おてんば83歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

シニアナビ過去記事(223)「九州行き④ 「噂」」


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[223] 九州行き④ 「噂」 2006.4.2  17:50:05   

大分以前の話だが、田舎で木村拓哉は私達の従姉妹の息子じゃないかとうわさになったそうである。
戦後生まれの由美子(漢字を忘れた)ちゃんは野添ひとみのような
目がパッチリした女の子だった。

絵付け師の従姉妹と歳が近く、隣家に住んでいたので親しくして、
一番最後まで連絡していたそうだが、最近はぱったりと音信が途絶えて、親戚中誰も消息を知らない。

ある年の秋、東京にいた由美子ちゃんは臨月のおなかを抱えて帰郷した。町に一箇所しかない産院で断られたので、自宅で出産することになった。

突然産気付いたので、絵付け師の従姉妹が駆けつけると、
もう出産が始まっていた、
母親である伯母さんは気絶して伸びていたので、
思わず頭を引っ張りだしたそうだ。

すっかりお腹のものが出終わった時、産婆さんが駆けつけたそうだ。
そして伯母さんにお湯はどこと聞いたら「ポットに入っている」と答えた。

伯母さんは子供が出来ないので、養女を貰って育てた、
その養女が終戦間際に義務教育を終わって国策に従い看護婦になっていた頃、戦後、実子が3人も生まれた。
だからその孫の出産時は老婆だったと思う。

その後優しくて善良な伯父さんは幼い子供を3人残して病死した。
当時の福祉はいかばかりだったか知らないが、
社宅を出され、一間しかない小さな壊れそうな家に住んでいた。

明治30年代に生まれた、伯母さんは無学文盲だった。
3人の子供を抱えてどんな暮らしだったのだろうか。

私の祖父は頼母子講の胴元(と言うのかな)をしていたので、
伯母さんがそれで暮らしていけるように手ほどきして譲ったようだ。

頼母子講の胴元をやって暮らしていけるのか私には解らないが、
文盲でありながら、利息の計算などどうやってしていたのだろうか。
当時の母子所帯の苦労は親子共々並大抵では無かったと思う。

そんな故郷は忘れたいと思っても不思議ではないが、
伯母さんが亡くなってから3人の兄妹はふっつりと消息を絶って
しまった。

その男の子は拓哉と名づけられ、しばらくしてその父親が迎えに来たがすらりと背の高い美男子だったそうだ。
当時は東京でバーテンダーをしていたそうである。

次男もキムタクの弟と同じ名前で、その子達が少年の頃同級生が
「息子さんどうしているの」と聞いたら、
ジャニーズ事務所に入っていると由美子ちゃんが答えたそうだ。
キムタクの母親も由美子だそうだ。
偶然とは言え家族3人が同じ名前で生年月日も同じ頃だそうである。

そんな偶然が重なり噂になり、絵付け師の弟が経営する飲食店にも
「由美子ちゃんの息子だって」と頻繁に聞かれるのでキムタクとは
関係ありませんと張り紙しようかと言っていたそうである。

その話をキムタクのフアンである娘にしたら目の色変えてネットで調べたが、父親はコックで夫婦でレストランを経営しているようだ。

由美子ちゃん兄妹はどうして故郷を捨てたのだろうか。
もうその消息を知る術はない。
(後記:ネットで調べましたが、母上の名前も顔も違っていました)



親友に!勝ったと思ったこと


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令和2年8月(土)晴れ 猛暑


私の娘は口が悪い、
まっ育てた親が親だからな!

