おてんば85歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

宗教(似非)と献金問題


国葬賛成

安倍元総理が銃撃されて以来マスコミは旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の献金問題を大報道していますが、
どこも黙して語りませんが創価学会にも同じ問題があります。

私は上京して(昭和35年8月)間もなく高校の同級生に
無理やり折伏されました。
父親が外国航路の機関長だった親友は当時横浜に住んでいて
その母親と一緒にある寒い冬の日に突然押しかけて来て
朝から晩まで渋る私を強引に説得しました。

高校時代彼女の家にはお父さんが世界中を巡った珍しい写真や物がありましたので外国に憧れていた私は学校帰りに彼女の家にお邪魔してそのお母さんに歓待されていましたのでむげに断れなかったのです。
確かその前年に池田大作が会長に就任して大躍進していた時期だったと思う。

確かに上京して貧しい底辺の暮らしでしたので寄る辺はありませんでしたのでどこかに頼る気持ちもありました。
以来つかず離れずの学会員をかなり長く続けておりました。

入信した頃富士の大石寺に正本堂を建設するために学会員に寄付を強要しておりました。正本堂 (大石寺) - Wikipedia
私は入信する時に友にしつこく宗教は金をむしり取る仕組みだろうと何度も確かめましたので友は寄付しろとは言えなかったようです。 そして貯金箱を持って来てこれに5円10円でいいから毎日入れたらと言いました。

寄付を持ち寄る日にその当時は縦線、横線と言う組織図がありましたので彼女繋がりの縦線の横須賀迄行きました。
正直に5円10円を溜めた数百円(500円以内)を持って行きました。
横須賀迄の運賃より少なかった。

彼女はいくらしたのと聞きましたら、彼女は出来るだけ沢山寄付するために朝牛乳配達していると白状しました、
数万円したそうです。
私は何か騙されたような屈辱感に襲われました。

私は入信したばかりなので知らなかったと思うんですが、
これを集める為に組織をあげてかなり強引な勧誘があったと
思います。

その後財務と言う強制的な寄付が毎年秋になると鳴り物入りで
集められました。
座談会に行く度に体験談として功徳を頂くためにこれこれこうして お金を溜めているとか、こんな功徳を頂いたとか語っていました。

其の寄付は最低1万円でしたので
私はいつも最低を寄付していました。
私は無理して高額の献金をしてまで功徳を頂こうとは
思っていませんでした。
福徳は自分で努力して獲得するものだと信じていましたからね。

ところで義母も入信しておりました。
熱心ではありませんが真面目なので毎日お経をあげて
座談会に誘われれば出席していました。
義母の処にため口が同じ学会員として訪問していましたので
知り合いました。

義母!この財務の事で小さな体で戦っておりましたよ。
「私はわずかな年金で暮らしているんだ、たった1万円と言えども
私には大金だ、どうしてこんな貧しい老人から迄むしり取るんだ」と
抗議していましたね。
そうしたらやっぱり幹部が貯金箱を持ってきましたよ。

組織や幹部にはノルマがあったようです。
沢山集めると表彰される様でした。
それは彼らにとっては名誉だったと思う。

そしてその総額は数千億円だったと思いますが、
末端の会員にはその総額は知らされませんでした。
どんな組織でも金を集めたら会計報告と言うものがあると
思うのですが、学会にはそんな常識はありませんでした。

その他に新聞の拡販が強引で気の弱い学会員は一人で何部も
とっていましたし、
潤沢な無税の金がだぶだぶあるので大事にはされなかったようで、学会の会館から出たごみの中に多額のお金入りの袋が捨てられて
集積場で発見され大問題になったこともありましたね。
横浜捨て金庫事件 - Wikipedia

選挙がこれが又すごかった、遠くの親戚が都知事の選挙の為に上京してきて説得しますし、組織をあげて選挙活動しますから、
ノンポリが大半の一般人は負けますね。

選挙になると俄かに愛想よくなる幹部もいました、
脱会してからある幹部とすれ違いましたが、
わざわざあと戻って来て選挙を頼みます。
嫌味な私は「貴女は選挙になると目が見えるようですね、普段は
すれ違っても挨拶もして頂けないので目が見えないのかと思っていましたよ」と言ってあげました。

