おてんば87歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

小澤征爾さんはデビュー前から知っていた!


令和6年2月10日(土)晴れ

ozawa

世界的指揮者、
小澤征爾さんが亡くなられたとネットや
産経の一面に大きく掲載されています。

小澤征爾氏と私は何の面識も所縁もありませんが
ちょっとしたエピソードがあります。
私が上京したのは昭和35年8月3日でしたが、
その数年後に当時文化放送局に務めていた知り合いに誘われて
フジテレビと文化放送共催のパーテイに出席したことが
あります。

その時彼が欧州から修行を終えて帰国したばかりだと
大々的に紹介されました。
当時の文化放送かフジテレビの社長令嬢の婚約者だと
知り合いが囁きました。

多分両局がスポンサーだったと思う。
当時1ドル360円の時代ですから並みの日本人には海外留学は
至難だったと思う。

当時流行り始めのバックパッカーの格好して颯爽と現れたのは
貧弱な青年でした。

今ネットで検索すると
私生活では1962年に、三井不動産の社長令嬢でピアニスト・江戸京子さん(今年1月23日死去 享年86)と結婚するもわずか4年で離婚、1968年に日本とロシアのハーフでモデル・デザイナーの入江美樹さん(79)と再婚し、とありますが、その時確かに文化放送かフジテレビの社長令嬢の婚約者だと司会者も紹介されたと記憶しています。

奥さんの入江美樹さんはハーフモデルの出始めでとても美人で人気がありました。結婚するとすっぱりモデルを辞められたようです。
ご冥福をお祈り申しあげます。

004
酢、砂糖、昆布、唐辛子を入れてみりんを足して、味を調える
001
お昼
006
今夜の夕食、カレー、残り物、ビール、
東京都の茹で野菜に豚肉入れて
2人分のカレーをあんちょこに作った。
少しずつ残す。
008
1パック2人前のカレールー


私、戦後教育の体験を語れる最後の世代かもしれない(追記)


令和6年1月26日(金)晴れ 


010
014
今日は満月、公園では西の空の樹の向こうに見える
022
我が家の満月、行く前暗いうちに撮ればよかったな
030
025

asa
049
真っ赤な夕焼け

今日は午後から下記の勉強会に出席した。

ハナミズキ
034
038
035
042


水間先生は前にもハナミズキで講演されたが
あまり印象に残ってない。
今回は主催者から動画を撮ってくれとの依頼があったし、
演題にも興味があった。

私は日本語について知りたいことが沢山あるし、
終戦直後の混乱した教育を受けているので猶更である。

例えば戦後教科書を墨で塗りつぶしたことが話題になるが、
私の経験では、戦前の教科書を全て悪として教育するには
教科書が間に合わない、
それで教師用に配布されたガリ版刷りのページを教師が黒板に書き
それを私達が書き写して教科書として使ったことが強烈に
思い出される。
今常識のコピーなんてものはなかった。

もう一つ忘れられないのはなぜか家に持ち帰って書き写しなさいと言うのもあった。
家で母が書いてくれた、
その書き写しに間違いがあって先生に指摘されたので
つい正直にこれは「かあちゃんが書いたので私は知らない」と
言い訳したら先生に叱られました。

先生の話はとても私の興味に合致しました。
事前に配布されたレジメが更に興味を惹かれました。
皆さんにも読んでもらいたいなと思い、これを私のブログで
紹介したいと思いますがよろしいかと聞き、
更に原稿を送ってくださるそうなのでちょっと長いですけど、
興味のある方は読んで下さいね。

今動画を編集していますので後程掲載します。

帰宅したら娘が来ておりましてテレビを見ておりましたが、
最近電話もしないで留守中に来ます。
何しに来たんだろう、そうだパンを持ち帰ったわ。

051
今夜の夕食、しつこく残り物、卵投入、まだあるけどどうしよう、
おじやにするかな、

今日の歩数は8229歩


講(追記あり)


令和6年1月18日(木)晴れ

戦前の両親

IMG_20240118_0001
IMG_20240118_0002


ふと思い出した言葉、
「講」

戦後気が付いたら周りの大人が講の話をするようになっていた、
講とは尽(むじん)とも言われ庶民の金融形態のようであった。
「尽(むじん)とは、日本の金融の一形態である。複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、一定または変動した金品を定期または不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって、金品・物品の給付を受けるものである」

明治10年(1877)生まれの祖父は元々炭坑で働いていたと思いますが、戦後私が目覚めた頃は60代ですから引退していて講元をやっていたようです、金貸しもかねていたようだ、

