おてんば83歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

護国活動

産経新聞記事 「日本学術会議にGHQの影」


IMG_20201025_0003




 

10月24日の産経新聞記事 まだまだ続く学術会議問題


 IMG_20201024_0001

IMG_20201024_0007

IMG_20201024_0003

IMG_20201024_0005



【日章丸事件が戦後復興を加速させた‼️】(その2)


 
【日章丸事件が戦後復興を加速させた‼️】(その2)
〜 戦後復興で利益を貪っていた石油メジャー‼️ 〜


2の1
2の3
②


欧米列強は悉く狡賢い国‼️
日本の戦後復興になくてはならない石油の供給にあって、
欧米の石油会社はGHQに取り入り暴利を貪っていたのです。

エクソン、モービル、テキサコ、BP、ガルフ、シェル、シェブロンの7社は国際カルテルを組み、日本の石油供給で一儲けしようと乗り込んできたのです。(俗に言うセブンシスターズ)

これに対抗して安い石油を供給しようと奔走したのが、
出光興産の出光佐三だったのです。

自社船(日章丸二世号)を戦後に建造し、安い石油を求めて世界に買い付けに行ったのです。
時にはスエズ運河を超えてベネゼイラまで買い付けに行った記録が残されています。

しかし石油メジャーの妨害に遭い高い石油を買わされていたのです。

こんな時、イランはモサデク政権が誕生し、イラン石油の国有化宣言をしたのです。
しかし、宗主国であったイギリスはイランの経済封鎖を断行、
またペルシャ湾に軍艦を派遣し、イラン石油の輸出を禁じたのです。

イランは石油輸出により、国家経済の安定を目指し、
またイギリスからの独立を目指したのです。
イランは世界各国に特使を送り秘密裏に交渉を開始したのです。

当然、日本の石油会社にも打診がありましたが、戦勝国のイギリスに逆らって石油を買い付けることなど出来なかったのです。
しかし、安価な石油を日本に輸入し、戦後復興を加速させたいと考えていた出光佐三は輸入を決断したのです。

出光興産にはブリジストンの石橋社長を通じてイラン人バイヤーから打診がありました。
サンフランシスコ平和条約が締結され、日本も独立を果たしたと雖も連合国に逆らうような行動は躊躇されました。

しかし、出光佐三は決断したのです。
イランに社員を派遣し、隠密裏に折衝を開始したのです。
出光佐三の反骨精神が発揮されたのです。
業界の異端児的存在の出光佐三でしたが、
常に正しいことを貫く姿勢を崩しませんでした。
(明日に続く)

奥本 康大氏のフェースブックより転載



学術会議問題、長谷川 幸洋(ジャーナリスト)

学術会議問題、
ついにリベラル派が分裂し「内部崩壊」が始まった…!
10/23(金) 6:02配信
長谷川 幸洋(ジャーナリスト)

93c4b_1585_84daddb15ce4e4f05819d96589e85247[1]
菅首相
9[1]
日本学術会議の梶田隆章会長
会談
井上科技省
井上信治科学技術相
https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXMZO6508922016102020EA3001-2[1]



お粗末な野党への「ブーメラン」
日本学術会議の会員任命問題が、なんとも見苦しい展開になってきた。
政権追及の矢がブーメランとなって、追及した側に戻ってきたと思ったら、今度は「内ゲバ」まで始まった。
なぜ、こうなってしまうのか。当事者たちは言えないだろうから、私が代わりに答えよう。

私は先々週のコラムで「北大事件」を取り上げて、野党や左派マスコミの追及を「やぶ蛇」「ブーメラン」と指摘した。

そのうえで「赤旗報道から始まった今回の騒動は、野党と左派マスコミ、おバカ学者をそろって撃沈する結果になるだろう」と
書いた(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76267)。

続けて先週は、野党が追及の矛先を政権の意思決定プロセスに変えてきた点を指摘したうえで、50年近く前の個人的な記憶を基に、「左翼の楽園」が長続きしない理由について「バリケードの中で内ゲバが始まったからだ」と書いた(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76462)。
私としては、ほんのご参考のつもりだった。

すると、学術会議問題でも、本当に「内ゲバ」が始まってしまった。
これには我ながら驚いたが、まさに左翼がこの半世紀、まったく進歩していない証拠である。
彼らはいつまで経っても、どんな問題を取り上げても、同じ失敗を繰り返しているのだ。