その後学会と大石寺との喧嘩になり、座談会では大石寺やその僧侶の悪行と言うものを穿り出し口汚く罵り、聖教新聞には毎日毎日これが宗教人のする事かと言う記事が溢れ、座談会に行けば時の総理を田中が田中がと呼び捨てにする姿にとても違和感を覚え脱会を決意しました。
  
普通脱会を申し出ても幹部が入れ替わりに来て説得するものですが私は多分あいつは絶対に変わらない奴だと思われていたと思いますのですんなりと認めてくれました。
正本堂
正本堂
破壊される正本堂
破壊される正本堂





語り部になるっ!


令和4年9月12日(月)晴れ

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午前5時48分の月 西北の空に居ますから夜は見えません
一晩掛かって天空を西に向かうのでしょう。

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今朝は4個ゲット、高い所にありましたが、
石段の上に登って取りましたよ、85歳の老婆のする事じゃ
ありませんね。
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先日のチャンプル―は肉が少ないと娘文句を言いましたので
これで肉たっぷりのチャンプルーをやろうと思っていたら、
留守中に来て大きいのを5個持ち去っていました。
泥棒の上前はねる奴

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今朝は7輪 明日は10輪以上咲くみたい

今日は11時予約のインプラントクリニックに行く。
過日うっかりドタキャンしたのでこちらから電話して
予約取りました。

今日は院長の顔は一度も見ず、サブの若い先生と
ベテランらしい女医さんが下左の歯の根を顕微鏡(?)を
覗きながら治療されました。
2時間近く掛かりました。
その間30分以上口を開けた状態を強いられました。
そんなに長く口を開けた状態は今までなかったと思う。

今日は美味しいバーガーを食べたい気分だった。
1時過ぎていたので空いているだろうと思いきや、
最寄り店でなんと行列していて30分程並びました。
5人の店員さんが効率よく動いて器械的にさばきます。
私がもう少し若くてもしここでパートで働くとしたら
多分一日で首だわ。
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今日の御昼、マクドナルドのビックマックとコーラ
一気に食べたわ。400円

コーラと言えば以前も書いた記憶がありますが、
私が高校卒業して佐世保で暮らしていた時代、
昭和35年以前の頃です。喫茶店に入りましたら、
メニューにコーラと言うのがありました。
知りたがり屋で知らないことがあることが許せない
私も始めて聞く飲み物でした。

コーラって何?と聞きましたら、アメリカ人の好きな炭酸飲料で
薬のような味で旨くないですよ、日本人は飲めません、
よくこんなものをアメリカ人は飲むもんだと言います。

それを聞いたらがぜん飲まなきゃと注文しましたよ。
飲んだ!
不味い!
これのどこが旨いのよと思いました、
全部飲めなかったような気がします。
当時まだ日本では売り出していませんでした、
多分米軍基地のPXから横流しされたものだったのでしょう。
その後昭和35年8月に上京しましたら、コーラは覚えていませんが
系列のファンタが大々的にコマーシャルしていました。

バーガー食べてから、30分だけ家に寄り、3時から予約のドコモに
行きました、スマホ疑問点を箇条書きして一つ一つ質問しました。
若い男性が親切に応対してくれました。
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写真撮ると必ず動画が撮れる件で質問した時に
試しに撮った写真です。

85歳って語り部の資格十分だと最近思うようになりました。
これから些細な事でも体験したことを語ろうと思います。

先ほど男性同志と話していて、思った事はその方
私より多分一回り位歳下だと思いますが、
バブルの情景をはっきりとは体験していないそうです。

私は戦後の経済の動きを身をもって体験しています。
欠乏の戦中、戦後不景気だった頃、復興時代、天岩戸景気から
右肩上がりの上昇、バブルの頃、バブルが弾けた頃をまざまざと
見聞きしてきました。誰でも体験しているだろうと
思っていましたがそうでもない過去の事象になっています。
私が語らなくてどうすると思いましたよ。

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今夜の夕食、茗荷とベーコンの炒め、茗荷の味噌汁
南瓜煮、トマト、コロッケ(1個)胡瓜酢漬け、ビール

