おてんば84歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

朝雄叔父さん ピエズ島、オーシャン、ナウル島

生まれ年による運不運(追記あり)


令和3年10月3日(水)晴れ富士山おぼろ

今朝4時台に頻便で起きました。
下痢でした、しかも未解決、このままでは外に出られない。
体操行けない、だからもう寝るわ。
しかし5時35分に眼が覚めました。
やっぱり記録を破りたくない、行こう。
大急ぎで支度していつもの5時50分に家を出ました。

お隣さん来なかった、私は最前列にいるので後ろは見えませんが
遠く前方に大きな犬を侍らせている太っちょのおじさんは
毎日来てたのに昨日から来てません、気になりますね。
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鳩にパンくずを撒いてありますが、
鳩さんも6時前では起きてないんだな
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白と黒のラブが嬉しそうにしっぽフリフリ
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早朝はいろんな犬と出会えます


下痢には心当たりありませんが何が原因だろうか、
まさかマクドのハンバーガーじゃないよね。

マクドと言えばお腹の突き出たおじさんが接客していました、
いかにも新人らしくマニュアル通りのセリフで必死の様でした、
時々カタカナ名の中年女性に指導を受けていました。

ところで中高年男性の再就職は東京と言えども厳しいらしいですね、昔は門番でも正社員として定年まで働けましたよね。
今はかなりの役職でも簡単にリストラされるんですね。

こんな時代になる前には早期退職した中高年男性は
経営コンサルトなんてかっこいい肩書で独立していましたね、
あれで喰えたんでしょうかね。
いつも疑問に思ってました、

最近はそんな転職話聞きませんね、
ガードマン、マンション管理人、清掃員と言うところが
実業でしょうね。
誇りが邪魔になる時代です。

私は良い時代を通ってきました。
昭和12年生まれはとてもいい時代に生まれたと思います。
誰でも60歳まで安心して働けました。
パソコンなんてまだ出現していませんでしたから、
機械音痴のおじさんでも大威張りで役職張っていられましたね。

私の末弟は昭和21年3月生まれでしたが、
これも良い時代の生まれです。
21年4月以降生まれだとベビーブーム時代の幕開けでしたが、
学校も就職も広き門でした、よりどりみどりでした。

トヨタ自動車で定年まで働き、定年の年の前年に定年後も働ける制度が出来ましたので、弟もそれで引き続き働くのかと思っていましたら、21年4月以降生まれが該当するそうで、弟は数日早く生まれたせいでその制度から外れましたが、それで働いた人達はかっての部下達に虐められてほとんどが満期まで働かなかったそうです。

弟は天下り先で大事にされて、その間ボランティアで身体障碍者の通院介助、送迎等をしていた時にヘルパーの資格を取っていたので
完全リタイヤした時、介護施設に面接に行ったら、今日からでも
来てくださいと言われて週に何日か働くことにしました。

釣りが好きだから、経済を握っているかみさんに
お願いしなくても遊びの費用を賄えると言っています。
ここんところ音信不通だけどまだやっているかな、
連絡してみよう!

家の二人の子供もいい年に生まれましたね、
日本が経済大国を謳歌していた時代に社会人になりましたので
楽々の人生でした。
娘に「あんたは日本有史以来一番いい時代に生まれたよね」と
言いますと、
娘曰く「そこまで遡るか、でもね運の良さも才能のうちよ」と
生意気言います。
いい時に生まれてもそれを生かせない人生もありますね。
最たるものは貧困老人になることです。
私はそれだけはさけたいと努力した人生でした。

縮小朝雄叔父さん
朝雄叔父さん
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父(左)と叔父さん(右)

運の悪い生まれ時と言えば大正6年生まれの
叔父さんは最たるものでした。
軍歴を見ると初年兵で入隊してから戦病死するまで
8年間一度も除隊になって無いのです。
まさに青春は戦争でした。
この人生の落とし前はどうしてくれるのよ。

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支那山東省の日本経営の炭鉱の辞令
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支那も危なくなったので同僚達より一足早く帰国して
九州大手の炭坑に就職する 先見の明のある父でした

父は明治42年生まれですが、
昭和12年に支那事変に出征してますが
2年で除隊してその後支那と日本の炭坑で働きました。

朝雄叔父さんの軍歴
朝雄叔父さんの軍歴toriminngu
朝雄叔父さんの軍歴、クリックすると大きくなります
父の軍歴
父の軍歴
因みに海軍は厚生労働省、陸軍は県が管轄です

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午後からパンを焼く、
夕方娘がでかいハンバーガーを買ったから
わけわけして食べようと持ってきました。
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青森産のリンゴと蜂蜜入りだそうです、1300円デカい。
お昼に豚まんを食べたばかりなのでお腹一杯になった。

