令和5年3月25日(土)雨

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スターティングメンバー

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日本中どこ行っても日本勝利で賑わっている。
その動向の一挙手一投足に関心が向けられています。
これを機に野球が又昔の様に隆盛になると良いですね。
日頃からみんながみんな野球に関心を持っていたわけでは
ないと思う。
かくいう私も昔に比べたら野球に疎くなっていた。

でもDNAは野球に縁があるのだ。
父は野球キチガイで当時西鉄ラインズのフアンで
福岡の平和台球場に良く行っていた。
家ではスポーツ新聞を購読し、
テレビでは野球放送が常に放映されていた。
独身の頃は会社の野球部で活躍していたようだ。

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独身の頃は隣町にあった西杵炭坑で働いていた、
ユニホームに「西杵」とある
因みに父は黒シャツを着て写っている。

その血を色濃く引き継いだ息子は小学2年の頃から
いまだに野球と縁が切れないようだ。
当時はサッカーなんて誰も見向きもしないで野球一筋だった。
私は住宅地の子供会の役員をしていたので
野球に詳しい役員と話し合って野球好きな子を集めて
野球部を作りました。
旦那も柄にもなくコーチ等引き受けて朝練を指導していました。
息子は小学、中学、高校、大学、会社と野球一筋の人生です。
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当時神奈川県は全国一のチーム数で200を超えていました。
新設校で弱小高でしたので一勝が願いでしたし、
監督さんが息子にその願いを託していると仰っていましたが、
とうとう三年間願いは叶いませんでした。

しかし高校まではエースで部長で生徒会の会長も引き受ける
人気者でしたが、大学に入って始めて人後に落ちる経験を
した様です。
首都大学野球連盟の加盟大学でしたが、全国の甲子園級の学生が
わんさかいてレギュラーの位置を得る事は出来なかったようです。

入学当時、我が家は困窮の底にいましたので野球部の先生に強硬にお願いして寮に入れて貰いました。
寮に入れないと野球は続けられないと切にお願いしました、
野球部員が250人もいる大学ですから無理な相談だったのですが
私の熱意が通じました。

しかし2年だったか3年だったかに突然我が家に帰ってきました。
当時も今も同じ間取りですが、寝室は2部屋しかありません、
どこに寝るのと言う話です。
暫く私達夫婦の部屋で寝ました。

それから少し経済も良くなっていたのと母の遺産が入りましたので 古いけど駅近の1DKのマンションを買って住まわせました。
そこに結婚するまで何十年も住んでいましたね。
家賃として3万入れさせましたよ。
売りましたら買った値段の半額以上で売れましたので
投資金額の元は取りました。

そして息子は会社の野球部で活躍し、おまけにお得意さんの野球部の欠員で助っ人で駆り出されましたし、高校時代の野球部員と
草チームを結成して毎週のように試合に出ていましたし、
最近50代になったのでもう野球から足を洗ったのか聞きましたら 「監督だよ」と言っていました。
冥途の父も俺の血を引いたと喜んで居る事でしょう。