おてんば84歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

シニアナビ過去記事(736)「私の好きな場所」


 [736] 私の好きな場所 2008.11.15  23:49:04   
20/11/15(土)どんより 一時小雨

736_picture
今日の新宿(屋上から)
他に写真をイザに掲載しています
http:// 3515.iza.ne.jp/ blog/ entry/ 797317/



昨日の事であった。

私はマンションの最上階に住んでいるが、
エレベーターを待っていたらぎゅう詰めの箱が登ってきた。
屋上で撮影する一行らしかった。

その中に「宇崎竜童」さんがいた。

そうなんです、
我がマンション屋上は新宿の摩天楼(チョッとオーバー)が
一望に見渡せるロケーションなんです。
だから時々撮影が行われているし、
何十年も新宿の成長を(ビル街形成)定点撮影している
グループもいるんですよ。

私はこの築40年以上のぼろマンション(チョッと言い過ぎ)が
大好きで終の棲家だと思っています。

今はお陰様で平穏に暮らしていますが、ここに住み着いた頃は
地獄の一丁目で悲惨な暮らしでした。
(後記:当時は家賃18万位で同じ位置の少し下階でした、
当時の経済状態では木賃アパートが分相応でしたが、
娘が難しい年頃でしたのでそんなみじめアパートに住んでいたら、 性格が歪むと思い無理してせめて住まいだけは恥ずかしくない
分不相応な部屋を借りました、
当時その近辺には高いビルは少なくて文字どうり屹立していました、その代り他の生活費は最低に抑え電話も入れていませんでした、 
おかげで娘は我が家が貧乏だとは思っていなかったそうです。   その後バブルの終焉の頃上階を買いました。
息子は大学野球部の寮に関係者に強引にお願いして入れて貰った。
子供二人が大学卒業するまで教育費と莫大な借金返済で
耐えがたきを耐え忍び難きを忍び、
烈風吹きすさぶ尾根道を歩いている心地で過ごしました)
私の家は西向きで遠く富士山が見えます。
この広い景色にどれほど慰められた事でしょう。
この景色を眺めながら
一歩一歩、一日一日明日を信じて頑張ってきました。

私は毎朝起きるとまず西の空を眺めます。
富士山が見えるととても幸せを感じます。
「あぁ、この景色は徳川様でも見ることは出来なかったんだわ~」と 変な比較をして満足していますよ。

親友がまた緊急入院しました。
彼女は「年取るとあちこち故障するのは仕方ないよね」と
言いましたが、本意ではないと思います。
不安です。

今日は目黒に鍼・灸の治療に行って来ました。
今日は灸の治療を主にして頂きました。
先生が『熱くは無いのかね』と仰いましたが、
「熱いけど、効くって気がするから我慢出来る」と言いましたが、
私は鍼灸の痛さ熱さが快感なんですよ。



金持ちになる秘伝を伝授しましょう(追記あり)


令和3年9月20日(月)晴れ富士山見える

一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数

私の旦那はタフで働き者で仕事には妥協しませんでした。
それが私が旦那として選んだ性格でした。
この男と結婚したら生活には困らないだろうと打算でした。
しかし真逆でした。

生粋の江戸っ子でもないのに「宵越しの金は使わない」男でした。
よく働きますがおよそ貯金と言うものをする気は皆無でした。
だから買い物はすべて月賦でした。
当時昭和40年代丸井、緑屋、丸興etc、
新宿だけでも沢山ありましたね、月賦屋。

反対に私は買い物は溜めてから買う主義で常に老後が心配で貯金に励みたかった。唯一車と家はローンを組みましたけどね。
常に先を見ながら人生を歩みました。
今日より明日と!

しかし当時女は男の後から黙って従うのが妻の務めと押し付けられていましたから、葛藤していました。
家庭内離婚状態になったのは我が家が破産してから
強硬に私の理論で人生を歩むことにしたからでした。

常に旦那は面白くなかったんです。
いつもお前は俺の上を行くと言って怒っていましたが、
旦那の理論で人生を歩むと老後は橋の下だと肝に銘じました。

どの年代だったでしょうか、多分40代初めの頃に義兄が言い出して義父の故郷福島の郡山に行こうと誘われました。
義兄一家5人、我が家4人で行きました。
郡山の本家は農家で兄弟が大勢いました。

義父(離婚後戦死)は戦前歯科技工所を経営して裕福だったので
実家や自分の兄弟姉妹に援助していたらしいですが、旦那が赤ちゃんの時に離婚して当時義母側でしたので行き来はありませんでした。
(後記:義父の弟達、甥達が歯科技工所を経営したり講師をしていましたが、それらはすべて義父の元で修行したおかげでした)

