おてんば88歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

2024年08月

どこに住むか⓶(神社と本家は災害に遭わない)(追画像あり)


令和6年8月31日(土)晴れ

001
数えてみたら15,6個あった、上の枝が垂れて塊りになっているので
熟し過ぎるまで見つからない
004
娘が喜ぶので味噌炒めを作る、婿さんの弁当に入れるらしい、
005
006
娘、ゴーヤをあてにしてビールを飲む
003



座間で台風が来るたびにハラハラして暮らした10年弱、
私は災害に遭う土地をあちこち歩いて研究しました。
そしてもう二度と同じ災害に遭わないと決心しました。 
実地に歩いたり古老に話を聞いたりして知識を深めました。

「神社と本家は災害に遭わない」と言う言い伝えを実感しました。
一度災害に遭った土地は必ず同じ災害に遭うのです。
100年に一度位と言う人もいましたが、
それが明日かもしれないのです。

土地台帳はその土地の古名を表わしています。
座間のその土地は相模川第二段丘のすぐ傍泉の湧く土地の
底なし沼を埋め立てた土地で座間入谷字作り道根付と言います、
土地の性格を表わしています。

相模地方には他にも大沼小沼と言う古い地名の住宅地もありましたが、そこも水害常襲地でした。後からおしゃれな地名を付けた土地が沢山ありました。

その団地の北の方に市役所と道一つ隔てて鈴鹿神社がありました。
市役所側はズブズブの土地でしたが、神社側は長い年月相模川が溢れる度に運んで来たこぶし大の石が数十メートルも深く敷き詰められていてそこを掘り進むのは至難の業だったのでビルを建てるのをあきらめて二階建てにしたそうです。

今住んで居る土地は23区内で二番目に海抜の高い所に
建っています。
一番目は神楽坂だそうです。
ビルを建てるには普通は岩盤迄数十メートル
穿(ウガ)かなければならないのに
ここはすぐそこに岩盤があるので
それはそれで建設業社は苦労したと土地の古老から聞きました。

そんな土地ですから地震にも水害にも強い土地です。
ここが建設中は息子の妊娠中ですぐ近くに住んで居ましたので
憧れていました。
当時は新宿の先まで高い建物が無くて聳えていました。
完成してオープンルームがありましたので見に行きました。
とても庶民の買える物件ではありませんでした。
売値500数十万円
頭金320万円でした、周りの人が320万出せば郊外に一軒家が買えると言っていました。
完成したらエリートばかりが入居していました。
都の外郭団体が建てたので都の役人関係者と
地権者の三菱関係者で占められ、
住んでいる方に話を聞いたら周りは一流大学出ばかりで
私の旦那は二流大学出なので肩身の狭い思いをしていると
言っていました。

さて東京に借家を探している時に賃貸情報誌に
なんとこのマンションが出ていました。
大家さんは旦那さんが都庁に務めていた方で亡くなられたので
奥さんが地方に越して賃貸に出していたのです。

直ぐに不動産屋に鍵を借りて見に行きました。
西方向に富士山が見えました。
ベランダが広いのでここで富士山を見ながら
ビールを飲もうと夢想しました。
直ぐに不動産屋に電話して「借ります」と言いました。
家賃18万円、当時の私達には高値でしたが、決めました。

なぜなら多感な年頃の娘は中学3年でした。
学校の近くに住むのに分相応の惨めアパートに住んだら
娘の為に良くないと思ったのです。
電話も入れない、食事は最低、納豆や豚こまだけを
食べても住まいだけは羨ましがられる部屋にしようと
硬く決心しました。

約10年位住んでバブルが弾けて安くなったところで
同じ位置の上階を買いました。
不燃建築公社が建てたマンションなので上下燐家の影響も無く、
過去に数度の火事がありましたが、絶対に延焼はしませんでした。
その上理事会がしっかり機能していて耐震補強も施されました。

日本全国様々な災害に遭っていますが、
おかげで私は安心して暮らしています。


全て良好


令和6年8月30日(金) 台風

今日は台風の大雨の中タクシー飛ばして心臓専門病院を受診した。
娘が自分の歯科の予約をずらして同行してくれた。

私がボケているのでどの施設でも娘さんと一緒にと言われるが、
娘に話を聞いて貰わないと私の記憶は5分と持たないのだ。

主治医は3年程お世話になった方、
今回循環器専門の訪問医を支援センターで紹介されたので
今後そちらにお願いしたいが先生にも連携して頂きたいと
申したら、その機関だったら当院と深く連携していますと
喜んで下さった。

そして私の経過を詳しく書いて下さると言う。
こちらの先生は患者の話を良く聞いて下さるので
いつも予約時間をオーバーする。
こちらに移ることを喜んで頂いた。 

今日も採血、採尿、レントゲン検査されたが
全て数字は良好だそうだ。
最近あまり具合が良くないので
又入院してくださいと言われるのではないかと
覚悟していたが何一つマイナス事項はないそうだ。
栄養状態も良好だそうだ。
あの美味しくない食事をしぶしぶ食べていたが
それで不足はないそうだ。
信じて突き進もうと思う。