私は毎日目薬を注しているけど、これがなかなか難解で一滴で的中したことがない。2,3滴注すことも多い。
そんな話をしたら娘なんと言ったと思います。
「眼が小さいと大変ねぇ」
他にこんなことも言う。
カメラのシャッターを押す時必ず言うセリフがあります
「目開けてんの」

悪かったね、これでも若い時はもう少しパッチリしてたんだよ、
歳取って眼瞼下垂してんだよ。

眼と言えば思い出すことが2,3ありますが、前回の過去記事の親友の事が思い出されます。
彼女の黒目は見開くと上下の瞼に遮られることもなく真ん丸に見えました。

彼女は容貌頭脳だけでなくすべてが私より上でしたね。
私はしがない下の下の庶民でしたが、彼女の家系は華麗でした。
父親は薬剤師で戦前は朝鮮で薬局を手広く経営していたようです。
戦後引き上げて来て温泉街の一等地で薬局を経営していました。
因みに典型的な不在地主だったので戦後の農地改革で山林以外は全部接収された様でした。

一族も華麗で伯父さんは銀行の頭取している人も居たし、実兄は○○県庁のトップまで出世して関西国際空港の設立時には経営陣に天上がったそうです。
彼女言っていました、普通定年後は天下りするものですが兄は天上がりなのよと

一族のおねぇ様方は皆さん武雄高女卒です。
戦後卒の後輩が言うのもおこがましいですが、
戦前は武雄高女卒は良家の子女の花嫁必須の学歴でした。
妹二人も医者と裁判官と結婚していますしね。

武雄高女創立1908年(明治41年)
昔東京に来て間もないころ同窓会に出席したら父が生まれた明治42年に入学したと言うおねぇさんが居ました。
92歳武雄高女卒

全てが私の上を行く方でしたが、私は僻み根性と言うものを持って生まれてきませんでしたので、友人が私より優れているとそれが自慢でした。

お互いの娘が同じ歳でしたが、その容貌、頭脳も上でした。
彼女は子供3人の教育に熱心に取り組んでいて長男を公立に入れたのを人生最大の失敗だったと後悔していました。
高校まで公立に入れたお陰で希望の大学に行けなかったのでアメリカ留学させました。

次男は中学から私立に入れ、三番目の娘は小学校から名門に入れました。
其の女子高は入学すぐから勉強勉強と強いる学校だったそうです。
誰かが入学早々からきつすぎると申し入れたら「勉強好きになるのは癖です、癖はすぐにつけなくてはなりせん、それがご不満なら退学なさっても結構です」と強気だったそうです。

おかげで大学は学習院と聖心女子大学を推薦されたそうで、
聖心に行きました。

いつも娘さんの話をしてくれて私は友人の娘が優秀なのが嬉しくて喜んで聞いておりました。
いつも話題は教育費が莫大で大変だと言っていました。
私なんか学校は公立しか考えていませんでしたので遠い話でしたね、

ところが人生何が幸いするか判りません。
私の娘は私の娘ですから優秀ではなくて短大に行きました。
おかげで後で振り返るとその就職期はバブル真っ最中でした。
より取りみどりでした。
娘の同級生は一流銀行に書類を貰いに行ったら「内定出すから今すぐ決めなさい」と言われて、じゃあお願いしますと決めてきたそうです。
就活はたった一回!

娘に「あんたは運がいいわね」と言いますと、
娘「運も才能のうちよ」と宣います。

私は娘の就職には力を入れて調査しました。
これからは女も職場の花ではなくて生涯働けるところと決めて探しました。
まず女性が永く働けて女性の役職が多い職場と探しましたら、
伊勢丹が一番でした、

その他その年からJR東日本が女性を採用すると発表されましたのでここも受けさせました。

本命は航空会社でしたが、ここはいくらバブルと言えども超競争が激しかったんですが、40倍の競争を突破して希望を叶えました。
伊勢丹も内定を貰いJRは最終まで行きまして当時内定者の囲い込みでパーティに呼ばれたりしておりました。
三社しか受けませんでした。

ところが四大出の就活期はバブルが弾けて超氷河期に突入していて娘さんは何十社と受けて落とされ続けたそうです。
聖心は就職に力を入れていないのよと言っていましたが、親子して心身共に壊れたようです。

そしてやっと決まった先は私も聞いたこともない旅行専門の出版社だったのですが、そこが今で言うブラック企業で娘さんは心身が壊れて間もなく辞めていたのです。
それは後程聞きました。

