おてんば84歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

銀座ライオンの蛸のから揚げ


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むか~し、いつの頃か誰と行ったか忘れていますが、
未だに忘れていないものがあります。
蛸のから揚げ、世の中にこんなおいしいものがあるのかと
感激したことはいまだ忘れていません。
その後類似の店で何度か注文しましたが、
どこも似て非なる物でした。

今日の産経新聞記事を読んで、あああの銀座ライオンの
蛸のから揚げがもう一度食べたいと呼び覚まされました。
今でもあの味を保っているでしょうか。
どなたかご一緒しませんか。



代用食


 令和4年3月19日(土)晴れ後曇り 富士山見える

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ビル影が短くなった
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私達親子もこの公園で犬友が出来て犬社会の一員だったわ
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河津桜も色褪せた

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通り道にある学校のアンズの花


今日も予定はないのでのんびりと過ごす。
パンを焼く、リベンジだ。
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開封したばかりの酵母だからよく膨らんだ
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よく釜伸びしました

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今日のお昼、昨日のたこ焼きの残りの材料で小葱を散らして
焼いてみた、旨くもないけど不味くもない、

粉もんに遭遇すると食糧難最盛期の子供の頃を思い出します。
近所の民家が入口を窓店にして薄~く溶いたうどん粉を焼いて
刷毛でしょうゆを塗り、くるくると巻いて新聞紙に包んで売って
いました、確か50銭位だったと思う。代用食と言っていました。

当時戦争終わってすぐの頃で本当にお菓子、おやつの類が無い頃でした、私は昭和15年から18年頃に支那で暮らし支那ではとても良い暮らしをしていましたのでアイスクリームも甘いお菓子も食べたことがあり世の中に甘いおやつがあることを知っていました。
父はその暮らしを「一度植民地暮らしをしたらやめられん」と
言っていました。

しかし父は先を読む人だったのでこの暮らしは先がないと見極め妊娠していた母子を18年に先に帰し、自分はぎりぎり19年に帰国しましたので良い思い出しかありません、当時終戦までいた同僚が訪ねて来て終戦後如何に苦労したかと話していました。

代用食と言えば当時食料は配給制でしたので奇妙な食糧が配給になりました、二つの食料が忘れられませんね。

一つは大豆の油を搾った滓の粉でした、パウダーみたいな綺麗な粉でした、お母さん方はこれを如何に調理したらよいか困っていました。どうしてもこうしても食べられる物が出来ないのです。
豆腐を作った方もいましたが固まらなかったそうです。
皆さん持て余していましたね、

私は夏になると近くの谷川に遊び半分で洗濯に行っていましたが、当時洗剤も有効な物は無かった時代で、これで洗ったらどうだろうかと思いつきました(頭いい!)
なんとよく落ちておまけに糊をつけたようにパリッと仕上がるのです。それで流行りましたね。

当時洗髪は油滓を煮てそれで洗っていましたね。
汚れがよく落ちて髪もしっとりしていまでも使いたいほどです。
小袋に入れて洗うんですが、滓のままで洗うと洗い流すのが
大変でした。

二つ目はさつま芋の粉でした。
どす黒い汚い粉でした。
多分保存の為に乾燥して粉にしたんだと思いますが、
お母さん方はこれで団子を作りおやつにしました。
この粉も何か有効性のある物を抜いたんでしょうか
まずくて私は食べられませんでした。
私「かあちゃん、これは旨うなかばい、食べられん」と言いました    母「ほんなごつ、腹の空いとったら、これも旨か筈、お前は腹のすいとらんとたい」と言われましたが、
私は心の中でどんなに腹が空いていても
これは不味いと反論していました。

後時期、高校に入り各地の生徒と交わった頃農家の子が
「さつま芋の粉の団子は旨かよ、好きなおやつだ」と言うので
びっくりしました。

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今夜の夕食、金目鯛の煮付け、レトルト味噌汁に小葱をいれて、
トマト、ポテサラ、ビール

今日の歩数は3882歩





健康検診結果


 令和4年2月13日(日)曇り後雨


今日も体操以外は一歩も出なかった。
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眼を休めないと本当にヤバイと思われるが、
目を休めるってことは寝るしかないけど
そんなに寝ても居られない。

音楽聞けばいいだろうと仰る向きもありますが、
娘に喝破されました。
「ママは音楽好きじゃないのよ」正に正解です。
ながらテレビ、ながらラジオ、ながらミュージックは
性に合わないんです。
座ってやることはパソコンか読書ですから音はうるさいのです。
家の中は無音が落ち着くんです。
音楽が嫌いと宣言するほどではありません、
音楽を聴く環境は整えているんですよ、
昔のレコードを聴くためのレコードプレイヤー(蓄音機)の設備も設えていますが、もう操作が出来ません。

蓄音機と言えば子供の頃父が多分借金のカタに手に入れたと思うのですが、我が家に大きな手巻きの蓄音機が入りました。
私は嬉しくて友達呼んで聞かせようと張り切って何度もゼンマイを まき過ぎてじゃーんと大きな音がして切れました。

ど、ど、どうしよう!
父に正直に話せば怒られるだろうな、とうとう打ち明けませんでした。しかし父は何も咎めませんでしたね、あれはなんだろうか、
犯人は判っていたのかな、こそこそしていたはずだから判っていたと思う。
謎!

