おてんば83歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

シニアナビ過去記事(295)「家賃に消費税が掛からないのは誰の「おかげ」

[295] 家賃に消費税が掛からないのは誰の「おかげ」
2006.9.16  23:48:38   
18/9/16(土)曇り 晴れ 秋の気配

私のお陰です。

昭和60年のゴールデンウイーク期間に相模地方の持ち家を借金返済の為売却し、辛うじて借家を借りる費用だけ残りました。
もう半年か一年持ちこたえていれば2倍から3倍で売れて一気に借金は無くなるのに、運に見放されている時はこんなものです。
(後記:旦那が女(玄人女)と遊興費に使った借金は総額6000万円ほどありました)
それは屈辱の日々でした。

借金返済の苦しい日々でした、これ以上の節約法はないと言う暮らしでした。
おまけにまもなく二人の子供が同時に大学に行く日も近づいていました。

せめて悔しさをなだめる為に住まいだけは人の羨む部屋にしようと頑張りました。
今住んでいるマンションの下階の部屋でした。
別に豪華マンションではありませんが、西の空が開けて冬には富士山が眺められ、苦しい一日が終わってビール片手に遠く夜景を眺めるのが唯一の贅沢でした。

家賃は60平米で152,000円でした。
当時はまだ判りませんでしたがバブルの大波がひたひたと押し寄せて来ていました。
次の更新では170,000円になりました。

それでも地方に住む大家さんは慈悲深い未亡人でしたので相場より
安かったのです。

平成元年に消費税が課税されるようになり、当初は3%だった
税金は5,100円にもなり、それは我が家にとっては大金でした。

そんな頃、新聞で消費税に意見のある人は電話するようにと掲載されていました。
確か「総務省」だったと思いますが、私は生まれて始めて政府に意見をしました。
自宅には電話を入れて無かったので会社の電話でしました。

相手は若そうな男性でした。

私「家賃に課税するなんてとんでもないです」
私「我が家は零細企業を経営しているが、過酷な労働条件で職住接近でないとやっていけないが、年頃の男女の子供がいればどうしても3部屋は必要です、都心で3部屋借りると我々には過大な負担なのにその上税金を掛けるなんてとんでもありません」
私「それとも政府で住宅を十分手当てしてくれるんですか、貴方達公務員は立派な安い住宅が用意されているでしょうから、我々の苦しみはわからないでしょうね」
公「そんな事はありません、私も借家に住んでいます」
私「それは貴方が好んでしていることでしょう、住もうと思えば官舎に住めるでしょうが」
公「でも食料、衣類等とどう区別するんですか」
私「食料はピンからキリまであり、納豆や豆腐でも過ごせますし、衣類は貰い物でも過ごせます、しかし住まいだけは橋の下に住むわけにはいかないのです」

ああいえばこう言い、こう言えばああ言い。

2時間くらい必死で説き伏せました。
「うん」と言うまで引きません。
全国の借家人の代表になったつもりで渾身の力を込めて説き伏せました。
公務員氏も根負けして
「貴女の意見は必ずや力説して届けます」と言ってくれました。

そして暮れなずむ表に出たら、自転車のかごに積んでいた食料をごっそり盗まれていました。

「ほーら、国民はこんなに貧しいんだ」

今、日本は声高に主張する人たちに国の方向を向けられていると思います。
本来の大和ではなくなりつつあります。
誰かが良きに計らってくれるだろうとお任せしているととんでもない国になってしまいますよ。

意見は述べるべきです。

消費税には後日談があります。

それから消費税が発布され、私の願いが届き自家用の住宅には課税されない事になりましたが、
なんと地方に住む大家さんが管理を任せている管理会社から課税すると通告して来たのです。

理由は当社は営業しているので当社の管理する物件は営業物件だと言うのです。
管理会社は私と大家さんが接触しないようにしていましたが、
何とかして大家さんの住所を突き止め、直訴しました。

すると、なんと大家さんは私に税金を掛けないようにとお願いして
その分負担していたのです。
管理会社は大家さんからと、私からと不当に利益を得ようとしていたわけです。
大家さんは立腹して、
管理会社と解約して「さんごママ」はこれまで立派に契約を履行して信用出来るので直接契約にしましょうと言ってくれました。
そして管理会社に払っていた分安くしてくれました。

何事も諦めてはいけないわけです。


シニアナビ過去記事(278)「市原悦子さん」


[278] 市原悦子さん  2006.7.23  01:12:37   
18/7/22(日)曇り 数日間梅雨空、肌寒い
278_picture
16輪目のうらなり君、葉影でけなげに咲きました

私、市原悦子さんが好きだ、同年代だし親近感を持っている。
最近、最新のドラマを観たが、芸能人必須の顔をいじってないのね。年相応と言うか顔の弛みが増えていて驚いた。

