おてんば84歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

六角川


 令和3年8月14日(土)一日中雨

六角川②
住民は鉄道、国道の上の高台に密集して住んでいます
六角川地図
堤が沢山あるでしょう

ほとんどテレビでニュースバラエティはみないんだけど、
同志が私のふるさとの佐賀県大町、武雄の水害の模様を放映して
いますよとお知らせくださったので見てみました。
2年前にも同じような水害で脚光を浴びていましたね。
この辺りの水害はほとんど六角川に原因があります。

六角川は佐賀平野の西の方白石平野を大きく蛇行して有明海に注いでいます。
有明海は干満の差が日本一と言われ6メートルほどだそうです。
満潮の時は上流に向かって29㌔ほど遡上します。
昔アマゾンの川が逆流すると大騒ぎして放映しておりましたが、
そんなもの珍しくも何ともない。

だから有明海の満潮の時に大雨が降ると当然川は溢れます。
有明海は潟土の海で泥水です。
この潟土は大昔阿蘇山が大噴火した時の降灰が堆積した土だ
そうです。
子供の頃はそんな知識は無かったんですが、
母が新聞記事で読んだと言っておりました。

石炭産業盛んなりし頃はこの川を利用して有明海の住之江港まで運んでいたそうですが、私が子供の頃は鉄道で運んでいましたので水運を利用していたか知りません、積み込む場所を港町と呼んでいましたね。

そんなわけでこの川は農業用水にも飲料水にもなりません。
我が町は山の中腹にあったせいか、至る所に堤がありました。
農業用水です、堤と言いますから昔のダムですね。

当時夏になると子供たちは町中にある堤で水遊びしました。
小学校に当時珍しい25メートルプールもありましたが、
何しろ日本一の小学校で多い時は4000人はいましたから
プール一つでは間に合いません。

そして毎年子供が溺れ死にました。
そうすると町中の人がその堤の周りに集まって潜水夫が捜索する
様を眺めました。
母親が半狂乱になって泣き叫びました。
堤の水は谷水ですから冷たいのです。

父は堤で遊んでは駄目だと言っても親の目を盗んで遊ぶだろうからと子供4人を特訓しました。
その特訓はスパルタで深い所に投げ込むんです、必死に戻るとまた投げ込む、私は恐怖でおびえていましたら、お前は隠れて堤に入ることは無いだろうから、いいと放免されました。
お陰で私は泳げなくてコンプレックスを抱いて大人になりました。

我が街はこの六角川に面した平野と山の手にあります。
当時は農家以外はこの山の手に住んでいました。
何しろ一雨来ると六角川が氾濫して国鉄佐世保線、当時貫通道路と言っていた国道34号線は浸かります。
高校時代台風の時は生徒は駅で待機して学校から駅に連絡が来るのを待っていました。
今日は休校だと知らせがあると歓声を上げて喜んでいましたね。
佐賀県南部を流れ有明海に注ぐ川。
長崎県との県境にある神六(じんろく)山(標高447メートル)南斜面に源を発してほぼ東流し、
武雄盆地で支流を集め、白石(しろいし)平野でさらに東流して河口近くで牛津川を合流する。
長さ約45キロ。
河口に広大な干潟を形成している。
河口付近の大潮時の干満差は約6メートルにもなる。

"感潮区域が約29kmの六角川を利用し、水運が発達したが、六角川の水は、塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できない弊害がありました。約400年前には、白石平野における水不足を解決するために、成富兵庫茂安は、三段式堤である永池の堤を造りました。
永池の堤は、上流から水路を引いて、淡水を上・中・下の3段の堤に貯め、その水を平野に送ります。"


・六角川の歴史
蛇行する六角川

六角川は日本でも有数の緩流蛇行河川であり、その河口部は有明海の最奥部に位置しています。
そのため、河口部では干満の差が5~6mに達し、感潮区域は六角川で河口より約29km、
牛津川で約13kmに及びます。この著しい潮汐変動によって潟土を上流に送り込まれ、下流域の白石平野の基盤を造られました。
江戸時代、六角川流域に長崎脇街道が位置したことや感潮区域が長いことを利用し、水運が発達したため以前より宿場町が栄えていました。
その反面、六角川の水は、海水が遡上し塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できませんでした。
白石平野において田畑の発展・飲み水の利用するために、以前から取り組みがなされています。


昼食
今日の昼食、残り物と蛸めし
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今夜の夕食、娘が新宿のとんかつ屋で買って来た

今日は一歩も出なかった。
不整脈は度々発症する,
午前中ヨガ教室に行こうと支度して下まで降りましたが、
気分悪く戻りました。







子育ては成功であったか!

