[287] ピース島はいずこに 2006.8.14  22:45:14   
18/8/14(月)酷暑

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今年も元気に参拝出来ました。


今日は娘と「靖国神社」と「千鳥が淵戦没者墓苑」に
手を合わせて来ました。

午後3時までの仕事を終わってから渋谷から半蔵門線で15分で
九段下に到着した。
東京は本当に交通が便利だなぁ。

4時に大鳥居の前で娘と待ち合わせ。
大型バスが参道までぎっしり停車して、皆さん遠くから参拝に来ているんだなと感心した。
報道陣もなにやら期待しているような待機の仕方であるが、
今日は穏やかである、若い人も沢山いて、この所の騒ぎのお陰で
今まで気にもしていなかった人々も関心を持つようになったのだろう。

実は私もそう。

私の血縁では只一人父の弟の朝雄叔父さんが戦死(餓死)しているし、旦那の父親がニューギニアで戦死している。

父の兄弟は3人共体格はがっちりしていて兵隊には一番先に取られそうだが、
父は当時の基幹産業の炭鉱で採鉱技師をしていたので免れ、
次の弟は生まれつき首が斜頚で免れ、一番下の叔父さんだけが
海軍に行った。

海軍兵曹長(いまや死語ですね変換しません)であった。

朝雄叔父さんは家族みんなの希望の星、自慢の息子、自慢の兄弟であった。
当時誰でも貧しい頃、兄弟の多い家に生まれたが性格もよく
頭も良かったので、町で町長の息子とたった二人だけ
旧制の中学に行った。
当時は我が母校武雄中学はまだ無かったので遠い小城中学に行った。

叔父さんの写真が仏間に飾ってあって毎日目にしていたが、
日本人離れのしたきりりとしたいい男であった。
私は洋画の好きなませた少女だったので、
当時胸躍らせたハリウッド俳優の「ロバート・ミッチャム」に
そっくりだなと思っていた。

叔父さんは終戦まで、戦死の公報が来なかったので、
無事に帰って来るだろうと家族は期待して毎日待っていた。
我が家は山の斜面にある町の上の方だったので、
毎日のように復員兵や海外からの帰国者が登ってきた。

ある時、父が郵便配達人とすれ違った、何故か胸騒ぎがして急いで引き返した。
やはり叔父さんの死を知らせる手紙だった。

叔父さんは戦死ではなく「ピース島」と言う小さな島で餓死したそうだ。
(後記:その後ピエズ島と判明した)
父は嘆いた「日本に居たならば餓死だけはさせないのに」と
そして母に大急ぎで「銀シャリ」を炊かせて大盛りのご飯を仏前に供えた。


叔父さんの「骨箱」にはお骨は無く、
「新品のハンカチと新円切り替えの証紙が張ってある郵便貯金通帳」だけであった。

新円切り替えの事は私は「根掘り葉掘り質問魔」だったので
子供ながらよく理解していた。

昭和19年に小学校に入学した時、当時国民の義務とて
母が私名義の貯金通帳を作ってくれて、毎月確か5の付く数字「5銭か50銭か」の貯金をしてくれた。

私より一回り年上の師匠に聞いたら当時50銭はかなり値打ちがあったそうなので5銭ではなかろうかと、思う。

そして戦後(昭和21年2月)「新円切り替え」をした。
子供心に叔父さんは新円切り替えをするまで生きていたのだと思った。
周りの大人に聞くことはせず、一人納得していた。

でもず~っと後になって、あれは本人がしたのではなく、日本で所属の機関が通帳を預かっていて、やったのだろうと理解した。

それ以来私は折に触れ「ピース島」はどこにと思い出す。
叔父さんの餓死した島はどこにあるのだろう。
調べて判れば意地でも尋ねてみようと思う。

調べよう、調べようと思いながら、日々の生活に流され未だ果たさずに居る。
今年こそ調べます。靖国神社の霊前で誓ってきましたから。

(後記:追画像)

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父左(陸軍)と朝雄叔父さん(海軍)
遺骨は収集されていません。ピース島の密林の中でしょう。
戦後女の人が消息を訪ねてきたと伯母さんが言っていました。