おてんば83歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

靖国神社

叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事


叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事

1942年8月、日本軍はナウル島、オーシャン島を占領し、
海軍第67警備隊として前者に4000名、
後者に500名の守備隊を置いた。

1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。

1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした。

9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、
仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。

但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、
行軍に不慣れな者ばかりであり、
その上、気温は摂氏35~38度もあった.

しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、
行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
このため,恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。

例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。

最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)

ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、
第一隊の惨状があったにも関わらず、
第二隊も同じ方式で行なわれた。

更に、悲劇は続く。
ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、
免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。

10月末に、常設収容所に移送された際、
この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも,、
一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、
免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、
ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。

で、だ。
このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、
彼らを死の淵から救う…わきゃない。

彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。

その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
 「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。

トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった.
最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、
4週間で530名が発病。

ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」

この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、
12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、
オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。


この手記はおじさんが67警備隊所属だったことを知ってからネットで検索して見つけたものです。

叔父さんは赤道直下のナウル島にいたものと思っていましたが、
67警備隊はナウル・オーシャンを警備していたので
どちらか不明です。
私はまだ詳細を極めていません。
それを成し遂げるまでは元気でいたい。
朝雄叔父さんの軍歴

朝雄叔父靖国
叔父靖国神社ご祭神
朝雄靖国
義父靖国神社ご祭神
マライタ島
この地図は平尾軍医の戦跡を辿った地図です。
平尾軍医は戦後、第一生命の重役をされていた方で
村田春樹さんが尊敬しているかたです。

ピエズ島

ピエズ島地図

参考書籍
「ソロモン軍医戦記」平尾正治著
「ソロモン戦記」福山孝之著
「ソロモン収容所」大槻巌著(元海軍第67警備隊)


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シニアナビ過去記事(287)「ピース島はいずこに」

[287] ピース島はいずこに 2006.8.14  22:45:14   
18/8/14(月)酷暑

287_picture
今年も元気に参拝出来ました。


今日は娘と「靖国神社」と「千鳥が淵戦没者墓苑」に
手を合わせて来ました。

午後3時までの仕事を終わってから渋谷から半蔵門線で15分で
九段下に到着した。
東京は本当に交通が便利だなぁ。

4時に大鳥居の前で娘と待ち合わせ。
大型バスが参道までぎっしり停車して、皆さん遠くから参拝に来ているんだなと感心した。
報道陣もなにやら期待しているような待機の仕方であるが、
今日は穏やかである、若い人も沢山いて、この所の騒ぎのお陰で
今まで気にもしていなかった人々も関心を持つようになったのだろう。

実は私もそう。

私の血縁では只一人父の弟の朝雄叔父さんが戦死(餓死)しているし、旦那の父親がニューギニアで戦死している。

父の兄弟は3人共体格はがっちりしていて兵隊には一番先に取られそうだが、
父は当時の基幹産業の炭鉱で採鉱技師をしていたので免れ、
次の弟は生まれつき首が斜頚で免れ、一番下の叔父さんだけが
海軍に行った。

海軍兵曹長(いまや死語ですね変換しません)であった。

朝雄叔父さんは家族みんなの希望の星、自慢の息子、自慢の兄弟であった。
当時誰でも貧しい頃、兄弟の多い家に生まれたが性格もよく
頭も良かったので、町で町長の息子とたった二人だけ
旧制の中学に行った。
当時は我が母校武雄中学はまだ無かったので遠い小城中学に行った。

叔父さんの写真が仏間に飾ってあって毎日目にしていたが、
日本人離れのしたきりりとしたいい男であった。
私は洋画の好きなませた少女だったので、
当時胸躍らせたハリウッド俳優の「ロバート・ミッチャム」に
そっくりだなと思っていた。

叔父さんは終戦まで、戦死の公報が来なかったので、
無事に帰って来るだろうと家族は期待して毎日待っていた。
我が家は山の斜面にある町の上の方だったので、
毎日のように復員兵や海外からの帰国者が登ってきた。

ある時、父が郵便配達人とすれ違った、何故か胸騒ぎがして急いで引き返した。
やはり叔父さんの死を知らせる手紙だった。

叔父さんは戦死ではなく「ピース島」と言う小さな島で餓死したそうだ。
(後記:その後ピエズ島と判明した)
父は嘆いた「日本に居たならば餓死だけはさせないのに」と
そして母に大急ぎで「銀シャリ」を炊かせて大盛りのご飯を仏前に供えた。


叔父さんの「骨箱」にはお骨は無く、
「新品のハンカチと新円切り替えの証紙が張ってある郵便貯金通帳」だけであった。

新円切り替えの事は私は「根掘り葉掘り質問魔」だったので
子供ながらよく理解していた。

昭和19年に小学校に入学した時、当時国民の義務とて
母が私名義の貯金通帳を作ってくれて、毎月確か5の付く数字「5銭か50銭か」の貯金をしてくれた。

私より一回り年上の師匠に聞いたら当時50銭はかなり値打ちがあったそうなので5銭ではなかろうかと、思う。

そして戦後(昭和21年2月)「新円切り替え」をした。
子供心に叔父さんは新円切り替えをするまで生きていたのだと思った。
周りの大人に聞くことはせず、一人納得していた。

でもず~っと後になって、あれは本人がしたのではなく、日本で所属の機関が通帳を預かっていて、やったのだろうと理解した。

それ以来私は折に触れ「ピース島」はどこにと思い出す。
叔父さんの餓死した島はどこにあるのだろう。
調べて判れば意地でも尋ねてみようと思う。

調べよう、調べようと思いながら、日々の生活に流され未だ果たさずに居る。
今年こそ調べます。靖国神社の霊前で誓ってきましたから。

(後記:追画像)

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父左(陸軍)と朝雄叔父さん(海軍)
遺骨は収集されていません。ピース島の密林の中でしょう。
戦後女の人が消息を訪ねてきたと伯母さんが言っていました。



安倍晋三前首相が靖国神社を参拝

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安倍晋三前首相が靖国神社を参拝
9/19(土) 10:06配信 産経新聞


安倍晋三前首相は19日午前、靖国神社(東京・九段北)を
参拝した。
自身のツイッターに「本日、靖国神社を参拝し、
今月16日に内閣総理大臣を退任したことをご英霊に
ご報告いたしました」と写真を添えて投稿した。
安倍氏は首相在任中、平成25年12月26日に1回だけ
靖国を参拝している。

この記事、売国新聞のようなそっけない文章ですね。
産経新聞がよ!


惜しむらくは最後の一日でもいいから首相在任中に
参拝して頂きたかった。

プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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