ある時「娘がね」と話し始めると
彼女「貴女って娘さんがよっぽど自慢なのね、聞きたくないっ」と怖い顔で言い放ちました。
美しい顔が夜叉の様でした。

その時初めて彼女が永年私の上に位置する関係が当たり前で下に位置することは屈辱だって気がついたんです。
私はだからって友情を断つことは考えませんでした。
彼女は私のかけがえのない親友だったからです。
その後お互い娘の話題はしませんでした。

そして彼女が亡くなった時、私は不謹慎ですが、
勝った!と思ったのです。

今思うと彼女とは護国愛国の話題をしていたのです。
いつも逢うと今の日本はおかしいよねと心を痛めておりました。
もし彼女が生きていれば一緒に護国活動しているかしらと思います。

インプラント治療②(追記あり)


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令和2年8月3日(月) 晴れ

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今日は待ちに待ったインプラント治療を受ける日だった。
10時の予約だったが、治療は10時20分から始まり、終わったのが10時55分だった。
所用時間ピタリ35分である。

始まる前にどのくらい時間が掛かりますかとお聞きしたら、
右の3本が30分位、左は2本だからもう少し短いでしょうと言われて、先生は時間が掛かって申し訳ありませんねと何度も仰りながら施術なさった。

カフェナベのマスターも他のクリニックでやるので、両方5本も一気にやるなんて信じられない。
何時間も口を開けていられますかと散々脅かされていたので多少不安だった。
口角を広げる器具もありますが、それをやると疲れますから使いませんと仰って手で広げながら施術されたので疲れませんでした。

私の一番不安なことは唾や痰を誤嚥するのではないかと言うこと、
鼻から息をしてくださいと言われたので必死に鼻から呼吸をしていたので誤嚥もなく無事に終わった。

私は極度の緊張型なので局部麻酔で大丈夫でしょうか、出来たら全身麻酔で寝ているうちにやって貰いたいと思いましたけどね。
以前やった同志は全身麻酔をしてものすごく腫れて数日大変だったと言っていましたがたけどね、
でも歯を抜くくらいの(時間が少し長いが)負担だった。

帰宅後化膿止めの薬と痛み止めを飲んでいたせいか、痛くも痒くもない、腫れ止めの薬は明日から飲むことになっているが今現在どうもありません。
娘も以前やった時はすごく腫れたと言っていました。

そんなわけで危機感ありません。
一次手術料1,100,000円也払って来ました。

その後すぐに何事も無く帰宅途中新宿で下車してヨドバシで所用を果たしてきましたよ。

2,3日アルコールは駄目だけど麻酔が覚めたら食事は普通にしていいと言われたので、早速婿さんが魚屋居酒屋で飲食しようと言って来たので例の居酒屋に行って楽しい食事をしましたよ、
危機感ないっ!

ここで嚥下をなぜ怖いと思っているかを書きます。
私は50代の頃高校の同級生とよく会食をしていました、
ある時非常に咽たのです、私は落ち着きがない食べ方するのでよく咽るのよと言いましら、
その友言いました、それは老人性嚥下障害なのよと。
まさか老人性だなんてと憤然としましたよ。

それから年に数回大抵空気か水で咽ます。
その時の苦しさはこれぞ誤嚥性肺炎で死ぬ時の苦しみなのかと思うほどの苦しさです。
異物を吐き出そうとする力がものすごくて全身に何百本の針が突き刺さるような痛さです。

先日も寝る前にその症状が襲撃しました、筋肉ががちがちに硬直するのかもしれませんが、両腕に痛さが残り、眠れませんでした。
そして朝までその痛さは残っていました。

丁度その日は循環器クリニックに行く日だったので主治医に其の症状を訴えましたが、そんな症状は聞いたことも無いと仰いました。
わたしだけの特異な症状でしょうかね、
83歳!心してゆったり行動し階段の昇降、誤嚥しないように気を付けて暮らそう。