午後から整形外科クリニックも受診したが良好だそうだ。
信じて進もうと思う。
注文していた特注のサポーターも気持ちよく装着できる。

オーダーメイドサポート
オーダーメイドサポーター、29,309円
役所に申請すると9割戻って来るそうだ、
本当に何から何まで年寄りを大事にする国だね、
私の疾病名は第3腰椎圧迫骨折だそうだ。
私はトイレがすごく近いので心配したが
下着の上に装着してその上にパンテイを穿くと問題ない。

001

004






完璧にボケた


令和6年8月29日(木)台風近づく

001
002
 
今日なぜか通帳をみていた、
私は郵貯と都市銀行に口座を持っていて
両方共公共料金を自動で引き落としている、
其の都市銀行の通帳が見つからない、
混乱してしまった、
娘が来て話を聞いてくれたが
段々混乱が酷くなった。
もう完璧なボケ老人だ。

思えば3月から入院、自宅引きこもり生活しているから
無理もないか、そうかと言ってこの暑い外に出るのは
もっと老人には耐えがたかったと思う。
運が悪かったんだわ。
もう元には戻らないよね。
こんな末路を迎えるなんて想像もしてなかったよ。
ちょっと前まで毎日好きな料理を作って食べていたのに、
もうそれも出来ないのかな、

心身良くない


令和6年8月28日(水)台風10号近づく

今日はやっと待っていた訪問クリニックの相談員から
電話があった。
私がケアマネの時は相談されたらサクサクと進めたもんだけど
支援センターの相談員は反応が遅いのでイライラする。
イラついちゃいけないね。

娘が同席出来る日に訪問したいとのことだったので
娘の電話を知らせた。
私がかなりボケ始めていることを周知しているのかな。
なんでも娘同席でと言われる。
001
これだけしか食べないのに胃が一杯になり気分も悪くなる
002

 

今日も胃の調子悪し


令和6年8月27日(火)台風近づく

001
粗食の朝食を食べた後に又も気分が悪くなり
起きていられないほど、
布団に横になって腹式呼吸で整えたり
安静にしていたら暫くして幾らか楽になった。

004
これはバカナスの鉢に勝手に芽を出したので
バカナスかと思い大事に育てていたが、
ただの雑草らしいのでカットすることにした、
005
花の種をまいたのにどうも雑草みたいで花も咲きそうもない、
ゴーヤと共に水の要求が激しいので思い切って
根こそぎカットした。

003
さっぱり うっかり朝顔の根元もカットしたので
朝顔咲かないな

娘が仕事帰りに寄ってくれた、しばらく話する。
大阪から京土産の菓子と中華まんを買って来てくれた

今日は幾らか涼しいので廊下を何度も散歩する。

夕食
今夜の夕食、
夕食前に娘とビールを飲んだせいか食欲なかった、
やっと食べた



 

暇だから悲観の底に落ち込む


令和6年8月26日(月)晴れ

003
黒富士
006
007
011
 
昨日頃から多少食べたくなっている、
でも好きな甘いものはないのでアイスや果物で我慢している

夜間寝付きが悪いのに、
せっかく寝付いても何度もトイレに起きる。
寝ている暇がないのだ。

今日も腰は痛いのであまり立ち居、歩きは出来ない、
考えてみれば痛み止めはちゃんと飲んでいないのかもしれない。
以前は決められた服薬の中に痛み止めも入っていたけど
退院して薬局が変わってから痛み止めは別になっている。
以前は一日4回飲んでいたのだ。
支援センターの担当者に訪問医とリハビリデイ利用の件を
再度お願いした。
何しろ行動が遅い、
私が暇だからイラついているのかもしれないね。



ボケ道まっしぐら


令和6年8月25日(日)晴れ

001
002
004
娘がゴーヤの味噌炒めを作ってくれと言って
デカイゴーヤを買って来ました。
我が農園では今のところ収穫出来ませんが
あと数日すれば食べきれないほど収穫出来るでしょう。


今日ほど自分がボケていることを自覚したことはない。

ブログのコメント欄のアップが出来なくなったので
娘に指導して貰った。
コメント欄は英数字の小文字で書かねばならないが
どうしても英小文字にならなかった。
娘に指導されながらブログを弄っている時
慣れているはずの操作が出来なかった。
さすがに愕然としました。
もう冗談ではなく本格的なボケが始まっています。
ブログも書けなくなったら私の存在価値も無くなります。
目も上がっているしパソコンに向かうのも
限界に近づいているのでしょう。
どこまで耐えられるかこれからの道は地獄道です。
先日通院に歩いて行ったせいか昨日今日は腰も一段と痛く
立っていたり歩くと下半身が痛みます。
まっ行くところまでお付き合い下さい。




