おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

親、兄弟

父の躾と教育②



父とは会話はありませんでしたが、
子供が幸せになる方式を常に考えていたと思います。
只会話が無いのに押し付ける姿勢は子供の反発を呼びましたね、
特に私や次男は反発しました。

私の反発は見えない反発でしたが父は見抜いていて
私と次男は親の言う事を聞かないと思っていたようです。

私の場合は近場で良縁を得て結婚させることだったかも
しれませんが、私は家を飛び出しました。

21,2歳の頃結核になり、半年療養所で療養し
半年家で過ごしましたが、
勿論保険もありませんので療養費は弟の勉学費で
精一杯の親には頼めず、、、

父は終戦の頃ダイナマイトの事故で右手指を怪我しました、
それで脱サラして衣類の卸の商売を始めました。
始めの頃は繁盛していましたが戦後落ち着いてくると
殿様商売も落ち目になって私が高校に行く頃には
大学進学は絶望的になっていたのです。
長男一人を大学出すのが精一杯でした。

私は地元選出の面識もない市会議員さんにお願いして
医療費補助の申請をしていただきました。
その代り小遣い(生活費)は0査定されましたので
親に月1000円だけ送金してくれとお願いしました。
その額は生活保護者より少ない額でした。
女性にはどうしても必要な出費があるのです。
その決定が出るまで寝てもおれない心境でした。

なぜなら父は弟を退学させてでも療養費は出すと
言いましたので、そんなことをさせるわけにはいきません。
私の一番困窮した時代です。

佐世保市には恩があるのです、私が死んで残っていたら
僅少でも寄付したいと思っています。

父は当時は仕方のないことでしたが、
私を黴菌扱いして家は針の筵でした。

まだ健康に自信はありませんでしたが、弟(長男)が
東京の大学に行っていたので東京の就職先を
新聞広告で見つけて上京しました。

上京前夜に父はしおらしくつらく当たったことを
詫びるような口調でしたが、
その後は絶えず都会に憧れて飛び出したと非難していました。
だから私と次男は父から見ると親不孝者だったのです。

さて次男は始め鉄工所に就職しましたが、
馴染めなかったようで直ぐにやめて
千葉の運送会社に転職しました。

社長はやくざっぽい人らしかったが
弟を可愛がり弟も馴染んでいました。
運送会社では長距離運送に従事していました。
長距離の運転手は人と交わるのが苦手な
弟にはピッタリだったかもしれません。

父は戦後すぐに事故に遭い炭鉱を退職しましたので、
老後手厚い福祉が受けられないことを残念に思っていたようです。
叔父さんは定年まで働き退職金も年金も十分貰い
悠々の老後でしたので、働くのは福利厚生のしっかりした
会社でないと駄目だと思っていました。

だから次男がやくざっぽい運送会社で働くことを憂いていました。
三井関係で働いている知人に息子の就職を頼みました。
次男は言う事を聞きません。
だから私に説得しろと命じられました。
次男を呼んで説得しましたが当然首を縦に振りません。

その後大分たってから佐世保の叔父さん(母の弟)に
靴屋の跡取りとして呼ばれました。
私は叔父さんの性格をよく知っていましたので反対しました。
父も反対していました。
しかし反対を押し切って行きました。
当然直ぐに飛び出しました。

それから運送会社に勤め、
そのうちにダンプカーを買って独立しました。
誰にも気を遣わずそりゃよかったでしょうね。

雲仙岳が噴火した時は地元の業者は山が噴火するたびに
又何年分の仕事が増えたと喜んで遥拝していたそうです。
近隣の業者も大分うけに入ったようです。

でもいつも順調に仕事が入るわけではありませんので
ならすと残すところまではいきません。
最後の頃はいつも仕事がない、金が無いと言っていました。
そしてとうとう80近くになり仕事も入らず体もがたがたで
辞めざるを得なくなりました。

そんなわけで貯金もわずかで、
年金もわずかで、
私にも借金返せず、
そのうちに生保のお世話になる運命です。

私の兄弟で老後設計が成り立たないのは次男だけです。
父はこうなることを見通していたんです。
弟の人嫌いで頑固なところは育ちのせいでしょうか?
持って生まれた性格のせいでしょうか?