「家政婦は見た」「バスガイドの愛子さん」役等好きだったなぁ。
私が家政婦まがいのヘルパーに躊躇なく入れたのも彼女のおかげかな。

私も好奇心旺盛だから他所のお宅を覗けるのは彼女に負けずに面白い。天職だと思えた。
役柄とは言え彼女が演じると「そうそう、そうなのよ」って同感する。

この度のドラマでも1個の卵で3人がご飯を食べる場面で私と同じ事を言っていた。
今でも卵かけご飯を食べる時「私の子供の頃はねぇって、、、」娘に言うの。

子供の頃、卵かけご飯はご馳走だったし、大好きだった。
卵は貴重だったので1個を2人で食べる事が多かった。
「よーーく」混ぜないと不公平になるので、
このドラマの悦子さんのセリフ同様必死で混ぜたもんだ。

それから又、家政婦の秋子さんが、2階の窓で歌う演歌にも共感する。

♪ひとーりで 生きてくなんて でーきなーい~~と♪

♪あすのこと~さえ~~ わかりわ~~しないー チャラ~らん♪
なぁ~んてね。

秋子さんや悦子さんが私とおんなじ苦労をしたとは思われないが、
私の40代後半は悲惨だった。

「不信と経済苦」

でも私は子育が一番大事な正念場だったので、投げ出すわけには行かずぐっと我慢して下手な演歌をカラオケでがなり散らして耐えていた。

毎日歌った、息子の大事な高校受験勉強に差支えるほどに。
息子が言った「俺が落ちたら、ママのせいだからな」って。
(後記:当時ホームパーテイ出来るように高級カラオケ機器を設置していたのでやけっぱちの大音量でがなり近隣に迷惑かけていたと思う)
隣家の大学の先生にお礼を言われた(皮肉かな)
先生はカラオケの持ち歌が一つしかなくて、馬鹿の一つ覚えを歌おうとしたら仲間にたまには違う歌を歌えよと言われ、

「じゃお隣の奥さんに習った歌を歌います」と言って、
♪捨てられても 捨てられても あなたがすーきよ~~♪とやったら
「お前に似合わない歌を知ってるな」と好評だったそうだ。

インテリを自認する女性は演歌を嫌うが音痴の私は演歌しか
歌えないが演歌にはどれほど慰められた事だろう。
だから役柄とはいえ演歌を歌う悦子さんが好きなんだ。

50代前後頃かなぁ。
私はよく市原悦子に似ていると言われた。
それまでは「家政婦」も観なかったし、市原悦子ってあまり興味なかった。
でもあまりにもちょくちょく言われるので気にしだしたんだ。
ある時など、公園で友人と話していたら、若者がつかつかと来て、
「貴女は市原悦子に似ていると言われませんか」と言うの。

娘に今日も言われたよと言ったら、
「市原悦子に似ていると言われて嬉しいの」と馬鹿にした言い草。
「うん、うれしい」
美人じゃないからって、馬鹿にするんじゃないよ、
筋は忘れたが銀座のママをやった時の悦子さんは絶品の女っぷりだったんだから。

だから、いまから年相応の婆役などやらないで、
人並みにフエースリフトも少々やって色香のある役をやって下さいよ。
でも自然のままに年取るんならお付き合いしましょうかね。

ところが、最近はとんと言われなくなった。
いつあたりから私と悦子さんは路線が離れたのだろうか。

影響されやすい私は悦子さんがドラマで着ていた藍色のワンピースに紺のベストのスタイルが気に入ったのでおんなじ格好してみたくなった。

昨日、京王デパートで探してみたけど似たようなのは見つからないなぁ。



三島由紀夫のからっ風野郎


令和2年9月27日(日)晴れ

今日は午後から表記の映画を鑑賞してきました。
三島由紀夫が主演する映画想像できるでしょうか。

当然演技は下手見ていられませんが、
周りを本職の俳優で固めてその下手さが際立つのですが
見ているうちにこれは多分三島由紀夫の
お遊びだなと思うようになりました。
大作家だからこそ許されたお遊びでしょうね。
必見の映画です。

周りの俳優たちがすべて後に有名になる俳優ばかりですが、
当時すでに有名だったかもしれません。
よく知る俳優たちの若き日の姿が見られて得した気分です。

この映画は1960年、昭和35年製作ですから
私が上京した年(当時23歳)の作です。

当時底辺で暮らしていた私はこの映画の事を何も知りませんし、
私は生意気にも洋画しか見ませんでしたから風景が懐かしいです。
当時の日本映画の背景がよく判らないのです。

背景が見覚えのあるものばかりで今の人たちが見ると汚い背景でしょうが、当時は皆貧しかったのです。
三愛(服屋、ここでコートを買ったことがある)とかトルコ風呂とか
○○マーケットとか懐かしいです。
当時の街の風景が作りものでなく見られて貴重でした。