 

これから息子に任せる(追画像あり)


令和6年8月24日(土)晴れ

001
003
002
息子が水を飲んでいるかと持って来ましたよ。

今日は午後からそれぞれ息子と娘が来ました。
息子は8月が誕生日なのでお祝いを2万円上げました。
それぞれ祝うでしょうから、私は金子で祝います。

10月に旦那の7回忌法要がありますので
今年初めて息子に任せました。
今までは私が取り仕切っていました。
お寺さんが近くでよかった。
娘は暫く話相手をしてくれました。

昨日久しぶりに歩いたせいか、
今日はとても疲れていて足腰も痛いです。
なかなか良くなりません。
自信を無くしていますよ。
医者は楽観的に申してくれますが、
私の心身はついて行けませんね。
背中もなぜか疲れています。
寝よう!
良くないけど!
003
008


 

何処に住むか!


令和6年8月24日(土)どんより
大町被害1

大町台風被害
佐賀県大町の台風被害

今夏、列島は地震、台風、大雨に翻弄されています。
私の長い人生でもこんなに被害続きの年はありませんでした。

私が育った家は大町では街で一番高い場所にありましたので、
大雨が降っても何の被害もありませんでしたが、
町の下の方はこの地方台風銀座と称される場所でしたので、
一雨降ると床上浸水していました。

親しくしている方の家は谷水を集めて途中家庭排水を集めて流れている(用水路)の傍でしたので一雨降ると床上浸水しました。
トイレはくみ取りでしたので汚い水でした。
一度床上浸水するといつまでも臭いと言っていましたね。
能天気な私はどうしてそんなところに住むのと
疑問を呈していました。

上京して結婚してから商売の経理を担当してくれていた方が、
座間にある家を買ってくれないかと頼まれました。
中堅の建売業者が底なし沼(岩盤迄25mある軟弱地盤)を
埋め立てて即300戸ほどの分譲住宅を建てて売り出した物件でした。
今度隣地に其の業者が新しい建売を建てたので
そっちに移ると言う事でした。
信頼していた方(私とぎりぎり迄行った方!!)でしたので
何の疑問も抱かずにその話乗りました。

越した所は用水路の近くの一角で不良物件として建売業社を訴えて
新しく建てさせた隣地(少し高台)に集団で越して、
なにも知らない新人が集団で越してきたのです。

親しくなった地元の方々から散々こき下ろされました、
あの土地は底無し沼を埋め立てて地盤がまだ固まらないうちに
建てたので段々沈んで一雨降ると床上浸水する土地だ、
そんなところを買うなんて信じられないと言われました。

ところが越して半年してから、あのテレビドラマになった、
台風被害は我団地も呑み込みました。
(1974年9月、多摩川が台風で増水し、東京都狛江市の堤防が決壊して家屋19戸が濁流にのまれた。 この多摩川水害は、山田太一さん原作、脚本の連続テレビドラマ「
岸辺のアルバム」(77年放送)の題材になった。)

団地の西側(相模川の方)に農業用水があり道より高い
ブロック塀が築かれていて、
団地の水を強制的に排水していましたが、
用水路が溢れると団地に水浸して逆流していました。

新規入居者はいろいろ調べて騙されていたことにきずき
集団で売り主と分譲した業者を訴えました。
話せば長くなりますから割愛しますが、

その後旦那が借金まみれになって
その家も貸金業者に差し押さえられましたので取られて
又東京に舞い戻って来ました。

銀行で買主と差し押さえた金貸しと私の弁護士さんとで
交渉しましたが、人生最大の屈辱でした。
土地40坪の家が2000万以内でした。

後の方は壊して盛り土をして
新築すると言う事でした。
座間駅6分の環境は良い所でした。

そこで10年近く住み子育てしました。

弁護士さんが奮闘してくださって、○○さんも子供抱えて
これから東京に部屋を借りなければならないので
100万こちらに寄越せと交渉してくれました。

ところが後半年したらバブルが押し寄せて
5,6千万で取引されるようになったのです。
運が無いとはこのことです。

それで売れれば一気に借金が返せたのです。
その後何年も借金返済の年月を過ごしました。

その後は私が全てを取り仕切り借金を完済しました。
何年掛かったかなぁ。
旦那には月5万(のちに7万)の小遣いを渡し、
働かされて好きなキャバレー遊びも出来なくなり、
いつもむくれていましたね。

続く!
乞うご期待!


