金銭教育編

支那時代家族4人
支那時代の一家 昭和17年頃、母はその後次男を妊娠して
帰国して18年に出産しました。

二番目に厳しく躾けられたことは借金するなでした。
小学校の頃学校で10円収めなければならないことがあって、
たった10円(当時でもたっただった)なので
友達に借りて収めました。
そして父に褒められると思って報告しましたら
忘れもしない大変叱られました。
「子供のくせに借金するとは何事だ、先生に明日収めますと
なぜ言わなかったのだ」と

その教えはいまだに効いています。
私は借金は大嫌いです。
今までに借金したのは上京して衣服の整理に必要な
整理ダンス4500円を10回払いで買いました。
その借金を払い終わる前に
私がもし死ぬようなことになったらと不安でした。

その後の人生は買いたい物は貯めてから買いました。
その後車と家を買う時はさすがにローンを組みましたが
それ以外はありません。

それなのに結婚した相手が借金王でした。
そればかりではなく借りた金を絶対に返しませんでした。
独身の時は義母が払い、
結婚してからは私が払いました。
旦那の金銭問題を論じたらきりがないのでここでは割愛します。

いや!一つだけ論じます。
結婚する時、式について旦那は積極的に論じませんでしたので
私が主導して取り決めました。
そして喫茶店で思い切って聞きました。
「○○さん貯金は幾らあるんですか」
『兄貴から幾らだろ、おばさん①から幾らだろ、
おばさん②から幾らだろ』と御祝儀を当にしているのです。
「そんなものは貰ってみなければわからないじゃないのよ」
つまり1銭も貯金が無いのです。

そして結婚してからわかったんですが
旦那はいい給料もらっていたのに家(義母)に
1銭も入れて無かったのです。
殆どを遊興費に使い果していました。
ダンスが得意でクラブやキャバレーで使い果たしていました。
後にカラオケも得意で、フランク永井や裕次郎張りの
いい声でした。

私なんか二人の子供が就職したらその月から
娘は5万、息子は3万入れさせましたよ。
二人名義で貯金しましたけど結婚する時あげました。

結局兄貴は1万円でした、そして義母は義兄は1万円もくれたの、
ずいぶん張り切ったねと言いました。

そしてなんと義母は1銭もくれませんでした。
なぜかわかりませんが、私が気に入らなかったんでしょうね。
兄貴の時は寿司屋でやったそうですが、全部払い。
北海道に新婚旅行に行く費用も出したそうです。
私は新宿にあった厚生年金会館で最低の費用であげました。
義母たちはそれが気に入らなかったようです。

おばさん②は夫婦と娘と3人出席しましたが5000円でした。
叔母さん①は私はもう少し上げようと思っていたんだけど
②が5000円出すと言ったので合わせたんだよと言いました。

私の例の弟は5万円、長男は3万円くれました。
それでも鈍い私は旦那の本質を見抜けませんでした。
結局式費用は私が全部負担しました。
そして住まいは義母が借りている借家で同居生活でした。
これが聞くも涙、語るも涙の物語で最悪でした。

その時見抜いて結婚を止めていたら、
親孝行な子供にも巡り合わなかったわけだから
良しとしましょうか。

これは血筋と言うより義母の躾の問題だと思いました。
義母は子供二人が幼児の時に子供を置いて離婚しました。

兄弟は継母に育てられました、
実父は戦死し東京の家が戦災に遭ったので
義父の実家福島に疎開しましたが
いつもひもじい思いをさせられたと継母を恨んでいました。
当時実の母子でも飢えていましたけどね。

でも福島の実家は農家なのにどうして孫を飢えさせるのだと
私なんか疑問に思っていました。

そして小学校5年の時に実母に引き取られましたので、
義母は贖罪意識で強く躾けられなかったんだと思います。
義父は南洋で軍艦諸共戦死しました。
義父靖国
義父軍歴
部隊は戦後21年に無事に復員しています、
これはどういうことでしょうか、
部隊諸共船が撃沈したのかと思っていました。

義父の供養は誰もしていないし、墓もありません。
家庭を崩壊させると末はこうなりますね。