ベーコン炒めは多分私のオリジナルだと思うけど、
これがご飯に乗せて食べると絶品なの、
娘はさんごママ家の出だけあって、料理は母親譲りですね、
家にいたときは殆ど料理はしませんでしたが、我が家で食べた料理を再現しているみたいです、先日6号通りの八百屋で一山幾らの茗荷を見付けたので買ったら、娘も同じ店で買ってベーコンも買って来たわと言います。
今夜はカレーにするわと言うとうちもヨと言う事が度々あります。
以心伝心ですね。

9471歩


先達の話は聞いておくべきだ、直ぐに時は流れる


令和4年9月4日(日)曇り後晴れ

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大分前から子供エリアを改造工事している。そろそろ完成しそうだ。
公園の南西角はフェンスだったがここを入口にするようだ、
私的には一番の近道になる。
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随分沢山の鳩がいるなと思ひ撮ってみたが
写真をズームにして見ると真ん中にパン屑が撒かれている、
奥のベンチにいる3人が撒いたのかな。
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ベンチに残飯の残骸が放置してある、数歩歩けばゴミ箱があるのにどうしてこんなことが出来るのだろうか、頭かち割ってその中身を見てみたい。
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今朝は14輪
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今時珍しい物が落ちていた、つげの櫛、
つげの櫛と言えば思い出すことがある、

終戦後間もなくの頃
子供達の身体から頭までシラミが蔓延していました。
頭は新聞紙を敷いた上で毛髪を柘植の櫛で梳くとパラパラパラと
シラミが沢山落ちてきました。
柘植の櫛は目が細かいのです。
衣服は熱湯で煮沸しました、
パンツのゴムの縫い目に潜んでいました。
学校で定期的にDDTを頭から身体迄振りかけられました。

私は両親が健在でしたのでそんなに不潔にはしていませんでしたが、近所に母親のいない子がいて、いつまでもシラミがたかって
いましたので休み時間にその子を取り囲んでシラミ取りをして
あげていました。取ったシラミはその子が爪で潰す役目でした。


今日は日本書紀の勉強会に茗荷谷迄行く。
今日勉強したのは巻第二十七天智天皇即位前期。
白村江の戦いの巻が詳細に述べられている。
日本書紀って日付からあらゆることが書き残されていますね、
全て手書きの時代にこんなに詳細に書き残すのは困難だった
と思う。
日本人だったら誰でも勉強すべきだと思うな。

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今夜の夕食、大塚駅の駅ビルでステーキ弁当と
たい焼きを買う。
水分がビールだけじゃ
喉が詰まる。
今日の歩数は6757歩
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娘宅に又北海道富良野産の玉蜀黍が沢山贈られて来た
そうです。お隣さんにも分けてあげました。
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早速娘宛に報告されました。

関東大震災の記事を書く時は書こうと思っていたことを
書きます。
もう実際に経験した人の話は聞けませんね。

義母は明治42年生まれです。
義母の実家は下町深川門前仲町にありました。
魚屋でした、魚屋と言っても店舗を構えている魚屋では無くて
ボテフリの魚屋です。
ボテフリがわからない人はシニアには居ませんよね。

女ばかりの5人姉妹の長女でした、父ちゃんはぼてふりだから
いつ帰って来るかわからない、飲んで帰って来る事も度々
あったそうです。だから貧しい家だった様です。

小学校を出ると山の手のお屋敷に女中奉公に出されました。
その頃あの関東大震災が起こったのです。

深川の実家も消失しました。
焼け跡に掘っ建て小屋を建てて住んでいたそうです。
畳なんかありません。
義母は月に一度の休みに帰った時
畳を1枚づつ買ってあげたそうです。

母親がとても喜んで絹は親孝行な娘だ娘を産んで
おいて良かったと何度も喜んでくれたそうです。
義母はいつもそれを語って自慢していました。
何枚買ってあげたのかは語りませんでしたね。

私の父も明治42年生まれ、母は大正4年生まれですが、
二人とも九州に住んでいたので何の影響も無かった様です。
大震災は噂で聞いただけの様です。








「深い反省」はいつまでしてればいいの!


