おてんば86歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

蛇の目傘(追記あり)


令和5年5月31日(水)雨

蛇の目傘

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昨日の産経新聞の産経抄に蛇の目傘について述べてあったので
私の見解も述べたい。

大正14年頃まで普通に使われていたようだとありますが。
私の子供の頃は普通に使われていました。
只、終戦前後は物不足で復活させて仕方なく使われていたかどうかはさすが知りたがり屋の私も大人に聞いたことがありません。 

私の家と道路の反対側に家内工業で蛇の目傘を作っている
うちがありました。
私は鍛冶屋さんや手作業されている作業工程を熱心に
しゃがみこんでみている子供でした。
だからその傘作りも熱心にみていて質問もしていました。

ただその家の作業工程は分業の部分行程だったかどうかは
判りませんが、竹で組んだ骨に和紙を張り、
その糊は蕨の根を砕いて抽出した液だそうです。
昔から接着剤は蕨糊だったか知りませんが当時ゴムは南洋からの
戦略物資でしたから民間には回ってこなかったのかもしれない。

柿渋を塗って道路に傘の柄を差す穴があり、
そこに差して乾燥させていました。
狭い路地でしたが当時は車も無いし道路で作業しても
誰も文句を言う人はいなかったんでしょう。

その塗っている物は何かと聞いたら未熟な柿を腐らせた汁で
防水効果があるとのことでした。
柿渋

しかし蛇の目傘は耐久性がありませんでした。
長雨で水を吸い過ぎた傘は重くすっぽりと紙が剥がれるのです。
接着剤が蕨の根から取った植物質ですからね、
水には弱かったと思います。

バラバラになった傘をよく見かけました。

だからいつの頃からか見かけなくなりました。

今に続くコーモリ傘は明治の初めころから一般でも使われるようになっていたはずですから、戦中戦後の物不足の間だけ持て囃されたのでしょうか、詳しい人にお聞きしたい。

その後日本舞踊をちょこっと習っていましたので
蛇の目傘は馴染んでいましたね。



少しは仕事しているよ


令和5年5月24日(水)晴れ 寒い

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 5時33分
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6時56分 雨上がりは空気が綺麗です

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今朝もベランダで朝食しましたが、チョツト寒かった
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水喰い草なので蛇口の傍に置く


今日も家仕事、パンを作りながら
久しぶりに掃除機掛けて床拭きをする。

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何十年分の汚れをハイターと洗剤に漬け込んで綺麗にしました、
どこ製か記入がない
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足の裏に41年8月7日、アイヌコタンと掘ってある、
旦那と義母が二人で北海道旅行した話は聞いたことがある。

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熊さんの裏
当時北海道旅行と言えば鮭を咥えた木彫りの熊を
買うのが流行っていたな、木彫りと言えばアイヌの伝統工芸の様に喧伝されていましたが、そうじゃないようですね、本土人が持ち込んだ技だそうです。

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玄関で出迎えることにした。
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文旦ピールパン、久しぶりにピールパンを作る、
ピリリと爽やか

レシピ
粉・・・600g
酵母・・・12g
塩・・・8g
ピール・・・120g
水・・・400g
蜂蜜・・・30g
スキムミルク・・・16g
ピールが砂糖入りなので砂糖とチーズは無しです

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弁当買いに行く
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今夜の夕食は、オリジン弁当、牡蠣フライ弁当、合鴨ネギ、
ビール、
昨日食べたオリジン弁当が旨かったのでまた買いに行く、

オリジン弁当と言えば悔しい思い出がある。
バブルの頃私も一丁前に株投資を楽しんでいました、
大した投資額ではありませんがでしたが、
毎日楽しみで旦那も株式市場のテレビを見るのが
楽しみのようでした。

ある時株屋から「オリジン弁当」の店頭株が売り出されるので
これは絶対上がるので買うべきだと強く勧められました。
近所に店もあってたまに買っていましたので馴染んでいました。
株主になると100株で年に1万円分の無料券がもらえると言うのが
魅力で即買いました。
私の株売買はそんなに売り買いはしないで持続して
持ち続けるでした。