さて昨日買って来た金柑でジャムを作りました。
こういう手仕事は好きです。
落ち着きます。
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894円
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ストウブの鍋大活躍しています、
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今日のお昼、雑煮擬き、
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今夜の夕食、残り物とレトルトのアコウダイの煮物、白ワイン

今日の歩数は3661歩

ところで過日受けた健康、癌検診の結果が送られてきたが、
癌は無いらしい
子宮も無事
胃は食道裂孔ヘルニア、萎縮性胃炎があるそうだ。
肺は心陰影拡大、肺門陳旧性変化、大動脈石灰化がある
20代前半に肺病患ったからね、その痕跡はある、
乳がんは行きつけのクリニックでエコー検査受ける。
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明日は雪かな、
ゆっくり寝よう。





一世・二世


 令和4年1月15日(土)晴れ 富士山見える


途上国から先進国に移住する動きが止まらない。
生まれた土地に仕事が無ければある処に移住する動きは
国外だけではなくて国内にもある。
私が高校卒業する頃はいまだ日本経済が発展する兆しは
見えなかった。

東京に出てきたのは忘れもしない昭和35年8月3日23歳の時だっだ。
識者にはその後日本経済が飛躍的に発展する兆しが見えたと
思うけど、田舎でくすんでいた私にはまだ戦後の貧しさを引きずっていた。

とにかく田舎には仕事が一切なかった、私の出た高校は進学校
だったので進学には力を入れていたが就職指導は一切なかった。

高卒後就職したかったら佐賀工業か佐賀商業に行くべきだったが、女性の場合武高卒の資格は花嫁道具に過ぎなかった。
私達の時代の女性は高卒後洋裁や和裁を習いひたすら良縁の
降ってくるのを待つのみだった。

高校に求人が来たのは1社だけでした、それは佐賀市でアナウンサーの仕事だと言うので応募して行きましたら、
なんと佐賀県中の女性徒が詰めかけていました。
それはアナウンサーと言っても商店街で流される広告宣伝の
アナウンサーで応募した生徒達に落胆の声があがりました、
帰った人も居ましたね。

その試験は常識問題の筆記試験と声を録音するテストでしたが
自分の声を聞いたのは生まれて初めてでがっかりしましたね。
その常識試験問題でいまだ忘れないことがあります。

当時私は活字中毒であらゆるものを読んでいましたので周りの
者から○○さんは常識があると言われていて知らないことは無いと
密かに豪語していました。

他の問題は忘れましたが、一つだけ忘れない問題があります。
私はよ~く知っていましたので詳しく書きました、

そして付け加えました、
オネストジョンは日本語では「正直太郎」と意訳されていると、
試験官が私の名前を呼びました、オネストジョンが日本では
正直太郎と言われているのは知りませんでした。
と感心しておりましたね。
でも肝心の声はとてもアナウンサー向きではありませんでしたので 一発不合格でした。

私は中途半端な存在だった、卒業後語れば長くなる数年後、
21歳の頃結核にり患し、半年療養所に入院し、
あとは自宅療養になったが、
自宅は針の筵だった。当時結核は恐れられていて
父から黴菌扱いされ冷遇されました。

家には居場所が無いので健康には自信がありませんでしたが
私は家を出ようと決心して新聞の求人広告を見て応募しました。
当時田舎からは関西方面、名古屋方面には中卒で就職で渡り、
東京方面は進学で渡りましたが、
私は弟が早大に行っていましたので東京に就職しました。

仕事は当時新宿区河田町にあったフジテレビのレストランでした。
フジテレビは開局して間もなくでしたのでとても活気がありました。

その近くの薬王寺に会社が借りてくれた借家に宮崎県出身の
2人と3人で暮らしました。

その後神田川暮らしも経験したり、いろいろ語れば語り尽くせない 話が一杯ですが割愛します。

月末に家賃を大家さんに払いに行き
通い帳にハンコ押して貰います。
家賃は払う方ではなくて貰う方に回るべきだと強く思いました。
表題とはかけ離れましたが長くなるので又!

1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約 19年間である。
この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。
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池上先生は5,6年の時の担任で思い出に残っている先生でした、
志望校に合格した報告に学校を訪れた時に先生が呼び掛けて
下さった。後に中学に勤務して体育の先生と結婚なさいました。
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高校3年




皆勤賞


令和3年12月31日(金)晴れ

 
表彰状頑張ったで賞_page-0001



とうとう一日も休まず体操頑張りました。
我ながら褒めてつかわす、ここに表彰状を授けます。

皆勤賞と言えば忘れていない思い出があります。
確か中学校の学期末の事です。
当時学期末にはクラスで2名成績優秀賞と優良賞が
授けられました。
当然私は狙っていましたよ、でもその年に初めて取り入れられた
皆勤賞が授けられました。

私は心が顔に現れる質で先生もその心意を見抜いたのでしょう。
「○○お前は皆勤賞が不満なんだろうが、一年間一日も遅刻欠席もなく頑張るのは成績優秀よりずっと価値があるもんだよ」と
言われました。

家に帰ってその通り述べましたが親(父だけど)は
あんまり喜んではくれませんでした。
父は成績至上主義でした。

次の年成績優良賞をいただきましたが、
とうとう優秀賞は縁がありませんでした。
その時頂いた副賞は有田焼の小さな花瓶でした、
家で使われることもなく(だいたい花を飾る習慣のない家だった)  長い間台所に転がっていましたね。
回収して 持って帰ったような気がして探しましたが
見つかりません。



プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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