私の知る処では10人位のグループを作り、毎月集まり一定額を収めます、そしてどうしても金の必要な人が競り合って一番利息を高く申し出た人がその月の全集金を借ります。多分その利息は最後まで同じで最後まで借りない人が儲かる仕組みです。

祖父はメインストリート(田舎だから本通りと言っていた)
いつも通る道の米屋の座敷の火鉢の傍に陣取っていた。
現在だったら家族は迷惑だと思うが、どんな権利で他人の店の
上がり框に陣取っていたのだろうか。

父の上に姉が二人いてそれぞれ家庭持ちだったが、
近所に住んでいた下の伯母は私をとても可愛がってくれたので
入り浸っていました。

明治41年生まれの伯母は子供に恵まれず養女を育てましたが、
当時は看護婦になって療養所で働いていました。

ところが多分伯母40代の頃だと思いますが
実子が次々と3人生まれました。
伯父さんはとても穏やかな良い人でしたが、
なんと3人の幼子を残して病没したのです。

伯母さんは無学文盲でした。
当時それが普通だったか祖父の思想だったかしりませんが、
読み書き一切出来ませんでした。

ちなみに我が母校武雄高校は明治41年に高等女学校として創立しています(明治41年3月. 武雄町外七か村学校組合立武雄高等女学校として設立)男子教育の旧制中学校より女子教育を先にした先見の明、旧制武雄中学の創立は女学校より遅れる事20年後昭和3年(1928)

伯母さん以外に読み書きのできない大人は知りません。


伯父さんの死は公傷ではありません。
福祉の充実していなかった当時伯母さんは無学文盲でどうやって
三人の子供を育てたのでしょうか、
他の兄弟は自身の生活で精一杯だったと思う。

祖父は自分がやっていた講元の仕事(と言うか)を娘に譲り、
それで生活できるようにしました。
しかし伯母は無学文盲です。私は今だ利息計算が出来ませんが(必要もないし)どうやって講元、金貸しをやって子供3人育てたのでしょうか、社宅(鉱員住宅は納屋といった)を出て8畳一間に暮らしていました。3人の子供を当時としては偉かった高校までやりました。私は伯母さんのうちに入り浸っていましたが、その辺の苦労話などは一切聞いておりません。

看護婦をしている娘に折々の着物を買っておりました、
そして義妹(私の母)の至らなさをなじっておりました。
「お前のかかさんは娘に着物一枚も買ってやらないのか」と
母は自由になる金は持たされていませんでした。
今では考えられない女の地位です。
私の女の一生は現在が一番幸せです。

いつの頃から講の話が消えたのだろうか。




クジラ肉


令和6年1月10日(水)晴れ

001

003

森永牛乳の通販で注文したクジラ肉が届いた。3890円
鯨肉と言えば私の育ち盛りは毎日のように
クジラ肉が夕食に出ました。
鯨の刺身は安くて美味しくて家族みんなが好きでした。

戦後20年代日本全国でクジラ肉が食べられていたんだと思って
いましたが、そうではなくて九州だけだったようです。
上京してから周りを見渡せばクジラ肉は食べられていないし、
周りの人々に聞いてもクジラ肉は食べたことが無いと言う人が
多かった。

当時は冷凍物流がいまだ発達してなかったので上陸地に近い土地でだけしか消費されていなかったんでしょうね。
なぜ港の或る一大消費地の東京や大阪で鯨食が盛んではなかったんだろうか。
冷凍物流革命が起きた年は何年だったんだろう、
新聞にそんな記事が載っていたのを覚えています。
これからは遠隔地の産品が全国くまなく食べられますと
喧伝していました。

捕鯨もそろそろ禁じられる前頃、高校の同窓生が捕鯨会社の極洋に務めていた方がいます。
捕鯨船が千葉の港に着岸しますので新鮮なクジラ肉を腹一杯食べさせてあげますから是非船まで来て下さいと言われたことがあります。つい面倒で行かなかったけど、

どうして戦後食糧難の時に千葉に荷揚げしなかったんだろうと
思いました。

私は20代始めに結核を患い6か月入院して
その後自宅療養していました。
父が私を黴菌の様に嫌い家族と接触させない様にしていました。
だから食事は個食していました。市場から20円分の鯨肉を買って
きて中皿山もり一杯、トマトを中皿山もり一杯で食べていました。
それがとても印象に残っています。

我が町の炭鉱経営の市場は景気の良い一大消費地で
クジラ肉は各部位が揃っていました。
その中で一番高価だった天然の腸詰の様な部位は高いので一度も
食べさせてもらえませんでした。
食べたこと無いので何とも言えませんが多分鯨が餌を丸のみした
未消化の内容物が入ってる胃だったと思う。内容物は多分当時
「アミ」と言っていた集団で生息している海老の仲間だったかと
思う。

