[330] 高校時代 2006.11.9  19:30:08   
18/11/9(木)秋晴れ 昨日から富士山見える

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御船山西麓に広がる3000坪の広さのセンチュリーホテルの庭園
「慧洲園」大小の滝、池、茶畑などからなる小堀遠州流の庭園、
この山の反対側東麓に我が母校がある

ケイシュウエン
「慧洲園」は旧鍋島藩主別邸跡に作られた。
昭和の小堀遠州と呼ばれる元大阪芸術大学学長「故中根金作氏」の作庭で、平安貴族の池泉回遊式を復活させたものである。
中国古陶磁器、肥前陶磁器等の展示されている「陽光美術館」が
付属している。

あした夕べに仰ぎみる 
御船の山の気高さよ
讃えよ母校 武雄 武雄♪                      

同窓会でたくさんの人から一目で
「あらぁ Kさんではないの~」と言われた。
同じ町出身ではないのでほとんど50年の時が流れている。

一方、私のほうは「どなたでしたっけ」とすぐには思い出せない。
(後記:現在私とリアルに接する方は認識されていると思いますが、私、人の顔と名前が覚えられない欠陥があります、それを自覚したのは高校の頃でした)

そうなんです、それほど私は目立つ存在でした。
彼女たちの私に対する印象は口々に「文学少女だったよね」です。
文学少女と言えば何か良い印象を与えると思いますが、
そうじゃなくて、私も自覚しているのですが、
さめた、変人と言われた少女でしたね。

最近いじめ問題で仲間に入れてもらえないと悩む子供達がいますが、私の場合、こちらから仲間に入りたくなかったんです。

何故かって、仲間ときゃあきゃあやっているより読書している方が好きでした。
私はどちらかと言えば人なつっこい少女でしたので、
親密な親友もいれば、ちょっとした友人もたくさんいたし、
人と交わるのは嫌いでは無かったけれど、
でも本を読んでいる方がより好きでした。

ジャンルは問わず、そこに活字があればなにかに構わず読む。

歩きながら読む。
汽車の中で読む。
食事しながら読む。
布団の中で隠れて読む。
トイレで読む。

私の年代より上の方だったら理解していただけるでしょうが
その頃、便所紙は新聞紙を切った束が柱に吊るしてありました。
それを全部読み終わるまで出て来ません、
そして続きを探して便壷の中まで見ました。
それほど目が良かった。

夜は父親に怒られるので、隣の居間から漏れて来る常夜灯の灯りで
深夜まで読みました。どんなに薄暗くても読めました。

両親が二階の寝室に上がってから電気を点けたり消したりすると、
父もスタンドの明かりで読んでいますので、ふっと灯りが明暗するので「あっ、今さんごママ電気点けたな」と判るのでした。

そう、あの名画「ガス燈」にそんな設定がありましたね。
他の場所で「ガス燈」が点じられるとふっと明暗して疑惑が
深まるの。

長女でしたので、家事手伝いは当たり前でしたが読み出すと止まらなくて母がかんしゃく起こして「あぁ~ うらめしか~」と叫びました。
当時は読書する子供は良い子ではありませんでした。

私の町には図書館はありませんでしたが、高校に入学したら
学校図書館と武雄市の図書館が利用出来て、もう嬉しかった。
下校したら、汽車の時間が来るまでどちらかの図書館に入り浸りました。
だから友達とくだらないおしゃべりなんかしていられない。

当時本は貴重でしたので、友人が持っている本も「貸してぇ」と
せがみましたが試験前になると皆さん快く貸してくれるので、
試験勉強はそっちのけで読書に耽りました。

当然文系は抜群の成績でしたが、
他は悲惨でしたね追試寸前でした。
よく卒業出来たものです。

父もどちらかと言えば読んでいましたが、
父の弟、以前日記に書いた首の斜頚で兵役免れた叔父さんも
よく読んでいました。

その息子はデザイン科を卒業して京都の和服の帯の制作会社で
デザイナーをしていましたが、時代の流れで会社が倒産してから帰郷して、小さな畑と読書で無為の暮らしをしていましたが、
町の図書館の本は全て読破してもう読むものがないと
嘆いていました。

私の積読本を送ろうかと思っていましたが、
そうだすっかり忘れていました。
うちの娘も閑さえあれば読んでいます。
以前は図書館を利用していましたが、
今は読みたい本があれば買うことにしています。
ささやかに、出版文化発展のために。
(後記:息子が子供の頃読書好きとは知りませんでしたが、
会社で読書クラブを作り会長になって部下達と読書競争していると言っていました)

でもさすがの読書人生もここに来て挫折しています。
目があがってしまって仕事に必要な書類も読めないのです。
くやしいよ~