 

ボケ本格的


令和6南8月23日(金)晴れ

今日は列島に台風が近寄っているので幾らか涼しかった。

午後から娘が来てくれて、歩いて整形外科に行く。
久しぶりの外出だ。
特注コルセットの採寸、
29309円だけど健康保険から9割返還されるらしい。

レントゲン撮って診察もして貰ったが、
医者が言うにはこれから良くなる一方らしい。
医者は楽観的な事を言って喜ばせてくれる。
リハビリデイに行くことも賛成された。

終わってから薬局と、久しぶりにスーパーに寄り買い物した。
娘が一切取り仕切ってくれたがもう本当に私はぼけ老人だ。
役所の書類が様々あるが読み下すことが苦手だ、
娘がいなかったら私は日常生活も出来ないと痛感した。
リハビリデイと訪問医を取り入れる手続きを始めることにした。
少しづつ外歩きして一日も早く元に戻りたいと思う。

002
003


娘帰国


令和6年8月22日(木)酷暑

001
食パンが無くなった、
002
お昼
004
夕食

今日は久しぶりにシルバー人材センターのヘルパーさんに
掃除に来てもらった。
随分長い事お願いしていなかったし、
その間只の一度も掃除していないのでお願いした、
家中丁寧に掃除して頂いた、
私が普段しない高い所なども185㎝の背があるので楽々とされる。
終わってから飲み物を給して少しお話するのが楽しみだ。

最近5年契約していた区の公園の管理業務が更新されないので
収入が減ると仰るので、同じフロアーの女性を紹介した。
彼女とは終わってから始めてゆっくりお話ししたけど
良く知らなかったけど彼女はアパートなど物件も2戸持っている
資産家だった。
喜んでくれた。

昔は歌舞伎町でバーを経営していて
いつも夕方粋な着物を着て出勤されていた。
娘さんが都内に住んで居るけど、あまり頻繁には訪問されないが
必要に応じて行き来しているそうだ。

4日間留守だった娘が、夕方今着いたと空港から電話があった。
冷蔵庫も空になっているのでホットしました。
明日は整形外科に通院する。
娘がいなかったらどうにもならないな。



地球は変革期か


令和6年8月21日(水)酷暑

001
やっぱりプロテインは私の胃には過剰だと思う。
一袋半あるからあの方にあげよう。
002
004
 
昨夜も悶々として寝付けなかった。
睡眠導入剤を飲みたいな。
いろいろと悲観的な思いが去らないせいだと思う。
何がそんなに窮状なんだろうか、
腰と私のせいでない酷暑だけではないか。
閉じこもっていることが良くないと思う。

支援センターの支援員が二か所のリハビリ専門の
デイのチラシを持って来てくれた。
医者の許可が出ればどちらかに行こうと思う。

今日はさすがにどんよりとして寝不足症状があったが
昼間寝るとまた夜悶々するので我慢した。
溜まっている書類を整理した。
でも何度も同じ作業をする、本当にボケが始まっているわ。
今夜はぐっすり寝たいな。
日本列島は災害だらけ、酷暑と豪雨、
なにか罰が当たっているのだろうか。
確かに地球がおかしい。
変革期だろうか。
私の来た道はあまりにも順調だったと思う。
だから今大変な思いをするのは長生きし過ぎたせいかも
しれないな。


お待たせしました


令和6年チラシ 横網町_page-0001 (1)
 

今日も誰とも話さない日


令和6年8月20日(火)酷暑

 004
ゴーヤの中に朝顔が混じっている


005
007
ゴーヤの味噌炒め、これ好きなんだ。

昨夜寝付けなくて往生しました。
一晩中悶々としましたので朝起きられないだろうと
思っていましたが、いつもどうり起きられました。
そして昼間も眠くはならなかったので寝てはいたんでしょうね。
腰は腰かけていたり寝ころんでいれば痛くはないのですが、
立ったリ歩くとすぐに痛くなります。
もうこの状態で死ぬまで行くのでしょうか。
考えると生きているのが辛いです。

支援センターから何の音沙汰もないのでこちらから電話しました。
何も進展していません、訪問医もアクセスしていないそうだ。
要支援2ってそんなに軽く扱われるんだ。
訪問医も医師を紹介するから自分で手続きするようにと言われた。
私は現役時代に要支援の方の支援したことがない。

リハビリ専門のデイに行こうかと思う。
週に2回行けるらしい。
痛くても我慢して運動しようかと思う。
近いうちに整形医に掛かるので痛くても運動しても良いかと
聞こうと思う。





万引きする老人


令和6年8月 19日(月)酷暑


001
二人の方から朝食後気分が悪くなるのは
プロテインのせいではないかと御指摘受けました、
それもそうかもと思い今朝は止めました、
確かにいくらか胃の調子は良くなりました。