終ってから少し感想等述べあいましたが、
皆さんよい映画だったと異口同音でした。

その後10人ほどで近所の居酒屋で懇親しました。
私、最近引っ込み思案を捨てて積極的に周りに合わせて会話するようになりました。
引っ込み思案と言うのは無口でおとなしいと言う意味ではなくて何となく人と合わせるのが得意ではなかったんですが、
最近吹っ切れたような気持です。

難聴なので騒がしい居酒屋で会話が難しいこともありますが、
最近は何とか会話が楽しめるようになりました。
今夜も突っ込んだ話が出来て楽しかったです。

からっ風野郎(1960年製作の映画)
上映時間:97分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三 安藤日出男
出演者
三島由紀夫
若尾文子
船越英二
川崎敬三
根上淳
小野道子
水谷八重子(良重)
志村喬
潮万太郎
倉田マユミ

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シニアナビ過去記事(223)「九州行き④ 「噂」」


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[223] 九州行き④ 「噂」 2006.4.2  17:50:05   

大分以前の話だが、田舎で木村拓哉は私達の従姉妹の息子じゃないかとうわさになったそうである。
戦後生まれの由美子(漢字を忘れた)ちゃんは野添ひとみのような
目がパッチリした女の子だった。

絵付け師の従姉妹と歳が近く、隣家に住んでいたので親しくして、
一番最後まで連絡していたそうだが、最近はぱったりと音信が途絶えて、親戚中誰も消息を知らない。

ある年の秋、東京にいた由美子ちゃんは臨月のおなかを抱えて帰郷した。町に一箇所しかない産院で断られたので、自宅で出産することになった。

突然産気付いたので、絵付け師の従姉妹が駆けつけると、
もう出産が始まっていた、
母親である伯母さんは気絶して伸びていたので、
思わず頭を引っ張りだしたそうだ。

すっかりお腹のものが出終わった時、産婆さんが駆けつけたそうだ。
そして伯母さんにお湯はどこと聞いたら「ポットに入っている」と答えた。

伯母さんは子供が出来ないので、養女を貰って育てた、
その養女が終戦間際に義務教育を終わって国策に従い看護婦になっていた頃、戦後、実子が3人も生まれた。
だからその孫の出産時は老婆だったと思う。

その後優しくて善良な伯父さんは幼い子供を3人残して病死した。
当時の福祉はいかばかりだったか知らないが、
社宅を出され、一間しかない小さな壊れそうな家に住んでいた。

明治30年代に生まれた、伯母さんは無学文盲だった。
3人の子供を抱えてどんな暮らしだったのだろうか。

私の祖父は頼母子講の胴元(と言うのかな)をしていたので、
伯母さんがそれで暮らしていけるように手ほどきして譲ったようだ。

頼母子講の胴元をやって暮らしていけるのか私には解らないが、
文盲でありながら、利息の計算などどうやってしていたのだろうか。
当時の母子所帯の苦労は親子共々並大抵では無かったと思う。

そんな故郷は忘れたいと思っても不思議ではないが、
伯母さんが亡くなってから3人の兄妹はふっつりと消息を絶って
しまった。

その男の子は拓哉と名づけられ、しばらくしてその父親が迎えに来たがすらりと背の高い美男子だったそうだ。
当時は東京でバーテンダーをしていたそうである。

次男もキムタクの弟と同じ名前で、その子達が少年の頃同級生が
「息子さんどうしているの」と聞いたら、
ジャニーズ事務所に入っていると由美子ちゃんが答えたそうだ。
キムタクの母親も由美子だそうだ。
偶然とは言え家族3人が同じ名前で生年月日も同じ頃だそうである。

そんな偶然が重なり噂になり、絵付け師の弟が経営する飲食店にも
「由美子ちゃんの息子だって」と頻繁に聞かれるのでキムタクとは
関係ありませんと張り紙しようかと言っていたそうである。

その話をキムタクのフアンである娘にしたら目の色変えてネットで調べたが、父親はコックで夫婦でレストランを経営しているようだ。

由美子ちゃん兄妹はどうして故郷を捨てたのだろうか。
もうその消息を知る術はない。
(後記:ネットで調べましたが、母上の名前も顔も違っていました)



親友に!勝ったと思ったこと


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令和2年8月(土)晴れ 猛暑


私の娘は口が悪い、
まっ育てた親が親だからな!

