おてんば85歳・・日々録

昔読んだ、女流作家城夏子さんの「お転婆70歳」と言う本が好きでした。 介護保険制度が始まった平成12年から介護の仕事に入り、 67歳から介護支援専門員を83歳の6月まで現役で務めて参りました。 これからの人生は面白おかしく気ままに過ごしたいと思います。 死ぬまで書き続けますから応援お願いします。

2022年11月

やっぱり温度だった(追画像あり)


令和4ねん1月30日(水)曇り

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今朝はやたらと光が斜光しているな。

今朝はとても暖かくダウンを脱ぎ捨てましたよ。
夜中に雨風が強かったらしくて公園のポールが
なぎ倒されていました。

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6時前はこのポールが全部倒れていた、帰りには立ててあった

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我が家のベランダも水浸し

今日は満を持してパンを作りました。
今まで夏バージョンで仕込んでいましたので、
冬バージョンに切り替えました。

過日失敗したのは多分温度だろうと見当をつけておりましたので
今日は暖かかったけどストーブをつけて室温を上げ、
捏ね水、醗酵水を36度にしました。
やっぱりね!!
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順調にそれぞれの工程で膨らみました。
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肌理も細かくいい香り
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早速漉し餡とアンズジャムをつけて食べてみました。
うまいっ!!
君よ知るや「さんごママのパンを!!」

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今夜の夕食 お馴染み(豚肉、茄子、万願寺唐辛子、玉葱)
の味噌炒め、トマト、赤蕪甘酢漬け、ビール、
マンネリだけどこれ好きなんですよ。

今日の歩数は2930歩



あんたは偉い!



表彰状④11月30日_page-0001

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 11月も皆勤致しました。
睡魔と闘う朝は正直辛かった。

最近足どりが定かでない。
ふらふらする、よろける、こんなに体操頑張っていても
高齢経年には敵わない。
仕方ないね、これが85歳の現状でしょうね。



手芸洋裁やる人は便利になりましたよ、


令和4年11月29日(火)どんより

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いつもの喫煙場所のフェンスが取り払われていたので
完全閉鎖されるのかと思いましたらそうではないようですね、
喫煙者には厳しい世の中になりましたね、
かっての喫煙者天国を知っている者としては隔世の感があります

今朝は少し二度寝したようではっと気がつけば
いつも家を出る時間だった。
5分で支度して大急ぎで駆け付けたので遅刻は無しでした。

そして又も勘違い。
パソコン教室に駆け付けたら閉まっています。
スケジュール表を見たら第5火曜日なので休みでした。
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玉川上水緑道で園児達が遊んでいます。
多分園庭を持たない子供園の外出スケジュールでしょうね。
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初台駅前

化粧してここまで来たらこのまま帰るわけには参りません。
新宿まで足を延ばしました。

なぜ新宿かと言いますとね株主優待の乗車券が
今月一杯で無効になるのが1枚あったからです。
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何も用はないのに全くオカシイ人です。
仕方ないので友の会の会費を払って来ました。
なにか買ったら負けなので何も買わずに店内を歩いてきました。

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店内が大幅にリニューアルされたようです、
洋裁手芸材料の「ユザワヤ」が広いフロアーを展開しています。
あらゆる洋裁手芸用品を網羅しています。
洋裁やる人は便利ですね。

昔、洋裁学校に行っていた時(夜間)は渋谷のあれはなんと言う
店だったかな~しょっちゅう行ってました、
服を手作りしたり手先の仕事が好きだったので便利な店でした。
当時買ってあった糸が沢山あるのでいまだに不自由はしてませんね。
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ビルの前の落ち葉を掃いているのを始めて見ましたよ、
落ち葉は敷き詰めるのを許されていますからね、
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今日の御昼、寿司
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今夜の夕食、やっとカレー食べ終わりました、ビール、
人参葉の卵炒めは塩辛かったので卵足して炒め直しました。

今日の歩数は7310歩










赤いコートと昭和30年代前半の記憶


令和4年11月29日(火)どんより

赤いコートの記事を書いた後に次々とあの頃のことが
思い出されました。
昭和31年から35年の頃、
私は31年に高校を卒業しました。
しかし当時戦後の混乱は収まってひもじい時代も過ぎ去った頃
でしたが、田舎では職が全然ありませんでした。

田舎としてはエリート校(あくまでも田舎ではです)卒なので
女工や女店員は考えられません。
当時良家の子女で進学しない人は家で花嫁修業して
ひたすら良縁を待つしか選択肢がありませんでした。

私のうちは良家ではありませんしゆとりのない家でしたから
花嫁修業や徒食は許されませんし、第一父はなんと思っていたか
判りませんが私は折り合いが悪かった。

兄弟は4人でしたが、みんな同じ思いだったと思え、
卒業すると即家を出て2度と戻りませんでした。
だから皆頑張りました。

母が自分の弟が佐世保一番の商店街で手広く靴屋をやっていましたので私を引き取ってくれないかと頼み込みました。
叔父さんの店で3年間働きました。

当時叔父さんは結核で療養中でしたがちょくちょく帰宅して
狭い店の上階が部屋でした。
その部屋で寝起きしたせいか私も結核になり、
半年入院して半年家で静養しました。


