おてんば84歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

思い出

シニアナビ過去記事(591)「日向夏」


 [591] 日向夏 2008.3.5  00:06:44  
 

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今日、宮崎の友人から日向夏(柑橘)が贈られて来た。
この友人は去年、埼玉県の持ち家を売り故郷の宮崎県に家を建て
移住して行った。

昭和35年8月3日、私は心細い思いながらこれしか生きる道は無いと決心して上京して来た。

新聞広告で応募した会社で私の望んだ職業ではなかったが
どんな職業でも田舎出の若い女性に自立出来る様な時代では
なかった。

私は佐賀から彼女は宮崎から会社の用意してくれた下宿に
その日から数年間、もう1人の宮崎出身の女性と3人で6畳一間の
共同生活が始まった。
貧しい貧しい生活だった。
貧しいのは私達ばかりではなかった。
(後記:しかし貧しいのは私達だけではなかったので別段惨めだとは思っていなかった)
後から顧みるとその頃から日本は右肩上がりの経済成長を遂げたが底辺では先の見えないその日暮らしであった。

市谷薬王寺
近所の河田町にあった、当時始まったばかりのフジテレビのレストランでウエイトレス生活だった。

当時は芸能界の黎明期だったと思う。

少女だったジュデイオングがいつも母親と一緒だったり、
タレントに接する事が多い社員にスターのサインを頼んでおいたら、売り出したばかりの丹波哲郎が色紙一面に名前を沢山書いて
居たので
「この人だーれ、知らないわ」と言ったり、

青島幸男が臆面も無く売り出しに精を出していたり、
各テーブルのコースターに「青島幸男をお忘れなく」と
彫ってあるの、
青島って誰と思っていたが、随分たってから認識したわ。

フランキー堺に寄せ書きの一隅にサインを頼んだら
つき返されたっけ、
一枚の色紙に自分だけしか書かない気位だったんだろう。

そうそう、美空ひばりが小さな身体で大勢の大人を引き連れて
風を切って歩いていたっけ、

私と彼女はその職業が嬉しくなかったのでレベルアップするべく、
当時あった「虎ノ門タイピスト学校」に通学したの、
私は程を知らない英文科で、彼女は和文科だった。
市谷柳町から新宿まで都電13番線で通ったが、
一枚の定期券を2人でシェアしたの。
(後記:もう一人の女性は商業高校卒だったので事務職になり、私達は普通校だったのでウエイトレス、屈辱だった、その上店長と二人で売り上げをごまかして懐肥やしていた、そのおかげで彼女は弟を呼び寄せて専門学校に行かせていましたね)
その学校で習った事は何の役にも立たなかったが、
彼女は叔父さんのコネで大手電気メーカーに就職して
定年まで働いた。

旦那さんは区役所の役人、悠々の老後なんだけど何を思ったか
彼女の故郷に土地を買って家を建て移住した。
旦那は東京人なのに馴染むんでしょうかねぇ。
私は賛成では無かったが決心は変わらなかった。
(後記:旦那は後悔していたようだ、何しろ田舎で東京の地方公務員だったことをひけらかしていたので、近寄る人もいなくなって)
今日「日向夏」を食べながら、苦い苦い当時のことがらを
思い出したわ。

「日向夏」もみずみずしくて、ちょっぴリ苦い味がした。
Kさん有難うございました。
また、逢える日があるでしょうかねぇ。

(後記:その後忘れもしない杉並区荻窪の清水町一丁目一番地での当時まだ珍しかった「神田川」生活に敗れて、心機一転初台に引っ越しました、大家さんが知り合いの印刷会社で経理事務員を求めているからと紹介された会社に転職、そこで旦那と知り合う、当時三人(三股とも言う、この件を話すと長くなるので割愛)の男性と縁がありましたが、昔占なう人に貴女はヤリ手の男と結婚しますよと言われていましたので信じていました、だから一番ヤリ手そうな旦那に決めました、
そうそう、その他に旦那に決めてから旦那の知り合いの男に熱心に言い寄られましたので迷いました、悩んでいる頃住宅街を歩いていると手書きの張り紙が目につきました「占います」と思わず訪ねて行きました、手持ち金が少ない旨申しましたら、その方占いの勉強中なので要りませんと言われましたので1000円払いました、
結果旦那の方は今日でも明日でも結婚する運気が出ていますが、
もう一人の男は本当に結婚する気があるんですかね、全然その気は出ていませんと言われました、旦那とその男の共通の知り合いに聞きましたら、ビックリしていました、彼は付き合っている女がいたそうです、私が行く道に迷うと占いに頼るのはそんな経験があるからです)



シニアナビ過去記事(566)「一芸にひいでた「ひと」」


 [566] 一芸にひいでた「ひと」 2007.12.28  18:11:51   
19/12/28(金)曇り


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素顔ではありませんよ、なりきり扮装です。


話、戻って同窓会の話。

同窓会では芸達者さん達の芸を楽しませて貰った。
この方は何方か知らない方ですが、
何しろ私の学んだ大町小学校は昭和16年には71学級
4007人も在籍した当時東洋一(後記:当時の日本の領土台湾、朝鮮、満州も入れて)の小学校と言われたマンモス校なので同じ学年と言えども知らない方が多いのだ。