1週間程たった頃10万円値上がりしているので
ここは是非利を取っておくべきだと言ってきました。
私の理論と違うので売るつもりはないと強く申しましたが、
こんな短期間で10万も値上がりするのはめったにないことだから
是非にと強硬でした。
あんまり勧めるので10万儲けるかとその気にさせられ売りました。

売ったあとも毎日毎日上がり続け。100万位の値上がりになりました。株屋は言い訳もしませんでしたね。
あれは本当に悔しいことでした。
株の売買は人の意見は聞かない事と悟りましたよ。
バブルが弾けて元の投資額位になりました。
その後すっぱり株の売買は止めました。

今日の歩数は6308歩





黄砂(追記あり)


中国黄砂

最近支那大陸からの贈り物黄砂が物議を醸しています。
私が黄砂なる言葉を知ったのは高校卒業した
昭和30年代初めころでした。

高卒後、長崎県佐世保で3年間暮らしましたが、
春になると春の風物詩黄砂到来と新聞に踊っていました。
当時は公害とは捉えられていなくて洗濯物が干せないと言う位の
困りものでした。

東の方の内陸だった佐賀では聞いたこともありませんでしたが、
佐世保は海を隔てて支那大陸と対峙していますからね、
有史以来の春の風物詩だったんでしょうね。
当時までは単なる砂でしたが、高度成長期以後世界の工場と化した頃からの黄砂は毒入りですからね、春の風物詩なんて優雅なもんじゃなくなりました。

その後黄砂の源を旅してその発生源を垣間見て驚愕しました。
タクラマカン砂漠の周辺を二度長期滞在しました。
春ではありませんでしたが、ものすごい砂嵐に遭遇しました。
これが春に地球の自転の法則で海を越え朝鮮半島、日本列島まで
襲来するんだなと実感しました。

天山山脈の裏側を通った時山影の至る所に煙をもうもうと
たなびかせている工場群をみました。
それが全て東の方にたなびいているのです。

まっ朝鮮日本に来る前に支那大陸が一番の被害者ではあるんですが、それは自業自得と言うもんで朝鮮日本が正式に文句を言ったと言う話は聞いたことがありませんね。
地球の自転が反対側に回っていたら欧州大陸を襲うわけで、
それらの国も支那様には何も言えないのでしょうかね。
らくだ
1992年夏ラクダ60数頭を連ねて砂漠の一部を旅した。
砂漠に放水
朝の決まり事、砂漠に放水する男共
私

ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠がこれほど一木一草も無くなったのは 近年らしいです、北京から敦煌近くの柳園まで汽車で移動しましたが、長旅の間に現地の方達とお話しましたが、古老がはげ山を指さして「私の子供の頃はこの辺りは緑豊かだった」と申しておりました、毛沢東の大躍進政策ではげ山になったんでしょうね。

当時お人好し日本人が砂漠に植林に行っておりましたが、
そんなもの彼らが帰国したらすぐに燃料にされてしまうんですよ、  そんな国に日本流の施しをして自己満足していた心優しい日本人!!!
天山麓
天山山脈の裏側に煙をもうもうとあげる工場が沢山ありました、
その他にこの辺の地下には石炭が無尽蔵に埋蔵していて、
自然発火している場所が沢山あったようです。
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煙害と言えば私が小学5,6年生の頃(昭和25,6年朝鮮動乱真っ最中の頃ですが)私は歯列矯正治療のために小倉の九州歯科大学病院に通院していました。

その時の唯一の楽しみは八幡の沿線から見える八幡製鉄所の
煙がもうもうと上がる煙突群でした。
なんか子供ながら自慢の風景だと思いました。
当時八幡は煙都と称して自慢の種でした、誰一人公害だと言うものはいませんでしたね。

甘茶


令和5年4月10日(月)晴れ 富士山見える

8日にお寺さんで頂いた甘茶で思い出しましたが、
子供の頃弟がお釈迦さまと同じ誕生日だったので
特に印象に残っています。
母が甘茶は紫陽花の葉で作るんだよと言っていましたので長いこと
そうなんだと少し疑問に感じながら記憶していました。

今回ネットで調べたら、確かに紫陽花に似た低木です。
アマチャは、日本の中部山地にまれに自生するユキノシタ科の
落葉性の低木で、葉を生薬として用います。
現在、市場品は栽培品のみで、主に長野県で栽培されて
います。

