令和3年9月20日(月)晴れ富士山見える
一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数
私の旦那はタフで働き者で仕事には妥協しませんでした。
それが私が旦那として選んだ性格でした。
この男と結婚したら生活には困らないだろうと打算でした。
しかし真逆でした。
この男と結婚したら生活には困らないだろうと打算でした。
しかし真逆でした。
生粋の江戸っ子でもないのに「宵越しの金は使わない」男でした。
よく働きますがおよそ貯金と言うものをする気は皆無でした。
だから買い物はすべて月賦でした。
当時昭和40年代丸井、緑屋、丸興etc、
新宿だけでも沢山ありましたね、月賦屋。
当時昭和40年代丸井、緑屋、丸興etc、
新宿だけでも沢山ありましたね、月賦屋。
反対に私は買い物は溜めてから買う主義で常に老後が心配で貯金に励みたかった。唯一車と家はローンを組みましたけどね。
常に先を見ながら人生を歩みました。
今日より明日と!
今日より明日と!
しかし当時女は男の後から黙って従うのが妻の務めと押し付けられていましたから、葛藤していました。
家庭内離婚状態になったのは我が家が破産してから
強硬に私の理論で人生を歩むことにしたからでした。
常に旦那は面白くなかったんです。
いつもお前は俺の上を行くと言って怒っていましたが、
旦那の理論で人生を歩むと老後は橋の下だと肝に銘じました。
旦那の理論で人生を歩むと老後は橋の下だと肝に銘じました。
どの年代だったでしょうか、多分40代初めの頃に義兄が言い出して義父の故郷福島の郡山に行こうと誘われました。
義兄一家5人、我が家4人で行きました。
郡山の本家は農家で兄弟が大勢いました。
義父(離婚後戦死)は戦前歯科技工所を経営して裕福だったので
実家や自分の兄弟姉妹に援助していたらしいですが、旦那が赤ちゃんの時に離婚して当時義母側でしたので行き来はありませんでした。
実家や自分の兄弟姉妹に援助していたらしいですが、旦那が赤ちゃんの時に離婚して当時義母側でしたので行き来はありませんでした。
(後記:義父の弟達、甥達が歯科技工所を経営したり講師をしていましたが、それらはすべて義父の元で修行したおかげでした)
郡山では本家の墓をお参りしましたが、大きな墓地には義父の名前は刻まれていませんでした。
後添えがちゃんと供養しているのだろうかと気になりました。
その時結婚して子供が出来たら離婚してはならないと思い知りました。老後不幸になると思いました。
義父の一番下の妹が歓迎してくれました。
製パン業、菓子業、不動産賃貸業を営み裕な暮らしでした。
叔母の旦那さんはもともと和菓子屋さんでしたが、
戦後すぐに学校給食用のパンを製造して先駆者として一手に販路を広げ財を成したそうです、知恵を働かせよく働いたと言っていました。
叔母の旦那さんはもともと和菓子屋さんでしたが、
戦後すぐに学校給食用のパンを製造して先駆者として一手に販路を広げ財を成したそうです、知恵を働かせよく働いたと言っていました。
叔母は私を呼んで金持ちになる方法を伝授すると言って
秘伝を伝授されました。
義姉も一緒だったのに私だけにこっそり伝授してくれました。
甥(旦那)の性格を見抜いてその嫁(私)が苦労しているだろうと 慮ったんだと思います。
これは他の誰にも漏らしてはいけない黙って実行する事と
言われました。
言われました。
私は素直に従いました。
出社してまず机から入金伝票を出して以下の数字を書きました。
終いには暗記して書けるようになりました。
入金伝票は何十冊になったでしょうかね、
多分商売閉業するまで続けたと思います。
多分商売閉業するまで続けたと思います。
あの伝票の束も捨てたはずはないので
どこかに仕舞っていると思います。
どこかに仕舞っていると思います。
誰にも漏らしてはいけないと言われていましたし、
忘れていましたが、昨日不意に思い出しました。
忘れていましたが、昨日不意に思い出しました。
もう漏らしても影響はないだろう、経済的に困っている方がいれば 伝授してもいいだろうと思いました。
信じる者は救われる!
一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数
一(いち) 十(じゅう)百(ひゃく)千(せん)万(まん)億(おく) 兆(ちょう) 京(けい、きょう) 垓(がい) 杼(じょ)穣(じょう) 溝(こう) 澗(かん)正(せい) 載(さい)極(ごく) 恒河沙(ごうがしゃ)阿僧祇(あそうぎ)那由他(なゆた)不可思議(ふかしぎ) 無量大数(むりょうたいすう)