郡山では本家の墓をお参りしましたが、大きな墓地には義父の名前は刻まれていませんでした。
後添えがちゃんと供養しているのだろうかと気になりました。
その時結婚して子供が出来たら離婚してはならないと思い知りました。老後不幸になると思いました。

義父の一番下の妹が歓迎してくれました。
製パン業、菓子業、不動産賃貸業を営み裕な暮らしでした。
叔母の旦那さんはもともと和菓子屋さんでしたが、
戦後すぐに学校給食用のパンを製造して先駆者として一手に販路を広げ財を成したそうです、知恵を働かせよく働いたと言っていました。

叔母は私を呼んで金持ちになる方法を伝授すると言って
秘伝を伝授されました。
義姉も一緒だったのに私だけにこっそり伝授してくれました。

甥(旦那)の性格を見抜いてその嫁(私)が苦労しているだろうと  慮ったんだと思います。
これは他の誰にも漏らしてはいけない黙って実行する事と
言われました。
私は素直に従いました。

出社してまず机から入金伝票を出して以下の数字を書きました。
終いには暗記して書けるようになりました。
入金伝票は何十冊になったでしょうかね、
多分商売閉業するまで続けたと思います。
あの伝票の束も捨てたはずはないので
どこかに仕舞っていると思います。
誰にも漏らしてはいけないと言われていましたし、
忘れていましたが、昨日不意に思い出しました。

もう漏らしても影響はないだろう、経済的に困っている方がいれば 伝授してもいいだろうと思いました。
信じる者は救われる!

一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数

一(いち) 十(じゅう)百(ひゃく)千(せん)万(まん)億(おく) 兆(ちょう) 京(けい、きょう) 垓(がい) 杼(じょ)穣(じょう) 溝(こう) 澗(かん)正(せい) 載(さい)極(ごく) 恒河沙(ごうがしゃ)阿僧祇(あそうぎ)那由他(なゆた)不可思議(ふかしぎ) 無量大数(むりょうたいすう)

入金伝票②





六角川


 令和3年8月14日(土)一日中雨

六角川②
住民は鉄道、国道の上の高台に密集して住んでいます
六角川地図
堤が沢山あるでしょう

ほとんどテレビでニュースバラエティはみないんだけど、
同志が私のふるさとの佐賀県大町、武雄の水害の模様を放映して
いますよとお知らせくださったので見てみました。
2年前にも同じような水害で脚光を浴びていましたね。
この辺りの水害はほとんど六角川に原因があります。

六角川は佐賀平野の西の方白石平野を大きく蛇行して有明海に注いでいます。
有明海は干満の差が日本一と言われ6メートルほどだそうです。
満潮の時は上流に向かって29㌔ほど遡上します。
昔アマゾンの川が逆流すると大騒ぎして放映しておりましたが、
そんなもの珍しくも何ともない。

だから有明海の満潮の時に大雨が降ると当然川は溢れます。
有明海は潟土の海で泥水です。
この潟土は大昔阿蘇山が大噴火した時の降灰が堆積した土だ
そうです。
子供の頃はそんな知識は無かったんですが、
母が新聞記事で読んだと言っておりました。

石炭産業盛んなりし頃はこの川を利用して有明海の住之江港まで運んでいたそうですが、私が子供の頃は鉄道で運んでいましたので水運を利用していたか知りません、積み込む場所を港町と呼んでいましたね。

そんなわけでこの川は農業用水にも飲料水にもなりません。
我が町は山の中腹にあったせいか、至る所に堤がありました。
農業用水です、堤と言いますから昔のダムですね。

当時夏になると子供たちは町中にある堤で水遊びしました。
小学校に当時珍しい25メートルプールもありましたが、
何しろ日本一の小学校で多い時は4000人はいましたから
プール一つでは間に合いません。

そして毎年子供が溺れ死にました。
そうすると町中の人がその堤の周りに集まって潜水夫が捜索する
様を眺めました。
母親が半狂乱になって泣き叫びました。
堤の水は谷水ですから冷たいのです。

父は堤で遊んでは駄目だと言っても親の目を盗んで遊ぶだろうからと子供4人を特訓しました。
その特訓はスパルタで深い所に投げ込むんです、必死に戻るとまた投げ込む、私は恐怖でおびえていましたら、お前は隠れて堤に入ることは無いだろうから、いいと放免されました。
お陰で私は泳げなくてコンプレックスを抱いて大人になりました。

我が街はこの六角川に面した平野と山の手にあります。
当時は農家以外はこの山の手に住んでいました。
何しろ一雨来ると六角川が氾濫して国鉄佐世保線、当時貫通道路と言っていた国道34号線は浸かります。
高校時代台風の時は生徒は駅で待機して学校から駅に連絡が来るのを待っていました。
今日は休校だと知らせがあると歓声を上げて喜んでいましたね。
佐賀県南部を流れ有明海に注ぐ川。
長崎県との県境にある神六(じんろく)山(標高447メートル)南斜面に源を発してほぼ東流し、
武雄盆地で支流を集め、白石(しろいし)平野でさらに東流して河口近くで牛津川を合流する。
長さ約45キロ。
河口に広大な干潟を形成している。
河口付近の大潮時の干満差は約6メートルにもなる。