002
お昼に多少お腹が空きましたので
梨と台湾土産のパイナップル菓子と野菜ジュースを飲みました

003
夕食、

今日も心身がグダグダして寝ころんでばかりで過ごしました。
もう私は正常な生活が出来ないのではないかと暗澹たる思いです。

何気にテレビを観ていたら、
大阪のスーパーで万引きする老人を摘発する様を放映していた、
犯人は殆ど男女とも老人です。
わずかな食糧品を万引きしていますが、
不景気のせいばかりではないと思いますが
老人は生活に困っている人が多いのでしょうか、
年取ってから貧乏するのは辛いことでしょうね。

私は若い頃から老後はお金が無ければみじめだと
強く思って暮らしてきました、
若い時は貧乏でも平気で過ごせるが老人になったら
貧乏したく無いと先ばかり見据えて生活してきました。
私の同時代の方々は皆同じ考えの方が多いと思います。
壮年の頃高度成長期だったことが幸いしています。
いい時代を過ごしたんですね。



孤独は耐え難い


令和6年8月18日(日)酷暑

002
朝食、たったこれだけ食べても胃が重くなって気分が悪くなり
お昼を抜きます。体重は51㌔になりました
退院してからは52㌔でした。
007


一日中テレビを観ている。

今日何気に観ていて引き込まれたのは
息子がアスペルベルガー症候群の母親の苦闘でした。
息子が料理が好きなので料理学校に入れて
独立してレストランを開き
母親が全面的にサポートしているんですが、
採算と言うものを無視して仕入れるので
1軒目は潰し2軒目を何とか維持しようと奮闘する
母親の苦労でした。

父親は歯科医で金銭問題を全面的に援助しているが、
もう父親も84歳で客足も少なくなって閉業します。
独立などしなければいいのにと思いますが、
こんな人の働く場所はないでしょうね。
なまじ料理などできなければ福祉のお世話になる道も
あるでしょうが、働く気はあるので難解です。


このご夫婦は息子さえいなければ幸せな老後を
静かに過ごせたのに息子の為に苦労しています。
息子は親の苦労を労わる気持ちを持っていません。

普通の庶民の親だったら自分たちの老後を
どう築くのでしょうか、身につまされます。
老後資産無くて迎えた方はとても不安な毎日だと思う、
このご夫婦はゆとりのない老後を過ごすことになりそうです。
私は本当に恵まれていると強く思いました。

夕方娘が又買い物してきてくれました。
話相手もしてくれます。
私の現在は娘が居なかったら話相手がいないので孤独な事です。
明日から4日間ロスに行きますのでちょっと不便です。

そう言えば介護保険適用の手続きをしたのに
その後何の音沙汰もありません。
訪問医をお願いしたんですけどね。
話相手としてヘルパー派遣もお願いしようかしら。
掃除はシルバーセンターの方にお願いしているし、
買い物は娘や同フロアーの方がしてくれますしね。
008
排便が困難なので「フジッコの善玉菌のチカラ」を
又購入しました。
以前このサプリを飲んでいた時は順調に出ましたので
やめていたんですが、
最近きばる力が無くなったようで困難でした。
これから毎日飲みます。
3袋4650円





 

台風一過


令和6年8月17日(土)酷暑

001
003

数日前から大型台風が襲来すると盛んに囃し立てていましたが、
起きてみたら青空でした。
 娘夫婦が帰国するので心配しましたが
無事に帰国して家に来てくれました。

バリは涼しかったそうです、
山の方と海の方の二か所のホテルに滞在したそうですが、
山の方は涼しくて夜は寒いほどだったらしい。

世界中でこんなに猛暑と猛雨の地域は他にあるのでしょうか、
娘が仕事で行く都市でこんな暑い土地はないそうです。
なぜに日本だけが責められているのでしょうか。
まるで罰を受けているように感じます。
私も罰を受けているような塩梅です。

腰痛は多分死ぬまで抱える業だと思うので
耐えるしかないでしょうね。
せめて涼しくなってくれれば腰痛を抱えてでも
外を歩きたいと思います。
004
朝これしか食べられないのに胃が重くお昼が食べられません
最近は昼抜きです。
005
今年も婿さんが川崎の梨を送ってくれました。
ありがとうございます。
お隣さんといつもお世話下さる同フロア―の方にも
お裾分けしました。

今夜と明夜は新宿中央公園で恒例の盆踊りがありますが、
残念、私はいけません。
お隣さんが町会の副会長をなさっているので
主催者側で頑張って居らっしゃいます。

質問魔


令和6年8月16日(金)酷暑


001
これでも直ぐにお腹一杯になる
002
夕食

今日も一日無為に過ごす。
私の様に話好きが誰とも会話しないで
一日過ごすなんて難業苦行です。
おかしくなります、ボケ始めています。
弁当を配達してくれる方に「ご苦労様」と
たったこれだけが一日の会話です。
たまにお隣さんや同フロアの方が何か手作りの物を
持って見えた時位かな。