 日経
日本経済新聞夕刊一面記事

8月15日と言えば愛国者とあいまみえるようになった頃から
いつも靖国神社に馳せ参じていた。
チラシ配ったり、署名活動したり、反天連の行進を迎え撃ったりして微力ながら保守活動に邁進していました。

大分前からもうお前の出番じゃないよと己の内なる声に従って
家籠りするようになりました。
自分の面倒を見るのが精一杯ですからね。

ところで昭和20年8月15日の事は鮮明に覚えています。
母のおばさんの家は農家で、おばさん夫婦は家に来た町の親戚には腹一杯食べさせて帰りには子供の背中にまで食料を背負わせてくれました、行商の人にまで食べさせていたそうです。

母の弟達は5人いましたが4人は出征して戦地におり、
一番下の弟は予科練に入っていました、
終戦前に母の両親は相次いで亡くなりましたが、葬式、法事は
みなそのおばさんの家で執り行って下さっていました。

そして母の実家は佐世保にありましたが、空襲で焼け落ち叔父さん達は無事に戦地から帰還しても帰る実家がありませんでした。
みなそのおばさんの家に一時寄寓して身の振り方を探していました。

15日は丁度お盆の法事に家族で参加していました。
たぶん母の両親のどちらかの法事だったと思います。
当時父はサラリーマンでしたが、おばさん宅の法事には何をおいても一家で参加していました。腹一杯食べられて帰りには食料を持たせてくれるんですから、当時としては何をおいても馳せ参じます。
家から4里の道を歩いて行きました。

多分お昼頃に到着しましたら、皆沈痛な面持ちでした。
ラジオで天皇陛下が戦争に負けたと仰ったと口々に言っておりました。ラジオ放送での天皇のお言葉の意味がわからなかったと言う話を聞きますが、そんな田舎の人達は日本は負けたと理解したのです。
そして口々に「これじゃ戦死したもんは浮かばれん」と
言っていました。
私の記憶はそこまでです。




我が町はスラム街か!

令和4年7月11日(月)晴れ

先日出してあった「ご自由にどうぞ」出品が
あらかた無くなっている。
悪いけど、あんまり欲しくなるような出品ではなかった。
けど捌ける、それで昔言われたことを思い出しました。

昔なんだけど幡ヶ谷で工場を経営していた時同じビルの
昔からやっていた八百屋さんのお言葉!
この八百屋さんは配達を主にしていて配達区域は一応高級住宅地と言われた西原、上原方面と庶民の町、〇町方面だった。
「あっち(高級)とこっち(〇町)じゃ買う品や量が全然違うよ、こっちは(我が町方面を指さして)昔はスラム街だと言ってたんだよ」
そっか!やっぱり我が町は庶民(と言っておく)の住む街なんだわ。
さて今度は何を出そうかな、衣類も捌けるかな、

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もうちょっと整理して出せばいいのにね
黒い帽子とサンバイザみたい、黒い物体は何だ!
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今日の夕方
「かづきれいこの本」貰いっ!
昔、高校時代の家柄もよく頭もよくて
超美人の親友が「かづきれいこ」にスカウトされてメンバーに
なって手伝っていたことがある、
生まれつき美人だからメイクの良しあしは関係ないのよね、
62歳で乳がんから脳に回って壮絶な最後だった。
その時はじめて不謹慎だけと彼女に「勝った」と思ったわ。
(前にも書いたと思うけど彼女は高卒後ミスユニバースの県代表に選ばれた、当時(昭和30年代)他の県は知らないが佐賀県では県知事が若い女性の多い組織に美女を推薦してくれと依頼していたそうだ、だから良家の美女が選ばれていたのだ、私は高校時代彼女は当時イタリア映画界で活躍していたピア・アンジェリによく似ていると思っていました)
かずき本

親友とは月に一度位、京王プラザホテルの樹林で
お茶、食事しながら国の現在、行く末を案ずる話をしていた、
多分50代前半の頃だった、
私が護国に目覚めたのはその頃だったと思う。
彼女に亡くなられて護国の話が出来る人が居なくなり、
とてもさみしかった。其の頃は日本人はバブルに踊って浮かれて
いた、国を憂いていた人は私の周りには皆無だった。


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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