 令和3年7月11日(日)曇り後雷雨

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私はブログでよく娘の事を書くので、
皆さんに親孝行な子供で良かったねとしょっちゅう言われます。
あんまり言われるのでひょっとして私は子育て成功者として
人に語れるのではないかと勘違いしたりします。
しかし私の弱点は学識が無いので学術的な講釈は出来ない
ことです。

本当に私は子育て成功者であろうか、
それには当事者である子供に聞くのが一番と思われますが、
さすがに私の子育てはどうだったかと直接聞くのは憚られます。

最近書類を整理していたら表記の文書が出てきました。
大分昔の事ですから現在はどう思っているか判りませんが、
娘が母を肯定している文書で嬉しくなりました。

この文書の背景を述べると複雑になりますので簡略に述べます。
平成15年9月頃リフォームしました。
その時にお願いした大工さんと意気投合して
義姉弟の契りを結びました。

そして完成時にはオープンルームをしたり
同じマンションの知り合いを紹介してフルリフォームしました。
その為のチラシを2000枚も我が家のプリンターで刷ってあげて
近隣のマンションに投函したり、
その後そのチラシを見た方が4件ほど依頼されたんです。


紹介したその方はとてももてなし上手で職人さん達に毎日午前午後高級な茶菓子で接待したり至れり尽くせりする方でした。
一方私は働いていたしそんなことが大嫌いで始めに職人さんの接待は出来ないのでお金で払いますと言いました。
でもベランダに冷蔵庫を置いていましたので飲料はいつも満杯にして置き遠慮なく飲んでくださいと言っておきました。

だから皆さんはその方が好きなようでした。
そして其の家が完成した時に近所のスナックで打上げをされましたが、正式に招待されませんでした、多分施主が設定した宴で
食い違いがったのかもしれません。

その時に私が僻んでいたことに対して娘が同調してくれて
大工さんに心境を書いたものです。



シニアナビ過去記事(624)「外国人参政権反対活動の関連記事」訂正あり


 [624] 外国人参政権反対活動の関連記事  2008.4.18  16:14:50  20/4/18(金)終日雨
 
624_picture
人間様日本の為に目覚めて下さいよ。
私もご先祖様にお願いしていますよ。



今日は小降りの時に犬の散歩を済ませて歯医者に行き、
家に篭っています。
雨の日に家に居られるなんてなんて幸せなんだろう。

私の子供の頃、終戦後の頃の話よ、
私の狭い範囲の事だけどあの頃雨漏りしない家は無かったと思う。
寝ていてもあちこちから「ポッ、ポッ、ポツン」と来たもんだ。
あるだけの容器に雑巾や布切れを入れて受けた。

その後雨降りを窓の内側から眺めていると
しみじみと幸せを感じている自分に気がついた。

ところで先日の「外国人参政権反対」の活動があちこちのブログで
書かれていると思うが、この記事はどうですか。
せと弘幸BLOG『日本よ何処へ』:変わりつつある流れ (livedoor.jp)




補足「かくして黒島に出会った②」


 令和3年6月16日(水)晴れ


シニアナビ過去記事の「かくして黒島に出会った①」の続編が
いくら遡っても見当たりません。
多分続編は書かなかったんだと思う。
それでは私の中で未消化なので思い出して書いてみます。

当時借金は6000万程あったと思う。
その当時バブルの波がひたひたと押し寄せて来つつあった時期でしたが、私達底辺にはまだみえなかったがあと少しのところで手が届きませんでした。
座間にあった家が底値の1800万で売れました、と言うより街金が
差し押さえて売りに出したのでこちらの意向は入って居ません。

銀行で街金と信金と私の弁護士と買主が揃って話し合いましたが
私は何も意見を述べる権利がありませんでした。
弁護士さんが頑張ってくれて○○さんにも家族がいるんだから、
せめて借家を借りるだけは残してくださいよと交渉してくれて
100万だけ私は頂きました。
買主の前で恥ずかしい展開でした、あの閉鎖的な住宅団地に話題を提供したわけです。
その住宅団地には築いた人脈がありましたが
その後一歩も足を向けませんでした。
正に夜逃げです。