そしていまだ健康には自信がありませんでしたが
家は針の筵でしたので新聞広告の求人欄で見つけた
東京で働きました。
忘れもしない昭和35年8月3日に上京してきました。
東京では早稲田に行っていた弟以外縁者がありませんでしたので
底辺で孤軍奮闘していましたね。

さて当時佐世保は朝鮮動乱も終わって(1950年6月25日から53年7月27日まで)進駐軍の基地があり、街は進駐軍景気に沸いていました。
日本人のパンパンと言われた女性が米軍軍人にぶら下がって
街を闊歩しておりました。
冬になると軍人の奥さんやパンパンが真っ赤なコートを着て
闊歩していました。

当時日本は貧しくてアメリカは豊かで耀いておりました。
私もその真っ赤なコートが豊かさの象徴として憧れました。
でもその赤いコートは日本人には強烈過ぎて似合わないと
思っていました。
だからせめてレンガ色のコートを買いました。
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1957年11月4日(いっちょ前に西暦記入だよ)20歳だわ、
おまけに当時カラー写真はありませんでした。
これはおとなしいデザインで、当時トッパーコートと言われる
スタイルの裾広がりのコートが真性のアメリカンスタイルでした。
その画像を検索してるんですが出てきませんね。
(トッパー・コートとは、上半身を覆う程度の丈の女性用の防寒コート。丈が短く、裾が広がった形状のものが多い)
OIP
こんな感じかな

私には赤いコートに対する長年の潜在意識があるのです。
だからどうしても一度は身に付けなくては収まらなかったのです。
真っ赤なコートは色の白い白人にはお似合いでしたけど、
日本人で着こなす人はまれでしょうね。

戦後貧しかった日本が右肩上がりに上昇した始めの年は
昭和36年でした、これは統計上ではなくて底辺の実感です。

高校の同窓生の話でそうだったのかと記憶したのです。
彼は東大志望でしたが、果たせず一年浪人して
横浜国大に入りました。

彼の証言です「俺は1年浪人したおかげで就職が楽々だったよ、35年までは不景気だったのに36年卒業の年は企業の求人が殺到して教授の処に寄越せと寄越せと大変な騒ぎだったんだよ」と言っていました。

彼は日立に入社して順調に出世しました。
そして同窓会の運営も精力的にやってくれました。
しかし定年後間もなく多分年金も貰わない頃
あっけなく亡くなりました。
葬式には同窓生が大勢参集しました。

もうこの時代の事を生で記憶している人々もこの世に少なくなり、
ネットで探してもファッションでさえ引っかかりません。
私は語り部としてこれからも書いて行きます。



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85歳の真っ赤なコート、マスクしていて良かったよ。
顔を出したらみんなぎょっとするね。


「百年記念塔」北海道ツアーを敢行! 参加者募集開始!


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 ●「百年記念塔」北海道ツアーを敢行! 参加者募集開始!

 「北海道百年記念塔を支える会」(共同代表=小島孝之・藤岡信勝)主催で、来年1月に北海道ツアーを企画しました。
またとない機会です。
ふるってご参加下さい。

【概要】
・期間 令和5年1月22日〜24日(2泊3日)
・出発 1月22日羽田発10:15
・到着 1月24日羽田着21:40
・定員 30人(先着順)
・費用 8万円(一切を含んだ費用。

ただし第一次申し込み締めきり日までに申し込んだ方に限ります。
その日を過ぎますと、飛行機代が少し高くなります。
・第一次申し込み締めきり日 12月15日
・申し込み先 
 メールにて    土屋有紀子tsuchiya@tsukurukai.com まで 
・問い合わせ先 メールにて 藤岡信勝 nobfjk@gmail.com  まで

【日程】
<第1日目> 1月22日(日)
○北海道百年記念塔
○北海道開拓の村
○北海道博物館
・地元中心メンバーとの会食・交歓会

<第2日目> 1月23日(月)
○知事・道庁幹部との面会
○北海道アイヌ教会役員との話し合い
○樋口季一郎記念館
・地元の方々との決起集会

<第3日目> 1月24日(火)
○札幌地裁大法廷第二回口頭弁論傍聴
○白老町ウポポイ
○仙台藩元陣屋博物館
・バスの移動中に中国人による土地の買い占めの実態を解説

○印の行事にはそれぞれ地元の第一人者の解説が付きます。
 どうぞ、参加をご検討の上、早めにお申し込み下さい。

(文責=藤岡信勝)


プロフィール

mamasango672

さんごの若かりし頃、姿も立ち居振る舞いも立派だった。
20年程介護の仕事をしてきました。
この度(令和2年)83歳で惜しまれながら引退しました。
これからは死ぬまで面白おかしく過ごしたいと思います。
令和2年7月6日記す!

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