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お通し 3人だから3種来ます、量も多い
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一人前
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ポテサラ どかっ!
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蒸し穴子 旨い
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これぞ憧れのTKG(卵かけご飯)なるものぞ!
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卵かけご飯を食べる時誰かいると必ず吐くお言葉あり!
子供の頃、夕方母ちゃんに必ず聞く言葉がありました、
「母ちゃん今夜のおかずはなんね!」
「卵かけご飯たい!」
「わーい嬉しか~」
当時卵は貴重でした、だから二人に一個です、よく混ぜないと不公平になるので必死にまぜましたよ。

数年前に市原悦子が卵かけご飯を御馳走する場面で呟いていました。卵かけご飯の時はよく混ぜないといけないのよと
その他こんなことを言っていた方もいました、うちは大家族だったので大どんぶりで何個か混ぜてご飯に配給していたのよと
わたしと卵かけご飯を食べると必ず聞かされますよ。

卵と言えば貴重品で10個入れのもみ殻の入った箱に入れて病気見舞いに使われていました。

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今日も佳き日だった!!


90歳の新人女流作家(過去記事)


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令和2年7月17日(金) 曇り時々雨


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久木綾子さん


14日の産経新聞の訃報欄で作家の久木綾子さんの訃報を知った。
その時は記憶にあるなと思っていたんですが今日の産経抄を読んで鮮明に思い出しました。

11年前の平成21年9月22日のブログに書いていますが、
近隣区の委託で介護認定調査に伺ったんです。
その時の様子を書いている過去記事を見つけましたので
掲載します。

過去記事
21/9/22 (火)国民の休日(何の記念日ですか) 晴れ
昨日は祭日だったが介護職に祭日は関係ないので介護の仕事をする。
午前介護の仕事、午後2時から認定調査の仕事をした。
 
今回の調査対象者は90歳の1人暮らしの女性。
予約電話を入れている時から人懐っこい方だと思ったが、私の来訪をとても待ち望んでいらしたようで
「貴女が来たらお茶しようと思って羊羹を切って待っていたのよ」と仰る。

歩行が多少ご不便のようだが頭脳明晰、人好きで溢れるほどの会話が弾んだ。4月に転倒して大腿骨損傷で入院するまでは介護保険などのお世話になろうとはつゆほども思わなかったが主治医の勧めで介護認定を受けたそうです。

今は頭脳明晰だし、歩行も多少は不便だけど自立生活は出来る方なので、介護度は落ちるかも知れないと私は密かに危惧したが、ご本人もそれは覚悟していて、そうなればまだまだ自立しなさいと
言う天の声だと思いますと仰る。

よく転倒なさるようだけど膝が悪いせいだそうで、膝が悪くなった原因は取材の為に山奥の修験道を歩き回ってこき使ったせいだそうです。
!取材!
もう17年間も取材を続けて今それを基に歴史小説を書き続けて
いらっしゃるそうです。
時代は室町時代の寺社建築の棟梁達の話らしい。
「時代小説ですか」とお聞きしたら時代小説は娯楽小説です。
私のは歴史を検証した歴史小説ですと仰いました。

もう何冊か出版されていて最近のご本を見せて頂きましたが
2,400円もするハードカバーの立派な本でした。
14,000部ほど売れているそうです。
「こんな地味な本をよく買って下さる方がいるものですね」と
仰います。

昔から同人誌などには書いていらしたそうですが、17年間も取材を重ねてこれを畢生の仕事として毎日パソコンに向かっているそうです。
そう、執筆する為に80歳の時にパソコン教室に通い習ったそうです。

書評欄などでは90歳の新人と言われているそうです。
人が好きで、1人息子のお嫁さん(後記:外人さん)とも仲良く、マンションの理事会役員もなさってマンション住民とも良い関係を持ち、充足して暮らしているそうです。

私本当に感銘しました。もう二度と会う事は無いでしょうが、
一期一会と思いました。この仕事の醍醐味です。

後記:当時、渋谷の紀伊国屋書店に見に行きましたら、一番目立つところに平積みで並んでいました)

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過去記事

プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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