その半年後頃からバブルの大波が押し寄せてきて、信金の営業さんが「○○さん座間のあのあたりの売値が6000万以上で取引されていますよ」と言われました。
聞きたくないっ!
それだけあったら一気に借金は返せたのに運に見放された者には
縁のないことでした。

旦那の転落の経緯は多分私の想像ですが、池袋に旦那の行きつけのクラブがあって一度旦那に連れて行かれたことがありますが、
ママのまり子さんは男気のある方で旦那の裏の顔を見抜いていたと思います、私に同情的な雰囲気がありましたので、
電話して聞きました。
「私は焼餅で言っているのではないのです、このままでは我が家は破産しますのでどうか知ってる事を教えてください」と
お願いしました。

「歌舞伎町のキャバレーのヤンと言う女に店を出させたはずです、その女をパパ(旦那の事)がうちの店に連れて来たことがありますが同業者としては許せない礼儀知らずの嫌な女でした。
ある時同輩を数人連れて来て今日は私のおごりよと言って出した
カードが私名義だったので、
これパパの奥さんのカードじゃないのと咎めたら
あんたには関係ないでしょと言い放ったそうです」

その他に複数のカード会社から請求書が頻繁に来ますので、
当時カード会社もゆるかったので「買った物を忘れたので明細書を送って下さい」と電話しましたら
分厚い束がど~~んと送られてきました、

日本橋三越(テリトリー外)でゴルフ道具一式とか
プラチナダイヤモンドの指輪とか蟹道楽での食事とか
およそ旦那とは縁のない買い物ばかりが湯水のように消費されて
いました。

私は借金したりカードで買い物はしない主義ですからカードを
持っていませんでした。

ある時はカード会社から「奥さん昨夜どこそこの蟹道楽で食事しましたか」と問い合わせがありましたので
私はそんな所に出かけませんし主人も蟹は好きではないので
食べる筈がありませんと答えましたが、
その件カード会社ではどう処理したんでしょうかね。
旦那に問い詰めてもすぐわかるような言い訳をします。
基本嘘つきです。

そして歌舞伎町の区役所裏通りあたりで店を出させたのです、
ヤンから、まり子さんも来てよと誘いがあったそうですが
嫌いな女だったので行かなかったそうです。

旦那はとにかくタフで仕事が終わってからその店に出ていたらしい、チビデブハゲの男がママの男としてカウンターにいる店が
繁盛すると思いますか、
ほどなくして毎月毎月今月も赤字だとおねだりが始まった
ようです。
とうとう旦那は投げ出して逃げ出したようです。

それから何度も何度も電話がありましたが出ませんでした。
ある時私が出たらすぐに切れましたが、
たったそれだけで小股の切れ上がった女だなと判りました。
続く!


シニアナビ過去記事(600)「かくして「黒島」に出合った①」


 [600] かくして「黒島」に出合った①  2008.3.9  19:09:08   
20/3/9(日)どんより

これから書こうと思っている事は、私及び家族にとって決して
名誉な事ではないので躊躇したが私の中でマグマのようにたぎって
来たので噴出させるしかないと思う。

『賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ』ビスマルク

私の旦那は赤ちゃんの時に両親が離婚して継母に育てられた。
父親の故郷福島に継母と義兄の三人で疎開している時父親が戦死した。
(昭和19年8月4日没)

辛酸を舐めた幼児期だったようだ、そして戦後小学高学年の時、
実母に引き取られたが貧しい母親が2人の子を育てる為に昼も夜も
働き通しで暖かい家庭の味は知らないで成長したようだった。

しかし当時は何処の親も必死で現在のような家庭団欒なんて
無かったと思う。
それでもどんな境遇に育ったとしても、親になれば子供に暖かい
家庭を提供しようと努力すると思うの。

でも、旦那と結婚して自分が体験しない事は出来ない人がいるんだと覚った。
それもだいぶたってからね。遅かりし。

旦那の長所は義母に似て働き者、それは本当に尊敬に値する。
しかし家族を喜ばせようと言う概念は無いようだった。
家族が出来ても自分だけ楽しんだ。
私の旦那がそんな人だって事に気付くのが遅かったので
私の子育て期は悲惨だったわ。

