もう遠い昔の事ですが、恥をさらします。
一度は書いておきたいと思っていました。
長いです。

大恩の或る息子の恩師が亡くなられたと
息子から報告がありました。

確か息子が高校3年になった春だったと思う。
私は校長先生に面会を申し込みました。
今我が家は主人の不始末で非常にお金に困っています。
月謝を払うことも困難です。
こんな状態を何とか打開する方法はありませんかと
恥も外聞もなく我が家の窮状を訴えました。
話しているうちに涙が滂沱と流れました。

新設校で校長先生はやる気十分の方でした。
校長は赴任するとすぐに野球部を作り
その指導者として恩師をスカウトしておいででした。

校長先生はえらく同情してくださって
それから校長、監督、担任と話し合い、
いろいろ手を尽くしてくださいました。
奨学金も3個取り入れてくださいました、
篤志家が個人設定した返済不要の奨学金もありました。
それからは校長からしばしば、校長、担任、監督に守られている
息子の様子の報告がありました。

自宅は旦那が遊興の為に借金を重ね街金(サラ金)の抵当に入れ、
返済不能で街金が差し押さえ売り出しました。
銀行でその買主と街金と当方の弁護士で売買契約しましたが、
非常にみじめでした。
友人知人が沢山いるあの住宅地には二度と行けないなと
思いました。

後始末は常に私と弁護士さんだけで対処して
旦那は蚊帳の外にしました。

売買金の中から弁護士さんが奮闘してくださって
我が家の再出発の為に100万円だけ受け取りました。
これで又東京でやり直しです。
しかし、借金はその他数社(者)(5000万程)ありましたので
何年間も借金返済を続けました。

運に見放されている時はどこまでも不運です。
当時庶民には見えませんでしたがバブルの直前でした、
もう半年遅ければ数倍の値段で売れて
借金は全額返済出来たでしょう。

弁護士さんがとてもいい方で、こんな借金だらけの
私達の為に何年間も1銭も取らずに奮闘してくださいました、

でも最後はバブルの恩恵を受け500万以上の謝礼を払うことが
出来ました。
借りていた店舗がバブルで立ち退きになったのです。
信じられないような狂奔の時代でした。

住まいは以前住んでいた地区で旦那の仕事場の近くに決めました。
ふたりして交通費のいらない場所は仕事場の近くです。
今住んでいるマンションです。
私は金銭管理する為に乗り込みました。

娘は中学3年で一番難しい年頃でした。
娘の為にも幾ら貧乏してもみじめアパートに住むわけには
いきません。
ここらで一番聳えているマンション
昔から憧れていたマンションに決めました。
なんと現在住んで居る階より下階の部屋がありました。

家賃(180,000)は当時の私達には高すぎましたが、
食費は節約しても家だけは恥ずかしくない部屋にしました。
電話も暫く設置しませんでした。
南西向きで晴れていれば富士山が見えました。
この景色にどれほど癒され慰められたことでしょう。

息子は小学2年頃から野球少年でした。
大抵投手か捕手で3、4番打者でした。
中学、高校と野球部部長を務めていました。
神奈川は出場校が200校以上の激戦区でした。
監督は1勝を願っておいででした。
其の願いを息子に託していると言われました。
しかし東京に越せば野球は続けられません。

神奈川のグラフ
先制点を挙げる息子
左先制点を挙げる息子、
結局今に至るも1勝も挙げていないそうです、
031
全国高等学校野球選手権大会神奈川県大会
一番前で行進しています

監督は当時同僚と結婚したばかりでした、
そして学校の傍の小さなアパートで新婚生活をはじめられた
ばかりでした。

監督は校長に申し出られました。
息子を近くのアパートに住まわせて
生活、3食、風呂全て面倒見ると、
校長先生が知り合いに頼んで近くに安いアパートを借りて下さり、
息子は毎朝先生宅に行き朝食食べて弁当持たせてもらって登校し、夕食食べて風呂に入りアパートに帰る生活を1年間
お世話になりました。