学術会議をめぐる「内ゲバ」の顛末

学術会議をめぐる内ゲバは、どう始まったか。
日本学術会議の梶田隆章会長が菅義偉首相を官邸に訪ねたのは、
10月16日午後だった。
首相との会談を終えた梶田氏は記者団に囲まれ、記者から「総理から、6人の任命拒否の件について、明確かつ具体的な説明はありましたか」と問われた。

すると、梶田氏は「あ、あの、ま、今日はあのう、そこの点について、まあ、あの、とくに御回答を求めるという、そういう趣旨ではないので、あの、ま、とくにそこについて、あの、明確なことがどうこう、ということはあの、ないです」と伏し目がちに答えた(https://www.news24.jp/articles/2020/10/16/04742595.html#cxrecs_s)。
やたらと間投詞の多い話しぶりが、梶田氏の動揺を物語っている。

記者から「お聞きにもならなかったんですか、梶田さんから」と追及されると、
「一応(任命拒否の理由説明と任命を求める要望書を)お渡しはしましたが、それよりも未来志向で学術会議が今後、しっかりと、たとえば学術に基づいて社会や国に対してどういう風に貢献していくか、
そういうことについて、主にお話しました」と述べた。
さらに「あらためて6人の任命は求めなかったのか」という質問には
「本日は、そこまで踏み込んでお願いはしておりません」と明言した。

梶田氏が会見を開いて、菅首相に「任命しない理由を説明せよ」「任命されなかった方を速やかに任命せよ」と要求したのは、
10月2日だ。
学術会議として要望書を提出する件もそのとき、決まった(http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/kanji/pdf25/siryo301-youbou.pdf)。
それから、わずか2週間である。

せっかく首相との会談がセットされたのに、自分のほうから議論を避けてしまった。
これでは、要求を取り下げたも同然だ。
それだけではない「学術会議の今後のあり方」を政府と検討することで合意した、という。

菅首相は、梶田氏の会見後、ぶら下がりで会見し、次のように語っている(https://www.news24.jp/articles/2020/10/16/04742700.html#cxrecs_s)。
本日、梶田会長、就任のご挨拶ということでいらっしゃいました。
私からはこれまでのインタビューなどで申し上げているように、学術会議が国の予算を投ずる機関として、国民に理解をされる存在であるべき、そうしたことを申し上げました。

梶田会長からはこの場でもお話があったようですが、未来志向で今後の学術会議のあり方を政府とともに考えていきたい、こうしたお話がありました。
政府としても、そこはそうしたいと思っています。

それで井上(信治・科学技術政策)担当大臣を中心として梶田会長とコミュニケーションをとりながら、そうした方向にお互いに進めていこう、そういうことで合意をいたしました。
以上です。

菅氏は「以上です」と言うとき、わずかに「ニヤッ」と笑みを漏らして、会見を切り上げた。
自分の「完勝」を確信したに違いない。
これは、菅氏の癖だ。
官房長官時代に衆院解散、総選挙に関連して、記者団をケムに巻いたときもそうだった(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/40957)。

ようするに、梶田氏は振り上げた拳を、自ら下ろしてしまったのだ。
完敗である。

すると、政権批判で有名な元文部科学事務次官の前川喜平氏がツイッターで、梶田氏にこう噛みついた。
「梶田学術会議会長は、何をしに官邸まで行ったのか。
腰砕けもいいところだ。菅首相の思う壺にはまってしまった。
情けない」(https://twitter.com/brahmslover/status/1317043553172779009)。

なんとまあ、正直なことか。前川氏のいらだちが目に浮かぶようだ。それはともかく、私はこれを読んで、かつての学生運動の末期を思い出した。
過激派が穏健派をなじったときの口調と、まったく同じなのだ。
こういう台詞が出てくると、戦いは終わりである。

前川氏だけではない。
立憲民主党の蓮舫代表代行もツイッターに「『任命見送り説明なし』これがニュースの見出し、でしょう。
双方が6名削除に触れずにどんな『未来志向』があるというのか」と投稿した(https://twitter.com/renho_sha/status/1317234249460707328)。

本来なら、梶田氏に怒りをぶつけるところだが、なんとか思いとどまって、マスコミに文句を付けている。
八つ当たりである。一般人によるツイッターの投稿を見ると、梶田氏について「呆れてモノが言えない」「学者バカ」などと厳しい批判がある一方、
「梶田氏を責めるのは、かわいそう」といった同情論もある。
まさに内ゲバだ。内ゲバは闘争に破れたガックリ感から始まる。
過激派は穏健派を軟弱と追及し、穏健派は呆れて、次第に運動から離れていく。

