おてんば86歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

親、兄弟

野球愛DNA


令和5年3月25日(土)雨

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スターティングメンバー

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日本中どこ行っても日本勝利で賑わっている。
その動向の一挙手一投足に関心が向けられています。
これを機に野球が又昔の様に隆盛になると良いですね。
日頃からみんながみんな野球に関心を持っていたわけでは
ないと思う。
かくいう私も昔に比べたら野球に疎くなっていた。

でもDNAは野球に縁があるのだ。
父は野球キチガイで当時西鉄ラインズのフアンで
福岡の平和台球場に良く行っていた。
家ではスポーツ新聞を購読し、
テレビでは野球放送が常に放映されていた。
独身の頃は会社の野球部で活躍していたようだ。

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独身の頃は隣町にあった西杵炭坑で働いていた、
ユニホームに「西杵」とある
因みに父は黒シャツを着て写っている。

その血を色濃く引き継いだ息子は小学2年の頃から
いまだに野球と縁が切れないようだ。
当時はサッカーなんて誰も見向きもしないで野球一筋だった。
私は住宅地の子供会の役員をしていたので
野球に詳しい役員と話し合って野球好きな子を集めて
野球部を作りました。
旦那も柄にもなくコーチ等引き受けて朝練を指導していました。
息子は小学、中学、高校、大学、会社と野球一筋の人生です。
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当時神奈川県は全国一のチーム数で200を超えていました。
新設校で弱小高でしたので一勝が願いでしたし、
監督さんが息子にその願いを託していると仰っていましたが、
とうとう三年間願いは叶いませんでした。

しかし高校まではエースで部長で生徒会の会長も引き受ける
人気者でしたが、大学に入って始めて人後に落ちる経験を
した様です。
首都大学野球連盟の加盟大学でしたが、全国の甲子園級の学生が
わんさかいてレギュラーの位置を得る事は出来なかったようです。

入学当時、我が家は困窮の底にいましたので野球部の先生に強硬にお願いして寮に入れて貰いました。
寮に入れないと野球は続けられないと切にお願いしました、
野球部員が250人もいる大学ですから無理な相談だったのですが
私の熱意が通じました。

しかし2年だったか3年だったかに突然我が家に帰ってきました。
当時も今も同じ間取りですが、寝室は2部屋しかありません、
どこに寝るのと言う話です。
暫く私達夫婦の部屋で寝ました。

それから少し経済も良くなっていたのと母の遺産が入りましたので 古いけど駅近の1DKのマンションを買って住まわせました。
そこに結婚するまで何十年も住んでいましたね。
家賃として3万入れさせましたよ。
売りましたら買った値段の半額以上で売れましたので
投資金額の元は取りました。

そして息子は会社の野球部で活躍し、おまけにお得意さんの野球部の欠員で助っ人で駆り出されましたし、高校時代の野球部員と
草チームを結成して毎週のように試合に出ていましたし、
最近50代になったのでもう野球から足を洗ったのか聞きましたら 「監督だよ」と言っていました。
冥途の父も俺の血を引いたと喜んで居る事でしょう。








弟と電話した、しらんわ!


令和5年3月9日(木)晴れ

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一昨夜が満月だったらしい、大急ぎで西に沈む月
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真中より少し左の赤いビルに沈む月
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今日は一日家に籠っていた。
意を決して弟に電話した。
とても不愉快でしばらく日を置かないと書けない。
夕方知り合いの方が来訪して話し込む。

過日商店街で保護して家に送り、のちに地域包括支援センターに
繋いだ方、ため口が担当することになったそうだ。
その時は手一杯だから依頼されると困ると言っていたのに
「あんたが繋いでくれたおかげで1件増えたわよ、ありがとう」
だって! 介護認定受けたら要介護①だったそうなので、
あの状態で①はないでしょうと言ったら、
「何しろよく喋るから軽く見られたようだ、区変(区分変更)を
出して調査には私が同席するわ」と言っていた。

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今夜の夕食、肉じゃが丼(たまご乗せ)トマト、赤ワイン、イチゴ


今日の歩数は2984歩




弟に早急に電話しなければならないが、その気にならない。


令和5年3月7日(火)晴れ

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大分明るくなってきた、体操始まる前に消灯する
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 日の入り 大分北の方に上がって来た、
体操中に撮影したので傍の連中が驚いていた


今日は午前パソコン教室
わが家の防災マップ._page-0001 (4)