(後記:私に限らず大町小学校出身者はたくましい、常に椅子取り合戦状態だったので自己主張しなければ表には立てなかったし、誰も手を差し伸べてはくれないので自分で立った、私の人生は自力で立ち上がって来た人生だと思う)

「岸壁の母」をなりきって譜面無しで歌い、
まるで1人芝居である。これだけの芸があれば
この一芸で、もうどこにでも大手を振っていけると思う。

その歌を聴いてからこっち私の脳にはすっかり
「岸壁の母」がいずわり朝から寝るまでこの歌が離れない。
鼻歌が出るという事は私の心身が好調である証だから
私としてもますます声張り上げて歌う。

最近では娘までが
♪もしや もしやに もしやも~しやに ひかぁ~ぁさ~ぁれぇ~て~♪ と歌いだす始末。
何しろ同じフレーズしか歌わないから。

それでこの前の会社の忘年会では私がトップを切って
「岸壁の母」を歌った。あの方を真似て思いいれ宜しく
感情込めて歌ったら拍手喝采を頂いたわ。

何しろ「岸壁の母」や「九段の母」や「花街の母」を
歌う時はメンバーの顔ぶれを見ないと思いっきり年寄り
扱いされそうなので心安くは歌えないのだ。

ところで私は恥ずかしながら一芸といえる物を持っていない。
でも私は50代の頃までは「努力に勝る天才はない」と信じていて
そりゃ~無駄な努力をしましたよ。
この件について書き始めると長くなるのでいずれ。

(後記:かって大町町長だった方の論文から
抜粋
戦後復興の柱として、脚光を浴びた石炭産業。
大町町も産炭地として、重要な役割を担ってきた。
昭和44年に鉱山(ヤマ)の火が消えるまで、
町の面積、僅か11.46平方㎞の中で、最大24,000人もの人口を抱え、
隣人(炭住長屋)同士が、窮屈な境域の中で、寄り添いながら
コミュニティを形成していた。
なんと人口密度は、2,100/平方㎞超だった。
当時、大町小学校では、最大4,069名の児童数を誇り、
昭和35年には、日本一のマンモス小学校として、新聞、週刊紙上に紹介されたほどである。

(後記:私の末弟は昭和21年3月生まれだったので出生数が極端に少なかったが(仕込まれるのは戦時中だったので)21年4月以後に生まれた団塊の始まりが小学校に入学したら弟の学年は7クラスだったが次の学年から14クラスになったそうです、だから弟は進学、就職、結婚に楽々の恵まれた人生だった)



シニアナビ過去記事(542)「中学「古稀同窓会」」


[542] 中学「古稀同窓会」  2007.11.28  17:40:32   
9/11/28(水)曇り

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24日(土)~26日(月)まで中学「古稀同窓会」出席の為に
九州に行って来た。

九州に行くときは必ず前泊して二つの事を実行する事にしている。
太宰府のケアハウスに入居しているただ1人の最後の叔父(母の弟)に面会して来る事叔父は大正13年生まれの83才、
自他共に認める偏屈じじぃだ。

戦前は満鉄に勤め、同じく満鉄病院の看護婦だった叔母と
無事に引き揚げてきた。
叔母は丸坊主で男装して挨拶に来た。
若い方は意味が判らないと思うが、
当時子供ながら私もその意味を知っていた。
女性は暴漢に襲われて強姦されることが現実にあったのだ。
(後記:母の両親は終戦前に相次いで亡くなっていたし、佐世保にあった家は空襲で丸焼けになり帰還する家が無かった、それで母に帰還の挨拶にきたのだ、お暇するときに実は嫁を連れて来たと言う、表で待たせていると言う、父は呆れて早よう連れて来んかいと言った)

その後、嫁の実家を頼り福岡に行って福岡県警に定年まで勤め
叔母も看護婦として定年まで勤めたが、
元気だった叔母が先に死んだので典型的な亭主関白だった叔父は
自立出来なくてケアハウスで暮らすことになったのだ。

インテリで周りの者が馬鹿に見える叔父はケアハウスでは
孤立している。
でも持って生まれた、そして長い人生で培われた性格は変わらない。
入居当時詠んだ句に「白い目とだんまりで日が暮れる」
今でもそれは変わらないようだ、
私だってこんなじじぃと同じ屋根の下で暮らすとしたら、
白い目とだんまりでシカトするだろうな。

だから寂しいのだ、今回は徹底的に話を聞いてやろうと思った。
2時間聞いたわ。来た、来た、来てるね。
掃除も出来ない叔父はヘルパーに掃除をして貰っていたが、
今は来る人が居ないらしい、ケアマネとも寮母など職員ともぎくしゃくしているようだ、なぜヘルパーが来ないのと聞いたら
「窃盗だ」と来た。