好きにしたら!!と(4)


2月17日(金)に県営住宅の所員から電話があり、
審査が通り契約手続きをしたいので弟さんに3回電話しましたが
通じません、月曜日に電話くださるようにお姉さんから連絡して
下さいと言われました。

それから私も何回も電話して留守電に入れていますが
応答がありませんでした。
だから包括のIさんに電話しましたが外出中でしたので電話に出た
方に、ひょっとして倒れているのかもしれないので様子をうかがって貰えませんかとお願いしました。

夕方遅くIさんから電話があり、本人と話が出来たそうです。
『弟さん転居を迷っていますのでお姉さんからも強く推してください』と言われましたので
「もういいです、好きにさせます」
『そうおっしゃらずに、いまの住まいでは危険なので説得して下さい』
弟は私と電話すると説得されるのが嫌で電話に出なかったようです。

腹は決まりました。
好きにしろっ!

24日に始めて本人から電話あり、
県住宅移転を迷っているとつべこべ言い訳しました。
包括のIさんからほぼ聞いていたので何を言っても好きにしたらと
言いました。。
弟は説得される言葉に反論する言葉しか用意してなくて、
『うっ』と詰まります。
『皆は引っ越しを進めるけど、住むのは俺だからな』と言います。
「だから好きにしなさい」
『そんな風に言われると迷うんだよ』
「だから好きにしなさい」

結局3月1日に県住宅に行くと約束はしてあると言いました。
「好きにしてください、私は何も言わない、それから言っとくけど、いつも電話に出ないけどそんな身体で独居なので皆が心配するから電話には必ず出なさい」と厳命しました。
『携帯買い替えたら良く判らないから出ないんだよ』
「わからないなら、買った所に行って習ってきなさい」
以前はいつも電話を持ち歩いているわけではないと
ほざいていました。

明日3月1日、どう展開するでしょうか。
私の連帯保証人放免はなるでしょうか。

続く






親父と弟と私(3)


帰京して以来私はうつうつとした状態でした。
住宅賃貸の保証人に親子でなったという事は
高齢で身体障害で貧乏な弟の悲惨な運命を
丸抱えしたことになります。
何か事が起きれば究極は金です。
とてつもない重荷を背負ったような気がしました。
85歳の私に対処できるでしょうか、
まして娘にまで迷惑はかけられません。

それなのに弟は文句ばかり言って感謝の言葉が無いのです。
私は感謝されないとやる気が起きません。

初日の夜に居酒屋で私に借りた150万円のことが気になって
しょうが無いと言いました。
私はしたたかに酔っていましたのでつい「その金返さなくていいよ」と言いました。
しかし弟はお礼も言いませんでした。
あれやこれや考えると眠れません。

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20年前 弟に振り込んだ150万

弟はおやじの事を話題にすると必ず言う事があります。
「親父にはいつも殴る蹴るされた、えすかった(怖かった)」と
おやじには言葉の暴力はやられっぱなしでしたが体罰は受けたことがありませんでした。
他の長弟、末弟からも聞いたことはありません。

つまりオヤジに暴力を振るわれていたのは次弟だけだったのです。
弟に暴力をふるいたくなる気持ちが、私今ならわかります。
良かれと思う親心を拒否するんですね、
カチンとくる態度を示すんですね。
つまり私は父の気質を引いているってことです。

包括の職員も県住宅職員も私も弟に良かれと必死で対応してくれているのに感謝の気持ちはなくて文句ばかり言う弟、
もう知らんと言う気持ちになりました。

漏れ聞くと「今のアパートに住んで40年、慣れ親しんでいるし、
ここから眺める景色が好きなんだ」と、馬鹿か!!
しかし弟の足腰は限界を超えているし悪くなることはあっても
良くなることはありません。