夕食前に散歩に行く、
今夜もフク達はいつもの場所に居なかった。

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今夜の夕食、鳥つくね入りの味噌汁、
豆腐、白菜、牛蒡、ネギ、舞茸、胡瓜漬け物、ビール、ご飯無し
今日の歩数は9175歩





南溟の島ソロモン


 令和3年6月4日(金)終日強雨

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8月31日まで延長になっておりました。

ソロモン群島
ファウロ群島の中にピエズ島はある
縮小朝雄叔父さん
朝雄叔父さん
朝雄叔父さんの軍歴

旦那の父親も戦死、生きていれば旦那の境涯も良かっただろうな、
歯科の技工士で従業員を沢山使って手広く営業していたそうだ、
義父の兄弟やその息子達に技工士が多いが旦那の父親に仕込まれて独立したそうだから、昔は徒弟制だったようです。
義父軍歴
義父はどのような戦闘で戦死したのだろうか
義父軍歴
無事に帰還した方もいるわけですが、
義父はどのような死に方だったんだろうか


戦死者の写真が沢山展示してありましたが、
叔父さんの写真も入れて貰おうかなとおもいます。



今日は強雨だったが午後から靖国神社に出かけました。
遊就館で全国ソロモン会主催の写真展が開催されていて
6日までなのでなにがなんでも行かなきゃなんない。

叔父さんは海軍67警備隊所属でネットで検索したらナウル・オーシャン島の警備だったと判りましたが、両島は赤道直下の東西にある小島ですが、叔父さんはどちらの島にいたのか知りたいのです。

両島は川が無いのでマラリア蚊はいなかったが、戦後豪州軍の支配下に置かれてソロモン群島の現地人も住まないマラリヤ猛生息地に抑留されて医薬食料も満足に施されなくて苦しみながら引揚船が来た頃亡くなったのです。
餓死です。

いつも叔父さんの無念が私の脳裏に乗り移っていますよ。
今さら遅いけどソロモン会に入会しようと思います。


ネットで拾った体験者のメモ
ナウル・オーシャン・ピエズメモ

1942年8月、日本軍はナウル島・オーシャン島を占領し、
海軍第67警備隊として、前者に4000名、後者に500名の守備隊を置いた。1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。

1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした.
  
9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。
  
但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、行軍に不慣れな者ばかりであり、その上、気温は摂氏35~38度もあった。
しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
  
このため、恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。
  
例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。
  
最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌).

ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、
第一隊の惨状があったにも関わらず、第二隊も同じ方式で行なわれた。

更に、悲劇は続く。
ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。
  
10月末に、常設収容所に移送された際、この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも、一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。

で、だ。
 このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、彼らを死の淵から救う…わきゃない.
  
彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。
  
その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
 「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。
トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった。
最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、4週間で530名が発病。
ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」
  
この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。

ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。
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夜は昨日の肉が沢山残っていますのでお隣さんに声をかけて
もう一人副理事長の女性と3人でたらふく食べました。
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レモンと塩で食べました、好評でした
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市ヶ谷のスーパーに台湾パイナップルが580円 お買い上げ~
もう数えきれないほど食べたわ、
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多汁で甘い

副理事長の女性にナショナルベーカーリーを差し上げました。
断捨離!場所が空きました。

今日の歩数は5315歩 3,3㌔



叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事


叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事

1942年8月、日本軍はナウル島、オーシャン島を占領し、
海軍第67警備隊として前者に4000名、
後者に500名の守備隊を置いた。

1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。

1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした。

9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、
仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。

但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、
行軍に不慣れな者ばかりであり、
その上、気温は摂氏35~38度もあった.

しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、
行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
このため,恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。

例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。

最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)

ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、
第一隊の惨状があったにも関わらず、
第二隊も同じ方式で行なわれた。

更に、悲劇は続く。
ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、
免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。

10月末に、常設収容所に移送された際、
この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも,、
一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、
免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、
ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。

で、だ。
このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、
彼らを死の淵から救う…わきゃない。

彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。

その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
 「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。

トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった.
最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、
4週間で530名が発病。

ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」

この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、
12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、
オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。


この手記はおじさんが67警備隊所属だったことを知ってからネットで検索して見つけたものです。

叔父さんは赤道直下のナウル島にいたものと思っていましたが、
67警備隊はナウル・オーシャンを警備していたので
どちらか不明です。
私はまだ詳細を極めていません。
それを成し遂げるまでは元気でいたい。
朝雄叔父さんの軍歴

朝雄叔父靖国
叔父靖国神社ご祭神
朝雄靖国
義父靖国神社ご祭神
マライタ島
この地図は平尾軍医の戦跡を辿った地図です。
平尾軍医は戦後、第一生命の重役をされていた方で
村田春樹さんが尊敬しているかたです。

ピエズ島

ピエズ島地図

参考書籍
「ソロモン軍医戦記」平尾正治著
「ソロモン戦記」福山孝之著
「ソロモン収容所」大槻巌著(元海軍第67警備隊)


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プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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