私の乗った船は何処に行くのかわからない不安がいつもあった。
闇夜に信頼出来ない船長の泥船に乗っているような心もとなさ。

それでもなんとか40歳前に相模地方に中古の家を買う事が出来た。
もっとも一雨降れば道路冠水、床上浸水も2度体験したわ。

40代始め、旦那が丁度後厄の頃だった。
私の友人の親戚からベンツを譲りうけた。
それが我が家の転落の幕開き。

今まで中古の国産車しか乗って無かった旦那には初体験の
我が世の春が訪れたのだ。
高速を走れば「そこのけそこのけベンツが通る」状態だったらしい。
結婚前から好きだったクラブやキャバレーに行けばおねえちゃん方に掌で揉むようなおもてなし。

いい気になっている数年後には取り返しの付かない借金の山が
築かれた、
我が家はおろか義兄の家まで言葉巧みに攻略して担保にした。
借金先は信用金庫、国金、街金、サラ金、闇金、親戚、友人、知人、ありとあらゆる所、よくもまぁ、借金の天才だぁ~

商売の方は旦那任せで相模地方で子育てに専念していた
私は本当に途方にくれました。
そして趣味からはじめた籐工芸の講師をしていましたが
もうそんな事はしていられません。

何が起こっているのかわかりませんでした。
まるでブラックホールに居る様でした。
現実は全くお金が無いのでした。
息子の高校入学金、月謝も払えないような金欠でした。

ハットして私は法務局に家の権利を調べに行きました、
私と共同名義になっている家も信用金庫となにやら怪しげな
金融会社の借金の担保で真っ黒け。
ぞ~~ッとしてへたり込んでしまった、
どうやって車の運転をして帰ったか判らないほど腰が抜けていた。

大事な家を取られたらどうしようとばかり思っていた。
その時はまだ生易しかった。
その後の悲惨な人生に比べたら生易しかった。

でもすぐに決断しました。
嫌がる旦那を捕まえて
「家を手放せば済む事だったらそうしようよ、それで出直そうよ」
と言いました。

後で思うに旦那はどんづまったら蒸発するつもりだったようだ。
その頃です、私は藁にもすがる気持ちでご本尊に祈りました。
他にすがる物は無かった。

九州の父は子供を連れて帰って来いと言ってくれましたが、
帰る所ではないのはよ~く知っていました。

そしてこれから私が毎日会社に行って会計を見ると言いましたが
旦那は嫌がりました、数ヶ月待ってくれと言います。
「じゃぁ、その間私は簿記学校に行って帳簿の勉強をする」
と言いました。

そして数ヶ月、町田の簿記学校に通学しました。
私は理数系がバカと言っていいほど不得意で苦手でした。
寒い冬でした、毛布を被って必死で勉強しました。
「為せばなる」もんですね。
何度も何度も繰り返しやっていると段々見えてくるんですね、
判ってくるんですね。

あぁ、高校時代にこれほど勉強していたら、
私はひょっとして六大学でもいけたのではないかと思いましたよ。
無事に資格試験も合格して、やおら乗り込みましたよ。

しかし、旦那は私を邪険に邪魔者にしました。
針のむしろでした。
文字通り狭い工場で居るところが無いのです。
こんな毎日意味があるのだろうかと思いましたが
必死で踏ん張りました。

とうとう来ました最後の時が、不渡り倒産です。
忘れもしない昭和59年11月19日でした。

それから地獄の一丁目が始まりました。
毎日毎日借金取りの電話が一日中鳴り響きます、
東映映画のヤクザ屋さんのような怖い人が来て目と鼻の先で脅します。
がたがた震えました。

そんな時、以前お願いした弁護士さんに相談しようと思いつきました。
その弁護士さんも『僕に相談しようと思った事は、貴方達に前途が開けたってことだよ』と言ってくださいました。
本当にこの方には神様、仏様とすがりました。

何処にどの位借金があるのかを把握するのが大変でした。
先生と2人で借金先を訪ね歩きました。
本当によくやって下さいました。
『弁護士と言う仕事は足で稼ぐ仕事だよ』と仰って下さいました。

そして頭を下げて猶予をお願いしたリ、
この位返済しますと約束をしたり。
それが後で苦しむ事になりました。
約束した事は必ず厳守するのが私の信条ですから、
それから数年は胃がきりきり、胃の中に小石がごろごろしているような借金返済人生を歩きました。
飲まずに居られなくなったのはそれからです。

当時仕事は幾らでもありましたから
『貴女が資金繰り、借金取りの応対をして、旦那には仕事だけして
貰って借金取りとは相手させないように』とのアドバイスを
頂きましたのでそれから私が全てを背負って処理しました。

続く


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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