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令和2年8月(土)晴れ 猛暑


私の娘は口が悪い、
まっ育てた親が親だからな!

私は毎日目薬を注しているけど、これがなかなか難解で一滴で的中したことがない。2,3滴注すことも多い。
そんな話をしたら娘なんと言ったと思います。
「眼が小さいと大変ねぇ」
他にこんなことも言う。
カメラのシャッターを押す時必ず言うセリフがあります
「目開けてんの」

悪かったね、これでも若い時はもう少しパッチリしてたんだよ、
歳取って眼瞼下垂してんだよ。

眼と言えば思い出すことが2,3ありますが、前回の過去記事の親友の事が思い出されます。
彼女の黒目は見開くと上下の瞼に遮られることもなく真ん丸に見えました。

彼女は容貌頭脳だけでなくすべてが私より上でしたね。
私はしがない下の下の庶民でしたが、彼女の家系は華麗でした。
父親は薬剤師で戦前は朝鮮で薬局を手広く経営していたようです。
戦後引き上げて来て温泉街の一等地で薬局を経営していました。
因みに典型的な不在地主だったので戦後の農地改革で山林以外は全部接収された様でした。

一族も華麗で伯父さんは銀行の頭取している人も居たし、実兄は○○県庁のトップまで出世して関西国際空港の設立時には経営陣に天上がったそうです。
彼女言っていました、普通定年後は天下りするものですが兄は天上がりなのよと

一族のおねぇ様方は皆さん武雄高女卒です。
戦後卒の後輩が言うのもおこがましいですが、
戦前は武雄高女卒は良家の子女の花嫁必須の学歴でした。
妹二人も医者と裁判官と結婚していますしね。

武雄高女創立1908年(明治41年)
昔東京に来て間もないころ同窓会に出席したら父が生まれた明治42年に入学したと言うおねぇさんが居ました。
92歳武雄高女卒

全てが私の上を行く方でしたが、私は僻み根性と言うものを持って生まれてきませんでしたので、友人が私より優れているとそれが自慢でした。

お互いの娘が同じ歳でしたが、その容貌、頭脳も上でした。
彼女は子供3人の教育に熱心に取り組んでいて長男を公立に入れたのを人生最大の失敗だったと後悔していました。
高校まで公立に入れたお陰で希望の大学に行けなかったのでアメリカ留学させました。

次男は中学から私立に入れ、三番目の娘は小学校から名門に入れました。
其の女子高は入学すぐから勉強勉強と強いる学校だったそうです。
誰かが入学早々からきつすぎると申し入れたら「勉強好きになるのは癖です、癖はすぐにつけなくてはなりせん、それがご不満なら退学なさっても結構です」と強気だったそうです。

おかげで大学は学習院と聖心女子大学を推薦されたそうで、
聖心に行きました。

いつも娘さんの話をしてくれて私は友人の娘が優秀なのが嬉しくて喜んで聞いておりました。
いつも話題は教育費が莫大で大変だと言っていました。
私なんか学校は公立しか考えていませんでしたので遠い話でしたね、

ところが人生何が幸いするか判りません。
私の娘は私の娘ですから優秀ではなくて短大に行きました。
おかげで後で振り返るとその就職期はバブル真っ最中でした。
より取りみどりでした。
娘の同級生は一流銀行に書類を貰いに行ったら「内定出すから今すぐ決めなさい」と言われて、じゃあお願いしますと決めてきたそうです。
就活はたった一回!

娘に「あんたは運がいいわね」と言いますと、
娘「運も才能のうちよ」と宣います。

私は娘の就職には力を入れて調査しました。
これからは女も職場の花ではなくて生涯働けるところと決めて探しました。
まず女性が永く働けて女性の役職が多い職場と探しましたら、
伊勢丹が一番でした、

その他その年からJR東日本が女性を採用すると発表されましたのでここも受けさせました。

本命は航空会社でしたが、ここはいくらバブルと言えども超競争が激しかったんですが、40倍の競争を突破して希望を叶えました。
伊勢丹も内定を貰いJRは最終まで行きまして当時内定者の囲い込みでパーティに呼ばれたりしておりました。
三社しか受けませんでした。

ところが四大出の就活期はバブルが弾けて超氷河期に突入していて娘さんは何十社と受けて落とされ続けたそうです。
聖心は就職に力を入れていないのよと言っていましたが、親子して心身共に壊れたようです。

そしてやっと決まった先は私も聞いたこともない旅行専門の出版社だったのですが、そこが今で言うブラック企業で娘さんは心身が壊れて間もなく辞めていたのです。
それは後程聞きました。

ある時「娘がね」と話し始めると
彼女「貴女って娘さんがよっぽど自慢なのね、聞きたくないっ」と怖い顔で言い放ちました。
美しい顔が夜叉の様でした。

その時初めて彼女が永年私の上に位置する関係が当たり前で下に位置することは屈辱だって気がついたんです。
私はだからって友情を断つことは考えませんでした。
彼女は私のかけがえのない親友だったからです。
その後お互い娘の話題はしませんでした。

そして彼女が亡くなった時、私は不謹慎ですが、
勝った!と思ったのです。

今思うと彼女とは護国愛国の話題をしていたのです。
いつも逢うと今の日本はおかしいよねと心を痛めておりました。
もし彼女が生きていれば一緒に護国活動しているかしらと思います。