今日の課題、自己流でも出来る課題ではあるが教科書の教えに
従ってやると結構面倒だ、我ながら良く出来たと思う。
家のイラスト以外は全て手作りだ。
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今日のお昼 近くの台湾料理屋でルーロー飯を食す。
1100円
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今夜の夕食、今夜の料理は全て出来損ない、
鱈の煮付け(みりんの代わりに油を入れた、甘くないのでおかしいと思ったし、汁をスプーンですくった時感触がおかしかった)
ホウレン草の胡麻和え(市販の胡麻和えの素でやったが不味い)
汁(昨日のうどんの汁に菜の花を入れたが、超不味い)
ご飯(コメが1カップ弱しかなかったので小さな鍋で炊いたら
カチカチの焦げが鍋底一杯出来た)
赤ワイン

今日の歩数は6636歩





父の躾と教育③


金銭教育編

支那時代家族4人
支那時代の一家 昭和17年頃、母はその後次男を妊娠して
帰国して18年に出産しました。

二番目に厳しく躾けられたことは借金するなでした。
小学校の頃学校で10円収めなければならないことがあって、
たった10円(当時でもたっただった)なので
友達に借りて収めました。
そして父に褒められると思って報告しましたら
忘れもしない大変叱られました。
「子供のくせに借金するとは何事だ、先生に明日収めますと
なぜ言わなかったのだ」と

その教えはいまだに効いています。
私は借金は大嫌いです。
今までに借金したのは上京して衣服の整理に必要な
整理ダンス4500円を10回払いで買いました。
その借金を払い終わる前に
私がもし死ぬようなことになったらと不安でした。

その後の人生は買いたい物は貯めてから買いました。
その後車と家を買う時はさすがにローンを組みましたが
それ以外はありません。

それなのに結婚した相手が借金王でした。
そればかりではなく借りた金を絶対に返しませんでした。
独身の時は義母が払い、
結婚してからは私が払いました。
旦那の金銭問題を論じたらきりがないのでここでは割愛します。

いや!一つだけ論じます。
結婚する時、式について旦那は積極的に論じませんでしたので
私が主導して取り決めました。
そして喫茶店で思い切って聞きました。
「○○さん貯金は幾らあるんですか」
『兄貴から幾らだろ、おばさん①から幾らだろ、
おばさん②から幾らだろ』と御祝儀を当にしているのです。
「そんなものは貰ってみなければわからないじゃないのよ」
つまり1銭も貯金が無いのです。

そして結婚してからわかったんですが
旦那はいい給料もらっていたのに家(義母)に
1銭も入れて無かったのです。
殆どを遊興費に使い果していました。
ダンスが得意でクラブやキャバレーで使い果たしていました。
後にカラオケも得意で、フランク永井や裕次郎張りの
いい声でした。

私なんか二人の子供が就職したらその月から
娘は5万、息子は3万入れさせましたよ。
二人名義で貯金しましたけど結婚する時あげました。

結局兄貴は1万円でした、そして義母は義兄は1万円もくれたの、
ずいぶん張り切ったねと言いました。

そしてなんと義母は1銭もくれませんでした。
なぜかわかりませんが、私が気に入らなかったんでしょうね。
兄貴の時は寿司屋でやったそうですが、全部払い。
北海道に新婚旅行に行く費用も出したそうです。
私は新宿にあった厚生年金会館で最低の費用であげました。
義母たちはそれが気に入らなかったようです。

おばさん②は夫婦と娘と3人出席しましたが5000円でした。
叔母さん①は私はもう少し上げようと思っていたんだけど
②が5000円出すと言ったので合わせたんだよと言いました。

私の例の弟は5万円、長男は3万円くれました。
それでも鈍い私は旦那の本質を見抜けませんでした。
結局式費用は私が全部負担しました。
そして住まいは義母が借りている借家で同居生活でした。
これが聞くも涙、語るも涙の物語で最悪でした。

その時見抜いて結婚を止めていたら、
親孝行な子供にも巡り合わなかったわけだから
良しとしましょうか。

これは血筋と言うより義母の躾の問題だと思いました。
義母は子供二人が幼児の時に子供を置いて離婚しました。

兄弟は継母に育てられました、
実父は戦死し東京の家が戦災に遭ったので
義父の実家福島に疎開しましたが
いつもひもじい思いをさせられたと継母を恨んでいました。
当時実の母子でも飢えていましたけどね。

