そよ風と私 その2 同じ穴のムジナ 村田春樹 

前号に引き続き繰り返すが、我々は排外主義ではない。
「阿諛外主義ではない日本人」なのだ。
それだけである。

この前衛の記事「策動と広がり」を読むと私、村田に関する記述が実に多い。私の名が前後10回も登場するのだ。
最後に「村田春樹は決して特異で孤立した活動家ではなく、こうした右翼運動ネットワークの中で活動を展開しているのである。」
と称揚してくれているが、やはり私が名前も顔も知らない人が、かくも詳しく私の言動を注視していると思うと、なにか不気味なものを感じる。私が女性なら恐怖心を覚えるだろう。

「そよ風」の「高齢」女性らが本名を明かさないのは、已むを得ないと思われる。ストーカー行為をされているというのは、こういう感じなのかもしれない。まあ、加藤氏の顔写真を見る限り暴力的でもなければ同性愛者でもないようなのでさておくが。

さらにまるで私がそよ風の黒幕であるかのように書かかれている。
しかし私の少ない可処分時間(可処分所得も少ないが時間はさらに少ない)の中で、そよ風にかかわる時間は、数%程度であろう。

さてこの「策動と広がり」を私は電車の中で読んでいたのだが、しばしば笑ってしまった。マスクをしていて良かった。

笑えたのは加藤氏が我々の慰霊祭を「いったい誰を慰霊しているのかが全く判然としない。」「この慰霊祭が少なくとも誰かの慰霊を目的としたものではないことは明らかだろう。」と指摘している所だ。

加藤氏は我々に対し「死者を露骨に道具として利用」し「犠牲者を冒涜する団体の跳梁」云々と非難している。
なるほどたしかに、会ったこともない百年前の犠牲者が如何に気の毒でも、落涙涕泣することはできない。これが正直な人間の感覚であろう。

しかし加藤氏は、ご自分が支持する追悼碑の前での「朝鮮人犠牲者追悼式典」に参加したことがあるのだろうか。

私は何年か前に参加して唖然としたものである。
一体どこに慰霊の気持ちを持った主催者参加者がいたというのだ。慰霊の気持ちなどどこかにすっとばして、ひたすら日本人に贖罪意識を植え付けることと、安倍内閣への非難罵倒に終始していたではないか。

完全に慰霊に名を藉りた政治集会である。
政治的目的のため政党の党員や議員が政治集会を開いて気勢をあげ、政治パンフレットや書籍を販売しているに過ぎない。

我々が都庁を通じて指摘しはじめた二年程前から慌てて体裁を取り繕ってはいるが、今さら遅い。
加藤氏の指摘の通り、我々は、政治集会を彼らをそっくり真似をして同じ様にやっているに過ぎないのである。
「鏡の国のアリス」である。

我々が正義の味方で人道的で彼らが悪辣なのではない。
その逆でもない。要は、同じ穴の貉(むじな)なんですよ。

では、我々と彼らの相違点は何なのか。
我々は震災百周年を控えてこの事件の真実を識りたいのだ。

彼らは「人数は問題ではない、虐殺されたことそのものが問題なのだ」というだろう。しかしそれは加害者被害者双方に対し極めて不誠実なのではないか。
真実を知ることそのことが不幸な歴史をくりかえさず、両国間の民族差別をなくし、互いの祖先の人権を尊重し、真の善隣友好と東亜永遠の平和の大道を拓く礎となるのではないだろうか。

その真実を識る第一歩としてあの碑文「あやまった策動と流言飛語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。」の「六千余名」が正しいのか否かを識りたいのだ。

そしてその「六千余名」が間違っていれば、この碑文の訂正、それができなければ碑そのものの撤去を要求していきたいと思っているのである。
(続く)