令和4年4月16日(土)雨
外を見ると極々小雨、これならやるなと出かけました。
さすがに参加者は30人居たかな、少ない、
途中で雨脚が強くなったけど構わず続けました。
途中で雨脚が強くなったけど構わず続けました。
起床時に携帯を見たら義姉から昨夜遅くの着信があった。
この義姉とは義絶していましたので、何事かと気色ばみました。
いくら義絶しているとは言え村二部には参集するでしょう。
間違って押したらしいけど本人は覚えていなかった。
本人曰く最近物忘れがひどいと言っていましたが、
どうも認知初期のような症状と見受けました。
どうも認知初期のような症状と見受けました。
80歳だそうですが、何度も何度も同じ話を繰り返します。
切りがないのでこれから出かけるのでこれでと切りました。
義絶のなり行きは義母の面倒、看病、介護、葬式に関して堪忍袋の緒が切れたことでした。
義母は明治女ですから長男至上主義で将来は長男にお世話になるつもりで長男ばかり可愛がり、従ってその嫁も大事にしました。
旦那兄弟は金銭感覚がゼロでいつも兄弟して金の無心をして
義母は老後資金迄注ぎ込みました。
義母は老後資金迄注ぎ込みました。
旦那はお袋に差別されたといつも憤慨していましたが、
その嫁(私め)も差別しました。
結婚した時から粗末に扱われました。
その嫁(私め)も差別しました。
結婚した時から粗末に扱われました。
長男やその嫁には大変気を使いお金も注ぎ込みました。
さて義兄が51歳で心筋梗塞で即死しました。
さぁ大変矛先が私に向いてきました。
老後死ぬまで一切合切が私の双肩にかかって来ました。
私とても鬼ではないからそれは面倒みましたが、
心から愛おしくはみられません。
心から愛おしくはみられません。
実母に対するような愛おしさが持てませんでした。
それが私の心の痛みでした。
義姉は義兄が亡くなった途端義母の存在を消し去り
私には関係ないと思ったようで音信不通状態でした。
私には関係ないと思ったようで音信不通状態でした。
義母は何度も何度も入退院を繰り返しましたので
その都度しらせましたが他人事のようでした。
その都度しらせましたが他人事のようでした。
強く言うとしぶしぶ来ましたが、まるで他人の様でした。
旦那も自分の母なのに実に冷淡でしたので
一切合切私が みました。
一切合切私が みました。
葬式迄私が采配しました。
決定的なのはその遺骨をどこに収めるかという事でした。
義母のお骨を収める墓がありませんでした、当時都営墓地の募集の度に書類を取り寄せましたが、
都営なのにとても高価で1000万近くする箇所もありました、
当時我が家には二人の大学生が居て貧乏のどん底でした。
当時我が家には二人の大学生が居て貧乏のどん底でした。
だから義姉にお願いしました、義兄の墓に収めて貰えないかと、
けんもほろろに断られました。
けんもほろろに断られました。
きりっ!義絶しましたね。
今日はひょっとして何か不幸でもあったのかと
何気に電話した次第です。
今日は午後から川崎に飛びます。
そう言えば思い出したわ、
病院の看護助手しているときに警備員と親しくなり、
その男の助言で家を建て替えましたね。
その男建築会社のセールスもやっていたような、、
mamasango672
が
しました