一コマはなぜかよく覚えている。
15日お盆の日は母の実家代わりのおばさんの家(農家)に
家族で向かった。

母の両親は終戦前に相ついで病没して佐世保にあった実家は戦災で焼失して母には実家が無かった。

母のおばさんの家は多分豪農だったと思うけど行けば必ず腹一杯
御馳走になり帰りは背中一杯の食料を頂いて帰った。
幼児だった私の背中にも背負わされた。

だからサラリーマンだった父も仕事休んでも必ず参集しました。
おばさん夫婦は気前のいい人たちで行商の人にも食べさせていた
そうです。

戦時中母の弟5人は出征、予科練と家を出ていて実家の機能を果たす家はなかったのでそのおばさん宅がすべてを引き受けて下さっていた、おじさん達(母の弟)は戦後5人とも無事に生還しましたが帰る家が無いのでそのおばさん宅に寄宿して身の振り方を決めていました。

その日15日は多分母の両親のどちらかの初盆の法要が
行われていたはずです。

家からその家まで4里の道と言われていました、交通の便はないのでいつも歩いて行きました。
ギンギラギンに太陽に焼かれながら到着しましたら、

大人たちが沈痛な面持ちで日本は負けたと言っていました、
こんな言葉が忘れられません「これじゃあ、戦死したもんが浮かばれん、何のために戦死したのだ」と口々に大人達が言い合っていました。
記憶はそこまでしかありません。

国民学校2年生の8月でした。