当時そんなことをしてくれる人はあり得ないことでした、
これぞ大恩と言わずして何を大恩と言えましょうか。
それ以後も沢山のあり得ない体験がありますが、
切りがないのでこの位にしておきます。

話せば長い物語になりますが、当時切実に思ったことは
恥も外聞も捨てて真剣にお願いすれば
皆さんお助け下さるという事を身を持って体験しました。

私は極若い頃占なって貰ったことがあります。
「貴女はヤリ手の男と結婚しますよ」と言われ信じていました。
旦那は腕の良い印刷職人でした、
旦那を引き抜くと子分が2,3人付いてくるような男でした。

結婚と同時に校正印刷業で独立しました、
腕が良くて納期は絶対に守る主義だったので
営業しなくても向こうから仕事が殺到する状態でした。
この男だったら末はビルの一つも建てるだろうと思いました。

あにはからんや!!
宵越しの金は使わない男でした。

下、手書きの2点は倒産後(銀行不渡り出す)の収支
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IMG_20240514_0001
経理事務素人なので自分なりの表を作成して毎日眺めて借金を
返済したら☑して、返済を一日も遅らせたことはありませんでした。

下、2点は最終の決算です。
必死で貯めた老後資金が毎月減って行きました。
私はもういい加減にしてくれと引導を渡しました。
貯めた老後資金が枯渇しないうちに閉業を決めました。
I最終前1

?
私がパソコンを始めたのは66歳の頃ですが、
閉業したのは60歳の頃だからこれは後程作成したものだと思う、

当時印刷業界はものすごい勢いで革新され
印刷の前段階の仕事が技術革新により無くなりつつ
ある時期でした。
最後は殆ど仕事は来ず、旦那は営業したことが無い男でしたから
動きません、赤字続きになりました、
資金繰りは私に任せて只仕事が来るのを待っている状態でした。

経済的苦難は子供二人(3歳違い)が
同時に大学に行って居る時がピークでした。
其の状態は烈風吹きすさぶ剣が峰の尾根道を
歩いているような心地でした。
子供二人がそれぞれ就職した頃やっと経済が安定しました。
それから今度は必死で老後資金を蓄えました。

長くなったついでに子供のその後も、
子供達が社会に出るころはバブルのピークでした。
娘の就職では私張り切りました。

分厚い会社情報を買って詳細に調べました。
私の時代は男に頼る時代で惨めな思いをしましたので、
選ぶのは女性が活躍している会社、
女性の勤続年数が長くて役職者が多い会社です。

伊勢丹が一番でした。
それとその年からJR東が女性を採用するとわかりましたので、
日本航空、伊勢丹、JR東の三社だけ狙いました。

伊勢丹では日航が駄目だったら是非来てくれと言われたそうです。
伊勢丹、JR東は一次内定者を集めてパーテイ迄招待されました。
結局超難関の日本航空に合格しました。
この年の夏は暑くて長かった~

私はその後介護業界に入り66歳の時に
私に取って難関だった介護支援専門員の資格を取って
83歳まで働きました。

この頃、介護支援専門員の仕事は
高給で盛んに募集していましたので、
離婚しようかと思わぬでもありませんでしたが、
私と別れたら転落するのは判っていたので父親が橋の下では
子供達が可哀そうなので思い止まりました。

私は旦那と家庭内離婚して(旦那には宣言しない)
我が道を行くことにしました。

後年息子がしみじみと述懐しました。
俺たちに実家があることはありがたいと思う!
○○子(娘)もそう思っていると思うよと!

恩師のお通夜
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香典をご辞退されましたので急遽花輪を注文しましたら
帰る前に間に合わせて頂きました。
上右端
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息子と並んで、出席して良かった。
野球関係者と奥様が書道の指導者なので
その関係者が大勢参列されていました。
いいお通夜でした。