県営住宅に入居しなければ私の保証人不安も無くなりますから、
やめればと言う気持ちになりました。

続く





佐世保12,13,14日(2)


地域包括支援センターのIさんを訪ねて行ったら、
なんと公営住宅(市営・県営)の募集要項が揃えてあり、
市営住宅の空きは無いが、弟の住んでいる同じ地区で
包括の担当地域でもある県営住宅の1階が丁度募集中だと言う。
これは単身者用でいくら田舎とは言えこんな僥倖はめったに
ありませんと言う。Iさんも私も大変喜びました。
弟も喜んでいたと思っていました。
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県営住宅
クリックすると大きくなる、
家賃は当然非課税者だから最低の20300円です。
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これが単身者用の狭い間取り、東京だったら4人家族用ですね
窓から見える景色、緑豊かじゃないですか、

I さんはこれは早い者勝ちだから今からすぐに行って申込みした方が良いですよと仰ったのですぐに県住宅の出先機関に行きました。

県の担当者もとても感じが良くてそこにいるみんなが
祝福しました。
私も弟も高齢で短期記憶が短いのに根気よく付き合って
下さいました。
当然ですが保証人を二人立てなくてはなりませんでしたが
弟は人づきあいが悪くて一人も居ません。
私と娘(電話して了解を得た)を立てました。
そして県や市の証明書が4通必要だと言うので
多分弟だけでは億劫がって放棄すると思ったので
すぐに3か所(1か所は戸籍謄本だから本人が後日取りに行く)
回って取りました。
これで身辺審査(やくざではないかと)が終れば
正式に契約になります。
全て終わりホットしてカフェで休憩しましたが
何となく弟の態度が気になりました。

前夜は居酒屋(まずい店)で久しぶりに5杯も飲んで酔っぱらい
ホテルのロビーで満座の中で転倒する騒ぎでしたので
その夜はホテルで自粛することにしました。

うつうつと考えました。
私は持ち前の強引さで事を決めましたが、
これは誰が考えても良いことだし、
本人も喜んでくれるべきだと思いましたが、
本人の態度が気になりました。
だから上京する前に電話しました。
「あの住宅で良かったよね」と
『う~~~~~ん、よくよく考えたら広過ぎる』と言います。
「あれが最低の広さで単身者用だからこれより狭いのは無いし、
狭いよりいいじゃないの」と反論しましたが、
ますます気が重くなりました。

続く


佐世保12,13,14日(1)


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佐世保湾に面してどこからでも見える、愛宕山(愛宕富士とも称される)

私は九州に行く時は必ず佐世保に住んでいる弟に逢う為に
足をのばすことにしている。
今回も行く前に電話して最近の消息を聞いた。
弟は生涯を運転手として過ごしたので腰膝を傷めている。
何度も手術したらしいが段々悪化しているらしい。
10分も歩けずどこに行くにも車で行く。

それが最近すごく悪化していて道路から敷地まで手すりの無い階段を上り更にアパートの2階に住んでいるが何度も転げ落ちたと言う。
「そりゃ大変じゃないのよ、階段の無い家賃の安い市営住宅に申込んだら」と言った。
『でもどこに申し込んでいいかわからないし』と言う、
「そんな事市役所に聞けばいいじゃないのよ」

しかし何しろ弟は面倒くさがり屋で人と接することが大嫌いなので  私が乗り出すことにしました。

佐世保市役所の福祉関係の部署に電話してこれこれこうだから
市営住宅に入れて貰いたいと言いました。
役所の男性はとても親身に話を聞いてくれて、
弟の住んでいる地区の地域包括支援センターに繋いでくれました。

翌日そこの女性相談員から電話がありましたので独居老人(80歳)で身体障碍者なので格別の支援をお願いしたいと申しました。
公営住宅は年に数回申込み募集があるので申し込んで、、、と
言われましたので、特段の措置で入居できるように支援して
ほしいと申しました。

そして2月13日(月)に訪問して詳しくお話したいと申しました。

続く



 
プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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