私は毎日目薬を注しているけど、これがなかなか難解で一滴で的中したことがない。2,3滴注すことも多い。
そんな話をしたら娘なんと言ったと思います。
「眼が小さいと大変ねぇ」
他にこんなことも言う。
カメラのシャッターを押す時必ず言うセリフがあります
「目開けてんの」

悪かったね、これでも若い時はもう少しパッチリしてたんだよ、
歳取って眼瞼下垂してんだよ。

眼と言えば思い出すことが2,3ありますが、前回の過去記事の親友の事が思い出されます。
彼女の黒目は見開くと上下の瞼に遮られることもなく真ん丸に見えました。

彼女は容貌頭脳だけでなくすべてが私より上でしたね。
私はしがない下の下の庶民でしたが、彼女の家系は華麗でした。
父親は薬剤師で戦前は朝鮮で薬局を手広く経営していたようです。
戦後引き上げて来て温泉街の一等地で薬局を経営していました。
因みに典型的な不在地主だったので戦後の農地改革で山林以外は全部接収された様でした。

一族も華麗で伯父さんは銀行の頭取している人も居たし、実兄は○○県庁のトップまで出世して関西国際空港の設立時には経営陣に天上がったそうです。
彼女言っていました、普通定年後は天下りするものですが兄は天上がりなのよと

一族のおねぇ様方は皆さん武雄高女卒です。
戦後卒の後輩が言うのもおこがましいですが、
戦前は武雄高女卒は良家の子女の花嫁必須の学歴でした。
妹二人も医者と裁判官と結婚していますしね。

武雄高女創立1908年(明治41年)
昔東京に来て間もないころ同窓会に出席したら父が生まれた明治42年に入学したと言うおねぇさんが居ました。
92歳武雄高女卒

全てが私の上を行く方でしたが、私は僻み根性と言うものを持って生まれてきませんでしたので、友人が私より優れているとそれが自慢でした。

お互いの娘が同じ歳でしたが、その容貌、頭脳も上でした。
彼女は子供3人の教育に熱心に取り組んでいて長男を公立に入れたのを人生最大の失敗だったと後悔していました。
高校まで公立に入れたお陰で希望の大学に行けなかったのでアメリカ留学させました。

次男は中学から私立に入れ、三番目の娘は小学校から名門に入れました。
其の女子高は入学すぐから勉強勉強と強いる学校だったそうです。
誰かが入学早々からきつすぎると申し入れたら「勉強好きになるのは癖です、癖はすぐにつけなくてはなりせん、それがご不満なら退学なさっても結構です」と強気だったそうです。

おかげで大学は学習院と聖心女子大学を推薦されたそうで、
聖心に行きました。

いつも娘さんの話をしてくれて私は友人の娘が優秀なのが嬉しくて喜んで聞いておりました。
いつも話題は教育費が莫大で大変だと言っていました。
私なんか学校は公立しか考えていませんでしたので遠い話でしたね、

ところが人生何が幸いするか判りません。
私の娘は私の娘ですから優秀ではなくて短大に行きました。
おかげで後で振り返るとその就職期はバブル真っ最中でした。
より取りみどりでした。
娘の同級生は一流銀行に書類を貰いに行ったら「内定出すから今すぐ決めなさい」と言われて、じゃあお願いしますと決めてきたそうです。
就活はたった一回!

娘に「あんたは運がいいわね」と言いますと、
娘「運も才能のうちよ」と宣います。

私は娘の就職には力を入れて調査しました。
これからは女も職場の花ではなくて生涯働けるところと決めて探しました。
まず女性が永く働けて女性の役職が多い職場と探しましたら、
伊勢丹が一番でした、

その他その年からJR東日本が女性を採用すると発表されましたのでここも受けさせました。

本命は航空会社でしたが、ここはいくらバブルと言えども超競争が激しかったんですが、40倍の競争を突破して希望を叶えました。
伊勢丹も内定を貰いJRは最終まで行きまして当時内定者の囲い込みでパーティに呼ばれたりしておりました。
三社しか受けませんでした。

ところが四大出の就活期はバブルが弾けて超氷河期に突入していて娘さんは何十社と受けて落とされ続けたそうです。
聖心は就職に力を入れていないのよと言っていましたが、親子して心身共に壊れたようです。

そしてやっと決まった先は私も聞いたこともない旅行専門の出版社だったのですが、そこが今で言うブラック企業で娘さんは心身が壊れて間もなく辞めていたのです。
それは後程聞きました。

ある時「娘がね」と話し始めると
彼女「貴女って娘さんがよっぽど自慢なのね、聞きたくないっ」と怖い顔で言い放ちました。
美しい顔が夜叉の様でした。

その時初めて彼女が永年私の上に位置する関係が当たり前で下に位置することは屈辱だって気がついたんです。
私はだからって友情を断つことは考えませんでした。
彼女は私のかけがえのない親友だったからです。
その後お互い娘の話題はしませんでした。

そして彼女が亡くなった時、私は不謹慎ですが、
勝った!と思ったのです。

今思うと彼女とは護国愛国の話題をしていたのです。
いつも逢うと今の日本はおかしいよねと心を痛めておりました。
もし彼女が生きていれば一緒に護国活動しているかしらと思います。
プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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