左翼が同じ失敗を繰り返す理由
ここからが本題である。
なぜ左翼は失敗を重ねるのか。

それは、彼らが「反権力」を至上命題にしていて、権力と戦うためには、どんな理屈でも持ち出すからだ。
争点はなんでもいい。
理屈もなんでもいい。
それぞれ勝手な理屈を掲げて戦いを始める。
だからこそ、ひとたび敗色が濃厚になると、次は理屈の争いになる。

「オレの言ってることが正しい」
「いや、それは甘い。
オレの話こそが根本だ」
「それより、こっちの話が現実的ではないか」
「そんなことはどうでもいい。大事なのは攻めているかどうかだ」などと言い争いを始める。
本来の敵に勝てないからこそ、身近な同志を敵視するようになる。

実は「どれが正しいか」など、だれにも分からないし、証明もできない。
現実に根ざした主張ではなく、頭でっかちの理屈にすぎないからだ。
学術会議問題で言えば、最初の「学問の自由に対する侵害だ」という主張が、まさにそれだった。

いったい、学術会議の会員になれないと、どうして学問の自由が侵害されるのか。
学問は大学でも公園でも、それこそベッドの上でも、どこでもできる。

そもそも、学術会議は学問研究をする組織ですらない。
むしろ独自の研究を妨害したのは、コラムで紹介してきたように、学術会議自身だった。
学問の自由を守るためには、左に傾いた学術会議などないほうがいい。

にもかかわらず「学問の自由」だの「任命拒否は法律違反」だのと、まったくレベルの異なる勝手な理屈を言い出すから、
最後は「オレの言い分が正しい」とケンカになる。

これに対して、普通の人々はどのように政治と社会を考えるか、と言えば「自分の税金が無駄なく使われるように、政府の統治(ガバナンス)がきちんと機能しているかどうか」が根本だ。
そのうえで、税金の使い道について議論を戦わせ、最終的には選挙で決着をつける。
前提はもちろん、多様な意見の存在である。

だが、左翼たちは「自分が正しい」が出発点で、かつ大前提だ。
「民主的統治かどうか」とか「選挙の結果」などは
2の次、3の次なのだ。
たとえ、選挙で負けても「有権者がバカだ」くらいに思っている。
それが古今東西、左翼の発想である。
元左翼の私が言うのだから、間違いない(笑)

そんな身勝手な左翼を相手にしなければならない梶田氏に、
私は同情する。
梶田氏は学術会議で決まった話なので、首相に要望書を手渡さなければならなかった。
だが、彼自身が確信的左翼とは思えない。
いかにも自信なさそうな話しぶりを見れば、明らかだ。

振り上げた拳を下ろせない連中は「梶田会長の不信任」を言い出すかもしれない。
そうなると、騒動はますます泥沼化して、学術会議は解体的出直しを迫られるだろう。
「ブーメラン」「内ゲバ」ときて、次はいよいよ「自爆テロ」に走るのだろうか(笑)

 

【日章丸事件が戦後復興を加速させた‼️】(その1)


【日章丸事件が戦後復興を加速させた‼️】(その1)

日章丸
出光佐三
②出光
船長

〜 敗戦国の日本が、戦勝国イギリスとの経済戦争で勝利したのが
日章丸事件‼️ 〜

日本が戦後復興遂げた裏には出光佐三が仕掛けた国際カルテルとの戦いがあったことを知らない人が多い‼️
また、日章丸事件を契機に中東産油国が、次々独立を果たしていったのです。

大東亜戦争で日本が東南アジア諸国の独立の下地を作ったのと同じことが中東産油国でも起きたのです。

日章丸事件を企画し決断したのが、出光佐三であったことも、学校の歴史の時間に学ぶことはありません。
全てはアメリカはじめ連合国に都合の悪い歴史は葬られる気がしています。

騙し討ちと喧伝されている真珠湾攻撃の10倍の戦果をあげた
パレンバン落下傘奇襲作戦も学校では教えられていません。
これが今の日本の歴史教育の実態なのです。

戦後、石油メジャーと呼ばれる世界有数の石油会社は日本に拠点を設けて、復興景気に乗じ、利益を得ていたのです。
それもGHQの加護のもと、好き勝手にカルテルを組み利益を貪っていたのです。

そこに立ち向かっていったのが民族系石油会社の出光興産だったのです。
この話は説明に時間がかかるので、何回かに分け書き込みをしたいと思います。

日章丸事件によりガソリンの価格は3〜4割も安くなった事を
最初にお伝えします。
明日から、当時の石油メジャーのカルテル等について説明します。

奥本康大氏のFacebookより転載




プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