何を盗まれたのと聞いても言葉を濁してはっきり言わないが、
ひょいひょいと漏らすには、相手に取ってはただの紙切れでも
俺に取っては100万円の価値があるものだ、とか言っている。

でも私はあえて何も見解を述べなかった。
理知的そうであっても年取ると来るのねぇ、
被害妄想、懐疑的心境が。

今年の3月に心臓ペースメーカーの手術をしたそうだが、
今だコンサートや美術展などにも行ったりして元気であった。
5枚もチケットが買ってあった。
当分大丈夫そうだ。

私は朝6時に起きて一気に行動したのですっかり疲れてしまって
頭痛がした、
夜はネットで知り合ったfufufuさんと(http:// huhuhu.iza.ne.jp/ blog/ entry/ 405376/)博多の夜を楽しむのが次の予定なのに、
これではとても人にあえないゎ。

ホテルにチェックインしてすぐにマッサージを呼んだわ。
とても上手な人で、すっきりしたわ。
シャワーを浴びてさぁ次のお楽しみ。

彼女は次の1週間のうちに両親がそれぞれ手術する事になって
いたのに、我を忘れて楽しいお酒だったfufufuさんご免なさいね。

翌日は5時開会なので睡眠薬を飲んで9時頃まで熟睡したわ。

今日はここまで、続く

 

シニアナビ過去記事(512)「東京ふるさと大町会」


 [512] 東京ふるさと大町会 2007.9.2  22:26:36   
19/9/2(日)晴れ 涼しい


今日は午後から「赤坂プリンスホテル」で
我がふるさと大町出身者の集いに参加してきた。

本当はそれどころではないのだけど幹事の苦労を思えば
むげに欠席も出来ない。
疲れから肩こり、頭痛もして体調もよろしくないが出席することが
苦労に報いる事と思っているので余程の事がなければ
その類の会合は出ることにしている。
二次会は失礼した。

我がふるさと大町は炭坑街である。
私達の成長期が炭坑産業の一番隆盛を極めていた頃で
活気のある街だった。
だからか出席する人達の連帯感がきわめて強い。
そして次の世代が欠落しているのだ。

我が町出身者が一部上場企業後記:セコム)の社長になったのを
祝って始まった会だったが段々出席者も少なくなり若者は(いな中年さえ)殆ど居ない。
今回もやっと80名ほどの出席者だった。
最初の頃はふるさとからも町長始め町議員達も来て
賑やかだったが、
人口も7000人程になり町財政も破綻しているらしい。

どこもかしこも、なにもかも老いさらばえて寂しいねぇ。

祇園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり、、、
驕れるものひさしからず、、、
いろはにほへとちりぬるを、
わかよたれそつねならむ、
うゐのおくやまけふこえて、
あさきゆめみしゑひもせす、ん

最後にお待ちかね「炭坑節」で〆ます。


金柑の話


令和3年2月13日(土)晴れ


私は子供の頃、知り合いのおばさんに金柑を頂いて食べて以来、
一度も食べていません。
その時なんて不味い蜜柑だろうと思いました。
当時は蜜柑全盛時代で皮を剝いて、
小袋を口に当てて歯でしごいて実を食べていました。

金柑は皮を剝くほどの大きさではなくて皮も食べると聞きましたが、美味しいとは思えませんでした。
金柑は好きな人がいるんだな、好きな人が食べるんだろうと思い、以後70年以上食べていません。

でも通販雑誌に特集が載っているのを読んで食べてみようと
思いました。
私は影響受けやすい人間でして、その雑誌に載っていた
赤かぶらの記事にも影響されて随分凝りました。

金柑は今が旬だそうですから一袋買ってみましたよ。
食べてみたら甘さと酸味が程よくて敬遠するほどでは
ありませんでした。
しかしもう一度買うかと言うと買わないでしょうね。
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この記事では食べ方は書いてないので、
やっぱりそのまま食べるんでしょうね、
もし庭で沢山なったからと頂く機会があればジャムにします。

今日は何もない日だったのでパンを作り、
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上出来 ホワイトラインが綺麗


夏ミカンジャムをつくりました。
どこぞの庭の夏ミカンに憧れていますが、頂けないので買いました。
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夏ミカン3個で、皮の内側にあるワタもそのまま刻み、
煮こぼしもせず、半日水に晒し、種も全部入れて煮ました(後で取る)種はペクチンの作用をするそうですし、ピリリと苦みがあって  好き好きですね、


娘が仕事帰りに寄りまして、
又も婿さんのお得意さんからアカムツとクロムツを頂いたそうですが、婿さんの帰りが遅いので明日持ってくると言いますが、
明日は奥本さんのパレンバンの講演会があるので夜遅いのよね、
冷蔵庫に入れて置けば明後日でも刺身に出来るでしょうかね。

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プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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