でも福島の実家は農家なのにどうして孫を飢えさせるのだと
私なんか疑問に思っていました。

そして小学校5年の時に実母に引き取られましたので、
義母は贖罪意識で強く躾けられなかったんだと思います。
義父は南洋で軍艦諸共戦死しました。
義父靖国
義父軍歴
部隊は戦後21年に無事に復員しています、
これはどういうことでしょうか、
部隊諸共船が撃沈したのかと思っていました。

義父の供養は誰もしていないし、墓もありません。
家庭を崩壊させると末はこうなりますね。





父の躾と教育②



父とは会話はありませんでしたが、
子供が幸せになる方式を常に考えていたと思います。
只会話が無いのに押し付ける姿勢は子供の反発を呼びましたね、
特に私や次男は反発しました。

私の反発は見えない反発でしたが父は見抜いていて
私と次男は親の言う事を聞かないと思っていたようです。

私の場合は近場で良縁を得て結婚させることだったかも
しれませんが、私は家を飛び出しました。

21,2歳の頃結核になり、半年療養所で療養し
半年家で過ごしましたが、
勿論保険もありませんので療養費は弟の勉学費で
精一杯の親には頼めず、、、

父は終戦の頃ダイナマイトの事故で右手指を怪我しました、
それで脱サラして衣類の卸の商売を始めました。
始めの頃は繁盛していましたが戦後落ち着いてくると
殿様商売も落ち目になって私が高校に行く頃には
大学進学は絶望的になっていたのです。
長男一人を大学出すのが精一杯でした。

私は地元選出の面識もない市会議員さんにお願いして
医療費補助の申請をしていただきました。
その代り小遣い(生活費)は0査定されましたので
親に月1000円だけ送金してくれとお願いしました。
その額は生活保護者より少ない額でした。
女性にはどうしても必要な出費があるのです。
その決定が出るまで寝てもおれない心境でした。

なぜなら父は弟を退学させてでも療養費は出すと
言いましたので、そんなことをさせるわけにはいきません。
私の一番困窮した時代です。

佐世保市には恩があるのです、私が死んで残っていたら
僅少でも寄付したいと思っています。

父は当時は仕方のないことでしたが、
私を黴菌扱いして家は針の筵でした。

まだ健康に自信はありませんでしたが、弟(長男)が
東京の大学に行っていたので東京の就職先を
新聞広告で見つけて上京しました。

上京前夜に父はしおらしくつらく当たったことを
詫びるような口調でしたが、
その後は絶えず都会に憧れて飛び出したと非難していました。
だから私と次男は父から見ると親不孝者だったのです。

さて次男は始め鉄工所に就職しましたが、
馴染めなかったようで直ぐにやめて
千葉の運送会社に転職しました。

社長はやくざっぽい人らしかったが
弟を可愛がり弟も馴染んでいました。
運送会社では長距離運送に従事していました。
長距離の運転手は人と交わるのが苦手な
弟にはピッタリだったかもしれません。

父は戦後すぐに事故に遭い炭鉱を退職しましたので、
老後手厚い福祉が受けられないことを残念に思っていたようです。
叔父さんは定年まで働き退職金も年金も十分貰い
悠々の老後でしたので、働くのは福利厚生のしっかりした
会社でないと駄目だと思っていました。

だから次男がやくざっぽい運送会社で働くことを憂いていました。
三井関係で働いている知人に息子の就職を頼みました。
次男は言う事を聞きません。
だから私に説得しろと命じられました。
次男を呼んで説得しましたが当然首を縦に振りません。

その後大分たってから佐世保の叔父さん(母の弟)に
靴屋の跡取りとして呼ばれました。
私は叔父さんの性格をよく知っていましたので反対しました。
父も反対していました。
しかし反対を押し切って行きました。
当然直ぐに飛び出しました。

それから運送会社に勤め、
そのうちにダンプカーを買って独立しました。
誰にも気を遣わずそりゃよかったでしょうね。

雲仙岳が噴火した時は地元の業者は山が噴火するたびに
又何年分の仕事が増えたと喜んで遥拝していたそうです。
近隣の業者も大分うけに入ったようです。

でもいつも順調に仕事が入るわけではありませんので
ならすと残すところまではいきません。
最後の頃はいつも仕事がない、金が無いと言っていました。
そしてとうとう80近くになり仕事も入らず体もがたがたで
辞めざるを得なくなりました。

そんなわけで貯金もわずかで、
年金もわずかで、
私にも借金返せず、
そのうちに生保のお世話になる運命です。

私の兄弟で老後設計が成り立たないのは次男だけです。
父はこうなることを見通していたんです。
弟の人嫌いで頑固なところは育ちのせいでしょうか?
持って生まれた性格のせいでしょうか?


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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