私は子供の頃から質問魔で周りの大人達が迷惑がっていました。
知りたくて知りたくてたまらない子供でした。
それからどうした、それからどうしたと誰彼構わず聞きたがりましたので母など終いに「ああ~やぐらしか~、種まいて芽が出て樹になって花が咲いて実がなって落ちてもまだ聞く~」と
発狂しました。

近所のおばあさんが「そんなに怒るもんじゃないよ、こんな子は今に偉くなるからちゃんと答えんばならんよ」とたしなめましたね。偉くはならなかったけどやっぱり聞きたがり屋で敬遠されていたような気がします。

だから私は自分より知識の或る頭の良い人が好きでした。
字が読めるようになってからは本から知識を得られるように
なりましたので多少は質問しなくなったかな。

母の末弟(実は私の兄だった)などに宇宙のことが知りたくて
ソレからどうした、それから、、、と質問して
投げ出すわけにもいかず途方に暮れていましたね。

今でも私より頭の良い人に、
ついすぐに聞きますので敬遠されていますよ。
003
運動不足解消の為にこれ買おうかと思うけど、どうだろうか!


8月15日と言えば思い出す


8月15日と言えば思い出すことはあの事だけ。

大町から農村部に4里の距離にあった母のおばさんの家、
おばさんの家は豪農(?)だった、
気前のいいおばさん夫婦が来た人誰にでも
ご飯を食べさせてくれていました、
皆腹を空かせていたのです。
行商の人にも食事を出していたそうだ。

母の兄弟は下に5人の弟がいたが、4人は満鉄、兵役で居なかった。
一番下の弟(実は母が結婚する前に産んだ息子)は
確か予科練に入隊出来る年令に達していた。
入隊して間もなく終戦になったので
そのおじさんは「俺、予科練崩れだ」と自嘲していました。

佐世保の実家は長男の嫁さんが留守を守っていたが
空襲で焼失していたのでその農家のおばさんの家に寄宿していた、
戦後母の弟たちは無事に帰還しても帰る家が無かったので
其のおばさんの家に暫く落ちつき
それぞれの落ち着き先に向かった。

だからそのおばさん宅が母たち兄弟の実家の様なものだった。
おばさん宅で祖父祖母の葬式、法事を全てやってくれていたのだ。食糧難の時代いくら農家と言えども
こんなに寄食、寄宿してくれる家は当時他にはなかったと思う、
葬式法事があるとご馳走が一人づつご膳に並べられた、
だから愛想の良くない父も仕事を休んででも
必ず出席していました。
なぜなら腹一杯御馳走になり、
帰りはそれぞれに食料を持たせてくれて小学2年生だった、
私の背中にも食料を沢山背負わせてくれた。

ある時父が母に腹を立てて追い出したことがある、
母はその叔母さんの家に行きました。
手のかかる幼児二人を残されて父は仕事にもいけない、
近所のおばさん二人が私にその行き道を聞いて
迎えに行ってくれました。

近所のおばさんはお礼に沢山の食料を貰って帰り、
大変喜んでいてそのことが一番印象に残っています。
それほど奇特な親戚でした。

当時は農家と言えども滅多に食料を分けて呉れる事は
あり得ませんでした。
帰って来た母は何気にいつもの家事をしていました。
父も何も言いませんでしたね。

8月15日もその家に両親と向かいました。
確か法事があったのです。
家に着いたら、そこにいた人たちが沈痛な面持ちで
天皇陛下が戦争に負けたと仰ったと言っていました。
皆口々にこれじゃ戦死したもんが浮かばれんと言い合って
いました。
私の覚えている終戦の日の出来事です。


食欲減退


令和6年8月14日(水)晴れ

今日は幾らか過ごしやすかった。
久しぶりに廊下で散歩した。
3度の食事以外喉を通らないんだけど、
今日は少し間食した。
頂いたチーズケーキが美味しかった。
尤も昼食は抜いている。
涼しくなればなんとか外を歩くようになれば
もう少し食べられるようになると思う。
あんなに食べるの大好き人間が
こんなに食べたくなくなるなんて開闢以来だわ。
開闢って難しい言葉を使ってみたけど、
いつ頃まで食べ続けていたんだろうか。
食欲が無いのは運動しない事と薬の量が多すぎて
胃が受け付けないんだと思う。
でも胃の調子が悪いと言うわけでもない。
やっぱり運動不足だろうな。
002
朝食が美味しくない、しぶしぶ食べているけど胃の具合が
悪くなる、お昼を抜いてやっと気分が良くなる。


001
 


訪問医をお願いした


令和6年8月13日(火)酷暑

午後から○○高齢者総合相談センターから
介護保険の件で訪問があった。
渋谷区では○○包括支援センターと言う。
つまり介護度が要支援と決定した利用者の相談に乗る機関だ。
私は介護度が低いのでケアマネはつかず
相談センターの職員が対応する。

