叔父さんの死に至る様子を伝えるネットで拾った記事
1942年8月、日本軍はナウル島、オーシャン島を占領し、
海軍第67警備隊として前者に4000名、
後者に500名の守備隊を置いた。
1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。
海軍第67警備隊として前者に4000名、
後者に500名の守備隊を置いた。
1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、
1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。
1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした。
9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、
仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。
但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、
行軍に不慣れな者ばかりであり、
その上、気温は摂氏35~38度もあった.
しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、
行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、
仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。
但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、
行軍に不慣れな者ばかりであり、
その上、気温は摂氏35~38度もあった.
しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、
行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
このため,恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。
例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。
最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)
その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。
例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。
最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。
この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)
ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、
第一隊の惨状があったにも関わらず、
第二隊も同じ方式で行なわれた。
第二隊も同じ方式で行なわれた。
更に、悲劇は続く。
ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、
免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。
10月末に、常設収容所に移送された際、
この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも,、
一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、
免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、
ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。
免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。
10月末に、常設収容所に移送された際、
この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも,、
一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、
免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、
ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。
で、だ。
このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、
彼らを死の淵から救う…わきゃない。
彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。
その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
彼らを死の淵から救う…わきゃない。
彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。
ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。
その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。
トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった.
トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった.
最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、
4週間で530名が発病。
ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」
この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、
12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
4週間で530名が発病。
ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている」
この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、
12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、
オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。
この手記はおじさんが67警備隊所属だったことを知ってからネットで検索して見つけたものです。
叔父さんは赤道直下のナウル島にいたものと思っていましたが、
67警備隊はナウル・オーシャンを警備していたので
どちらか不明です。
私はまだ詳細を極めていません。
それを成し遂げるまでは元気でいたい。


叔父靖国神社ご祭神

義父靖国神社ご祭神

この地図は平尾軍医の戦跡を辿った地図です。
平尾軍医は戦後、第一生命の重役をされていた方で
村田春樹さんが尊敬しているかたです。


オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。
この手記はおじさんが67警備隊所属だったことを知ってからネットで検索して見つけたものです。
叔父さんは赤道直下のナウル島にいたものと思っていましたが、
67警備隊はナウル・オーシャンを警備していたので
どちらか不明です。
私はまだ詳細を極めていません。
それを成し遂げるまでは元気でいたい。


叔父靖国神社ご祭神

義父靖国神社ご祭神

この地図は平尾軍医の戦跡を辿った地図です。
平尾軍医は戦後、第一生命の重役をされていた方で
村田春樹さんが尊敬しているかたです。


接点あったかもしれませんね。
もっと早く靖国神社に行っていればまだ戦友会も
活動していたと思うのです、
上京したのは昭和35年でしたからまだ軍人さん達も
生存なさっていたと思う。
上京して間もなく高校の同級生に創価学会に
折伏されて神社は邪宗だと言われて靖国神社には
寄り付かなかったのです。
その後靖国神社に問い合わせて67警備隊ピエズ島で
あることが判ったのです。
残念でなりません。
mamasango672
が
しました