アマチャは、加工調製で発酵させることで甘くなります。


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これをネットで買った方がこの甘さが嫌いだと言っていたので
頂いてきましたが、確かに一煎目は強烈な甘さです。
これは人によっては好き嫌いがあると思います。
二煎目は穏やかな甘さです。
どこにも甘味料の添加は書いてないのでネットで調べたら
確かにこれは天然(醗酵させる)の甘さでした。
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頂きます。




犬と猫 チョロ編


犬も猫も飼った人にしかわからない感慨があります。
一概に犬猫と言われますが、両者全然違います。
私はその両方を飼いましたが、語れるほどの広い知識は持って
いませんが、我が家の犬猫については大いに語ります。

子供の頃は柴犬(五郎)子育て中はプードル(マリヤ)を飼い、
マリヤが死んでから一年後に縁あって猫アビシニアン(チョロ)を      飼いました。

その後「さんご」が来て、その5年後に「もんち」が生まれて
犬猫同時に暮らした数年間、今思うと実りある期間でしたね。
「さんご」の生まれたフイリピンのカオハガン島に滞在中に
私の60歳の誕生日を祝ってもらいました。
私が帰国して間もなく「さんご」が生まれたのです。

そんなわけで最初は犬派でした。
猫を飼う人の気がしれませんでした。

ある時、散歩をしているときに犬連れの方に話掛けた縁で
猫を飼うことになりました。
当時アビシニアンに憧れていました。
その方にアビシニアンを飼おうと思っていますと言いましたら、
知り合いの所に生まれたので斡旋しますと言われ、
5万位なら買えると言っておきました。

すると来たと知らせがありましたので行きましたら
元気のいい歌舞伎役者のような隈取の子猫でした。
これは店で買えば30万はするから10万と言います。
約束違うじゃないのと思いましたが、そんな時は気の弱い私、
丁度10万持っていましたので懐に入れて持ち帰りました。

物の本によるとアビシニアンは友好的でおとなしいとありましたが、 とんでもない家に来た客は皆怪獣を飼っていると言っていました、
獣医に言いましたら怪獣みたいな性質だと書いたら
誰も飼わないだろうだって、騙されたわ。

旦那がちょろちょろするからチョロと名付けました。
そして朝の早い旦那から餌を貰うせいか、
すっかり旦那の猫になってしまいました。
旦那には無条件で従うのに私にはしっぽも触らせて
くれませんでした。

次の序列は娘でした、いい加減な私についていたら
食いはぐれるとでも思っているようでした。

チョロの最後は見事でした、
18歳で死にましたが、死ぬ数日前から浴室の床に伏せます。
そんなところでは冷たいよと思いハウスに戻すと
又浴室に戻ります。
仕方ないのでチョロの下に毛布を敷きました。
そこで静かに逝きました。
まるで死に場所を飼い主の迷惑にならない所に決めた様です。
ここなら死後清めやすいとでも思っているようでした。

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2007年10月28日 浴室で逝く
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チョロのキッチン最後の夜DSCF2556
死ぬ1日前
「さんご、もんち」が来てから床で同居は嫌い、高い所で過ごす、
仕方ないので台所の調理台にハウスを置きました、
レンジの横に段ボールハウスがあります、
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「どうしたの起きなさいよ」と言っている「さんご」
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「さんご」チョロの死を悼みます、人間以上に
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「もんち」も哀しいよね、
段ボールの横穴からチョロの手が出ている

元気な頃
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「さんご」とひなたぼっこ
チョロ&ほっけ1
自家製干物をカラスに取られない様に見守ってくれています
01 1686
旦那の魚を今や遅しと待っています
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新聞読んでいると必ず邪魔します
ちょろトイレ1
「さんごもんち」と同じ地上に居るのは嫌なので
いつも高い所にいました、冷蔵庫や箪笥の上にも飛び乗っていました
DSCF0047
パパの次におねぇちゃんが好きだった、
私は完璧に嫌われていたわ。
10万返せ!

この記事は数年前に書いてデスクトップに保存してあったものです。


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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