私が利用したいのは訪問医と薬を管理してくれる訪問看護だったが、薬は医療と連携している薬局が担当するらしい。
いろいろ相談に乗ってくれた。
薬が多いので間違いなく仕分けるのが私には難儀だ。
今私が必ず必要なのは循環器の医者だ、
その方面の医者を紹介してくれることになった。

車椅子は要支援は該当しないけど自費で賄うことになる、
大した金額ではない。
今私は閉じこもりの環境でボケが始まっている。
話相手がいないのが一番辛いことだ。
毎日探し物をしている、その他排便に苦労している。
訪問医が来たらその解決策をお願いしようと思う。

同じ階の女性が用があったら何でも言って下さいと
申し出て下さるのでついででいいから
これこれを買って貰いたいと言ったら、
早速暑い中買って来てくれた。
申し訳ない。

現在の私の困難な境遇は他の独居老人特有な事だと思う。
これでは嫌でもボケが進むと思う。
私は話好きだ、それが今部屋に閉じこもっている。
これでは嫌でもボケると思う。
早く涼しくなって外に出ていろんな人と話たいと思う。
腰痛がこれ以上重篤にならないように願う。


 

私はまだいい方なんだわ


令和6年8月12日(月)山の日 酷暑

今日は夕方になって昨日から懸案だったことが解決して
まだまだやれるなと安堵した。
一つは昨日から探し物をしていて見つからないので
ボケぶりに暗澹としていた。
今日やっと見つかりホットしました。

二つ目は便秘が解消してすっきり。
最近きばる力が無くなったようで自力で出すのが困難です。

最近しょっちゅう探し物をしている。
私最近老人性健忘症が始まったようです。
自分の年さえ直ぐには言えません。
さすがに87歳は仕方ない症状なんですね。
86歳の昨年が正常の終りだったんです。

今日は息子が台湾から無事に帰国したと土産を持って来ました。
娘も昨夜バリに出発しました。
山の中でのんびりするそうです。
婿さんは年中忙しく働いているので混む盆正月だけしか
休めないのです。

私は大抵午前中はどん底で沈んでいますが、
それでも私の悩みはこの腰痛だけなんだわと気が付くと
安堵します。

腰痛の方は周りに沢山いましたが
どんなに訴えられても実感がありませんでしたが、
今やっとその悩みが判りました。
腰痛って一過性ではないようですね、
生涯付き合う症状の様な気がします。

私の次弟がいつも訴えていましたが聞き流していました。
今や判ります。
申し訳なかった。

001
朝食、やっと食べます、お昼は抜きます
002
夕食 同フロアの方が自家製の魚の大根漬けをくださいました。
ご馳走様



 

暗い




令和6年8月11日(日)酷暑

002

004

世の中も暗いが私も暗い。
どうしても沈んでしまう。
こんな状態で地震等来たら溜らんな、
何を備蓄すればいいかわからないので浴槽に水を貯めたわ。
どうしてテレビは日本の暗い面ばかり報じるのだろうか。
日本以外は何の問題も無いのだろうか。
戦争のことではなくて地球の事です。

閉鎖状態の心理(追画像あり)


令和6年8月10日(土)酷暑

001
002
 
食欲が無くて胃の具合も良くない、
それでも必死で食べていたが、今日はお昼を抜いた。
それでも夕食は進まない。

私の心身も不具合だが、日本列島も危うい、
テレビの見過ぎだろうか、
末期的症状が絶えず報じられている。

所で日本列島は酷暑や地震や洪水で大変な思いをしているが
諸外国はどうなんだろうか、
普通だったら支那朝鮮、欧米はどうだこうだと
報じられるのに最近は諸外国の事は一切報じられない。
日本だけが袋小路に追い詰められているのだろうか、
私が閉鎖状態にあることは判るが日本国民迄
皆閉じ込められているのだろうか。
今の状態は地球的規模の異変ではないのだろうか。
予告されている地震は歴史的大規模なんだろうか、
日本だけが翻弄されているような気がしますね。
外国の事はオリンピック一色ですからね、
不安に思うことはないのだろうか。

2,3日前からテーブル周りをぐるぐる歩いている、
マンションの廊下も暑くて体調崩しそうなので
せめて少しでも歩くことにした。

006

日本列島変革期か


令和6年8月9日(金)酷暑

001
003
010
 
一日やることが無いのでテレビばかり見ているが、
列島は今変革期を迎えているのだろうかと不安になる。
不安な事ばかりだ。
不安ついでに食料の在庫が心配になったので
お隣のセブンに買い物に行った。
ご飯を買う。
考えがまとまらないので今夜はこれで失礼します。

006
痩せたね、
009004
同志から贈りもの



南海トラフ「巨大地震」


令和7年8月8日(木)酷暑

 相変わらず、テレビはオリンピック一色だったのに
突然南海巨大地震に切り替わった。
今までなかった切り口、今までの地震とどう違うのだろうか、
不安を搔き立てているけど
この心身が弱っている現状では受け入れがたい。

