日経
日本経済新聞夕刊一面記事

8月15日と言えば愛国者とあいまみえるようになった頃から
いつも靖国神社に馳せ参じていた。
チラシ配ったり、署名活動したり、反天連の行進を迎え撃ったりして微力ながら保守活動に邁進していました。

大分前からもうお前の出番じゃないよと己の内なる声に従って
家籠りするようになりました。
自分の面倒を見るのが精一杯ですからね。

ところで昭和20年8月15日の事は鮮明に覚えています。
母のおばさんの家は農家で、おばさん夫婦は家に来た町の親戚には腹一杯食べさせて帰りには子供の背中にまで食料を背負わせてくれました、行商の人にまで食べさせていたそうです。

母の弟達は5人いましたが4人は出征して戦地におり、
一番下の弟は予科練に入っていました、
終戦前に母の両親は相次いで亡くなりましたが、葬式、法事は
みなそのおばさんの家で執り行って下さっていました。

そして母の実家は佐世保にありましたが、空襲で焼け落ち叔父さん達は無事に戦地から帰還しても帰る実家がありませんでした。
みなそのおばさんの家に一時寄寓して身の振り方を探していました。

15日は丁度お盆の法事に家族で参加していました。
たぶん母の両親のどちらかの法事だったと思います。
当時父はサラリーマンでしたが、おばさん宅の法事には何をおいても一家で参加していました。腹一杯食べられて帰りには食料を持たせてくれるんですから、当時としては何をおいても馳せ参じます。
家から4里の道を歩いて行きました。

多分お昼頃に到着しましたら、皆沈痛な面持ちでした。
ラジオで天皇陛下が戦争に負けたと仰ったと口々に言っておりました。ラジオ放送での天皇のお言葉の意味がわからなかったと言う話を聞きますが、そんな田舎の人達は日本は負けたと理解したのです。
そして口々に「これじゃ戦死したもんは浮かばれん」と
言っていました。
私の記憶はそこまでです。