"感潮区域が約29kmの六角川を利用し、水運が発達したが、六角川の水は、塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できない弊害がありました。約400年前には、白石平野における水不足を解決するために、成富兵庫茂安は、三段式堤である永池の堤を造りました。
永池の堤は、上流から水路を引いて、淡水を上・中・下の3段の堤に貯め、その水を平野に送ります。"


・六角川の歴史
蛇行する六角川

六角川は日本でも有数の緩流蛇行河川であり、その河口部は有明海の最奥部に位置しています。
そのため、河口部では干満の差が5~6mに達し、感潮区域は六角川で河口より約29km、
牛津川で約13kmに及びます。この著しい潮汐変動によって潟土を上流に送り込まれ、下流域の白石平野の基盤を造られました。
江戸時代、六角川流域に長崎脇街道が位置したことや感潮区域が長いことを利用し、水運が発達したため以前より宿場町が栄えていました。
その反面、六角川の水は、海水が遡上し塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できませんでした。
白石平野において田畑の発展・飲み水の利用するために、以前から取り組みがなされています。


昼食
今日の昼食、残り物と蛸めし
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今夜の夕食、娘が新宿のとんかつ屋で買って来た

今日は一歩も出なかった。
不整脈は度々発症する,
午前中ヨガ教室に行こうと支度して下まで降りましたが、
気分悪く戻りました。







子育ては成功であったか!

 令和3年7月11日(日)曇り後雷雨

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私はブログでよく娘の事を書くので、
皆さんに親孝行な子供で良かったねとしょっちゅう言われます。
あんまり言われるのでひょっとして私は子育て成功者として
人に語れるのではないかと勘違いしたりします。
しかし私の弱点は学識が無いので学術的な講釈は出来ない
ことです。

本当に私は子育て成功者であろうか、
それには当事者である子供に聞くのが一番と思われますが、
さすがに私の子育てはどうだったかと直接聞くのは憚られます。

最近書類を整理していたら表記の文書が出てきました。
大分昔の事ですから現在はどう思っているか判りませんが、
娘が母を肯定している文書で嬉しくなりました。

この文書の背景を述べると複雑になりますので簡略に述べます。
平成15年9月頃リフォームしました。
その時にお願いした大工さんと意気投合して
義姉弟の契りを結びました。

そして完成時にはオープンルームをしたり
同じマンションの知り合いを紹介してフルリフォームしました。
その為のチラシを2000枚も我が家のプリンターで刷ってあげて
近隣のマンションに投函したり、
その後そのチラシを見た方が4件ほど依頼されたんです。


紹介したその方はとてももてなし上手で職人さん達に毎日午前午後高級な茶菓子で接待したり至れり尽くせりする方でした。
一方私は働いていたしそんなことが大嫌いで始めに職人さんの接待は出来ないのでお金で払いますと言いました。
でもベランダに冷蔵庫を置いていましたので飲料はいつも満杯にして置き遠慮なく飲んでくださいと言っておきました。

だから皆さんはその方が好きなようでした。
そして其の家が完成した時に近所のスナックで打上げをされましたが、正式に招待されませんでした、多分施主が設定した宴で
食い違いがったのかもしれません。

その時に私が僻んでいたことに対して娘が同調してくれて
大工さんに心境を書いたものです。



シニアナビ過去記事(624)「外国人参政権反対活動の関連記事」訂正あり


 [624] 外国人参政権反対活動の関連記事  2008.4.18  16:14:50  20/4/18(金)終日雨
 
624_picture
人間様日本の為に目覚めて下さいよ。
私もご先祖様にお願いしていますよ。



今日は小降りの時に犬の散歩を済ませて歯医者に行き、
家に篭っています。
雨の日に家に居られるなんてなんて幸せなんだろう。

私の子供の頃、終戦後の頃の話よ、
私の狭い範囲の事だけどあの頃雨漏りしない家は無かったと思う。
寝ていてもあちこちから「ポッ、ポッ、ポツン」と来たもんだ。
あるだけの容器に雑巾や布切れを入れて受けた。

その後雨降りを窓の内側から眺めていると
しみじみと幸せを感じている自分に気がついた。

ところで先日の「外国人参政権反対」の活動があちこちのブログで
書かれていると思うが、この記事はどうですか。
せと弘幸BLOG『日本よ何処へ』:変わりつつある流れ (livedoor.jp)




プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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