もし巨大地震が発生したら当然電気も止まるだろうけど、
この酷暑で電気が切れたら日本人は絶滅だね。
考えたくない。
001
昼食
002
夕食、朝食を撮り忘れている


要支援2


令和6年8月7日(水)酷暑

 001
今日のお昼、このパンしょっぱくて残した
003
今夜の夕食

待ちに待った介護度の決定通知が来ました。
要支援2です。
今や要支援と言うのは業者もケアマネもヘルパーさんも
やりたがりません。
私が現役の頃は1件もやって居ませんでした、

当時はたしか企業に入るのは4000円だったような気がします。
いや、担当のケアマネに入るのが我が社の場合4000円だったかな、
要介護の場合介護度によって違いますが平均1万円は入りました(我が社の場合)
だから要介護の場合は月に1度以上訪問しなければならなかった
けど、要支援は3か月に1回で良かったと思う。
ため口もやりたくないような口ぶりだったな。
それにヘルパーさんも敬遠しているそうだ。
それだけではなくて全般的にヘルパー希望者が
払底している。
当分車椅子だけ借りて置こう。


親孝行な娘


令和6年8月6日(火)酷暑


002
004
yuusyoku
 食欲なし

退院以来、娘が献身的に尽くしてくれる。
明日以降仕事(2日)その後バカンスでバリに行くので
11日から17日まで日本にいないので、
その間困らないように精力的に買い物、用を足してくれる。
この暑い日盛りの中自転車であちこち回ってくれる。
今日も病院、薬局、買い物とあちこち回ってくれた。

もし娘がいなかったら私の生活は成り立たなかっただろう。
厭な顔一つせずに尽くしてくれる。
娘は子供がいないので老後お返しは期待できない。
早めに老後設計をしなさいよと忠告している。
感謝してもしきれないな!
ありがとうございます。



車椅子


令和6年8月5日(月)酷暑

もう一か月になろうと言う介護認定結果、
区に電話しましたら今日発送したから
数日後に届くでしょうと言う、
介護度を聞いたが電話では知らせないと言う。
渋谷区は家族には知らせてくれるけどね。

それでため口と相談して車椅子を借りることにした、
きょう病院のリハビリ要員に車椅子を借りて通院するはずが
外れて途方に暮れて、
ため口に相談したらすぐに手配してくれた。
車椅子
自走式にしたが、運転はなかなか難しいもんだ。
早速夕方娘に押して貰って整形外科に行った。
整形外科っていつでも大繁盛してますね。
2時間ほどかかりました、レントゲン撮りましたが
そんなに顕著な障りはないようです。
001
お昼、食欲ないけどけじめで食べる
004
夕食、

娘は明日も来てくれますが、
明後日から仕事があり、
その後一週間バリに行きますのでしばらく不自由します。
今日は息子も仕事の途中に様子を見に来てくれました。

有難いことです。
娘夫婦は今夜「えびす」に行くそうだ、私はもう無理ですね。

 

戦後半世紀で品種改良されたのかな


令和6年8月4日(日)猛暑

001
 002
yuusyoku


オリンピック真っ盛りだからどのチャンネルに回しても
オリンピック、

私はある変化に気づきました。
度々選手達のクローズアップが映し出されますが、
日本人の若者のスタイル、顔貌がすっかり変っています。
昔のスポーツ選手は大体美男美女はめったにいませんでしたが、
最近の日本人選手は皆さんいい男、
いい女ばかりになっているので、
背もスタイルも顔も歯並びも信じられないほど整っています。

選手ばかりではなくて多分街を歩いている若い男女は
一昔前の日本人とは様変わりしていると思う。
歯並びも昔は乱ぐい歯をむき出して
平気でテレビで曝している芸人がいましたが、
もうそんな芸人も滅多にいなくなりました。
いいことですね。

何度も書きましたが
私の父は昭和20年代に娘の歯並びを気にして
歯列矯正をさせました。
当時歯列矯正なんて誰も知らない頃でした、
それどころか八重歯を可愛いと珍重していましたからね。
そんなわけで私は歯並びがとても気になる人間になりました。
だから娘も息子も歯列矯正してあげました。

現代は皆さん殆ど歯列矯正しているんでしょうね。
世は変わったもんです。
最近の若者の見目が良くなったのは
自然の摂理で品種改良されたんだと私は思います。

昔はブ男でもブス女でも世話してくれる仲人さんが
くっつけてくれましたので結婚出来ましたが、
現在は自分自身で売り込まなくてはなりません。
男は見目好くて稼ぐ男が美女を娶ります。
自然の淘汰です。
厳しい時代になりましたね。
私は現代に生まれていれば結婚出来たでしょうか、、、
前世紀生まれでよかった~!!


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

最新コメント
記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリー
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