令和3年12月29日(水)晴れ富士山見える

父国民服


支那時代の写真の父の服装を見て思い出しました。
父の着ている服は国民服と呼ばれて見覚えがあります。
甲乙号があり父のは乙号です。
当時支那は匪賊が跋扈して世情不安でしたので民間会社でも防衛隊を組織していました、父は最終軍歴が伍長でしたので防衛隊長を務めていた関係で乙服を着用していたと思われます。
 
ウイキより
国民服は、1940年(昭和15年)に定められ、太平洋戦争中に使用された、日本国民男子の標準服。
昭和15年(1940)、国民服令が制定され、男性の標準服は国防色といわれるカーキ色の布地でつくられた「国民服」が着られるようになりました。
国民服の上着には、一般民間人向けの甲号と青少年や官吏向けの乙号がありました。また、昭和17年(1942)に制定された女性の標準服には、洋服式・和服式・防空着の各種類がありました。このうち、「もんぺ」といわれる防空着は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると多くの女性が着るようになりました。

国民服甲乙
昭和15年に制定された国民服(左は甲号・右は乙号)/提供:共同通信
国民服婦人
昭和16年12月19日に発表された決戦下の婦人標準服/提供:共同通信社
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1年の記念写真はありません、
4月学期始めに撮るのか3月に撮るのか不明ですが、
4月だったらまだ戦時中です。
前から背の低い順に並びます、
私は常に大きい方から3番目でしたが5年頃からすごく背が伸びて
一番後ろに並ぶようになりました。嫌でしたね。

前列右端の子、可愛そうな子でしたね、二十歳(はたち)ガサ(瘡)と言われていた皮膚病が全身を覆い、二十歳まで治らないと言われていました、いつも搔いていてジュクジュクしていました、
おまけに悪臭を放っていました、うつると言われて誰も寄り付きませんでした、現在だったらなんと診断される皮膚病でしようか、
その後どんな人生を送ったのでしょうか、

1クラス50人前後、1学年10クラスありました、当時台湾朝鮮満州も入れて日本一の小学校と言われていました、先生も100人近く居たと思います。戦後ベビーブームの時は1学年14クラスにもなりました。
どうして分割しなかったかと言いますと町の面積が佐賀県一狭かったのです。

余談、当時シーズン中同じ服を着ていて、鼻たれが多かったので袖で鼻を拭きましたので袖口がテカテカでした、

履物は大体下駄でした、うちでは正月に新しい下駄を下ろして貰いました、靴を履き始めたのはいつ頃だろうか、靴を履いている子は
上の兄姉からのお下がりです、私は長女だったのでお下がりは無かった。
ついでに、運動会でははだしで走り、雨の日もはだしで歩きました。 しかし冬の雨の日はどうしたんでしょうか、さだかに覚えていませんが下駄を履いてとても辛かったと思います。

その後ゴム長が売り出されましたが、誰でも買って貰えるものではありませんでした、同級生に可愛い子がいましたが、飲食店に貰われて(養女)来た子でしたが、その子が「親戚のおばさんがうちの子になったら雨靴を買ってあげるよと言われてそれにつられてもらいッ子になった」と言っていました。

ついでに私は血の巡りが悪くて冬は足や手の指にしもやけが出来てとても辛い思いをしました、しもやけが崩れて足袋にくっ付いて
脱げず、母がお湯を掛けて潤びかせて(ほとびかせて)くれて脱ぎました。それだけが辛かった思い出です。


渋谷先生
この写真は終戦後か戦時中か不明ですが、ここに映っている先生の服装は多分国民服と思われますので学期始めでしょう、

この渋谷先生は忘れることが出来ません、1年に入学した時に上級生をぴしゃりと平手打ちされている姿を見て怖いと思いました、
それなのに2年に進級したら受け持ちの先生でした、怖いと恐怖に慄いたんですが、間もなく終戦になったらコロリと優しい先生になりその変化に又驚きました。
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支那事変戦勝を祈って日の丸を持つ100日目の私
昭和12年5月生まれの私の幼児の頃、
生まれてすぐに支那事変が始まり、父も出征しました。
折々に戦地にいる父に私の成長を報告していたのでしょう。
父の軍歴