冷凍物流と言えば昔はその土地でしか食べられないものが
沢山ありましたね。
上京して福島出身の方が我が町では秋刀魚は生(刺身)で食べると言っていましたので東京でも食べられないのでおどろきましたし、
九州では秋刀魚は塩焼きでしか食べられませんでした。

九州で寿司屋にはいり「マグロ」握って下さいと言ったら、
九州では「ブリ」しか握れません、博多までは何とか生で食べられる物流がありますが佐世保では無理ですねと言われました。
博多からワンクッションありますから鮮度が落ちるんですと
ワンクッションなんて新しい言葉を知りました。

正月と言えば各家で大きいぶりを一匹買いして台所に
吊るして、その都度切って調理していました。
冷蔵庫も暖房もない寒い時代でした。

或る年の暮れ九州に車で帰る時日本で一番長い岬、四国の佐多岬の先端まで行きましたが、途中の漁港に下ると(すべて下る)どの漁港でもブリを正月用に準備していました。1匹でかいのを買いました。

昨日即作ったチラシ今日OKが出ました。
今朝印刷所に送信しました。
依頼者えらく気に入ってくれて喜んでくれました。
明日掲載します。

今日は午後3時予約でMRI撮影するクリニックに行きました。
午前中に電話したら今日でもいいですよと言われたので
即行きました。
しかしペースメーカー装着しているので当院では対処できないのでとあれこれ交渉してCT撮影になりました。
ペースメーカーしているといろいろ支障があります。

1時間程で終わり、新宿西口に出て京王の上階のレストラン街で
夕食食べました。お気に入りの清月堂で蟹雑炊を食しました。
味が良くて満足です。
完食したら苦しい。
010

京王上階で有名駅弁と旨い物大会と言う催しをやっていて賑って
いました、実演していた饅頭をつい買ってしまいました。
饅頭はつい手が出ます。

008
2585円、ここビールが高い。
00gaisyutu

今日の歩数は5694歩


無声映画を観た最後の世代(追記あり)


20210212_2146938ki-tonn

u009486キートンの蒸気船

キートンの蒸気船 1928

喜劇王バスター・キートンの名はなぜか知っていましたが、
どんな顔したどんな役者かは知りませんでした。
この映画は95年前に作られた無声映画です。
無声映画の終わり頃らしい。

さてこの映画は無声映画ですが、字幕も無くなんの説明もありませんが大仰な喜劇動作ですから意味は解ります。
やっぱり95年前と同じ笑わせ処では笑ってしまいます。
客は高齢者7名でした。

我が町大町は大手炭坑の城下町でしたから、サーカスも出来る
大劇場と大映画館を経営して安い料金で確か30円位だったと
思う、毎日2回上映していました。
演目は2日毎に代わります。

この映画館では文化の日には文化的な催しがありました。
或る年、火野葦平を頂点とした九州文壇の重鎮だった作家(名は不明これから調べる)を呼びました
私は大人の新聞を愛読していたのでこの作家の事はよく知っていて
興味を持って参加しました。
ところが聴衆はつまらないを表に出してざわざわと騒ぎました。
私は作家に対して気の毒でなりませんでした。
主催者と聴衆の乖離は月とスッポン位の距離でしたね。
以前は大衆受けの演歌みたいなのを呼んでいましたので、
聴衆にすれば期待外れだったんでしょうね。
私が講演会と言うものに参加した初めての経験でした。

私が物心付いた頃はトーキーが主流でしたが、
この映画館は無声映画時代に作られたと思われ、
二階席の右側の前の方に一人分の箱がせり出していました。
この箱の中に弁士が立ち熱弁を奮っていました。
私も何度か見たことがあります。
当時は活弁の仕事は廃れつつあったと思いますが、
まだ弁士は健在でした。
最後まで活躍したのは徳川夢声した。
この方は語りが旨くてテレビ向きだったと思います。

この映画館で爆弾三勇士のお母さんが働いていらっしゃいました。
母が密かに指さしてあの人が爆弾三勇士のお母さんだよと教えて
呉れました。
爆弾三勇士 - Wikipedia

ついでに言うとこの映画館では悲劇もありました。
大きな映画館ですから便所も二階にもあり、上下同じ位置にあり、
落下物は下の大きなプールの様な溜まり場に溜ります。
下の階の方が用を足している時にドスンと落ちてきたものがありました、なんと胎児でした。このニュースは町中で話題になりました。
IMG_20231113_0001
映画






プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

最新コメント
記事検索
読者登録
LINE読者登録QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリー
タグ絞り込み検索
  • ライブドアブログ