父とは会話はありませんでしたが、
子供が幸せになる方式を常に考えていたと思います。
只会話が無いのに押し付ける姿勢は子供の反発を呼びましたね、
特に私や次男は反発しました。

私の反発は見えない反発でしたが父は見抜いていて
私と次男は親の言う事を聞かないと思っていたようです。

私の場合は近場で良縁を得て結婚させることだったかも
しれませんが、私は家を飛び出しました。

21,2歳の頃結核になり、半年療養所で療養し
半年家で過ごしましたが、
勿論保険もありませんので療養費は弟の勉学費で
精一杯の親には頼めず、、、

父は終戦の頃ダイナマイトの事故で右手指を怪我しました、
それで脱サラして衣類の卸の商売を始めました。
始めの頃は繁盛していましたが戦後落ち着いてくると
殿様商売も落ち目になって私が高校に行く頃には
大学進学は絶望的になっていたのです。
長男一人を大学出すのが精一杯でした。

私は地元選出の面識もない市会議員さんにお願いして
医療費補助の申請をしていただきました。
その代り小遣い(生活費)は0査定されましたので
親に月1000円だけ送金してくれとお願いしました。
その額は生活保護者より少ない額でした。
女性にはどうしても必要な出費があるのです。
その決定が出るまで寝てもおれない心境でした。

なぜなら父は弟を退学させてでも療養費は出すと
言いましたので、そんなことをさせるわけにはいきません。
私の一番困窮した時代です。

佐世保市には恩があるのです、私が死んで残っていたら
僅少でも寄付したいと思っています。

父は当時は仕方のないことでしたが、
私を黴菌扱いして家は針の筵でした。

まだ健康に自信はありませんでしたが、弟(長男)が
東京の大学に行っていたので東京の就職先を
新聞広告で見つけて上京しました。

上京前夜に父はしおらしくつらく当たったことを
詫びるような口調でしたが、
その後は絶えず都会に憧れて飛び出したと非難していました。
だから私と次男は父から見ると親不孝者だったのです。

さて次男は始め鉄工所に就職しましたが、
馴染めなかったようで直ぐにやめて
千葉の運送会社に転職しました。

社長はやくざっぽい人らしかったが
弟を可愛がり弟も馴染んでいました。
運送会社では長距離運送に従事していました。
長距離の運転手は人と交わるのが苦手な
弟にはピッタリだったかもしれません。

父は戦後すぐに事故に遭い炭鉱を退職しましたので、
老後手厚い福祉が受けられないことを残念に思っていたようです。
叔父さんは定年まで働き退職金も年金も十分貰い
悠々の老後でしたので、働くのは福利厚生のしっかりした
会社でないと駄目だと思っていました。

だから次男がやくざっぽい運送会社で働くことを憂いていました。
三井関係で働いている知人に息子の就職を頼みました。
次男は言う事を聞きません。
だから私に説得しろと命じられました。
次男を呼んで説得しましたが当然首を縦に振りません。

その後大分たってから佐世保の叔父さん(母の弟)に
靴屋の跡取りとして呼ばれました。
私は叔父さんの性格をよく知っていましたので反対しました。
父も反対していました。
しかし反対を押し切って行きました。
当然直ぐに飛び出しました。

それから運送会社に勤め、
そのうちにダンプカーを買って独立しました。
誰にも気を遣わずそりゃよかったでしょうね。

雲仙岳が噴火した時は地元の業者は山が噴火するたびに
又何年分の仕事が増えたと喜んで遥拝していたそうです。
近隣の業者も大分うけに入ったようです。

でもいつも順調に仕事が入るわけではありませんので
ならすと残すところまではいきません。
最後の頃はいつも仕事がない、金が無いと言っていました。
そしてとうとう80近くになり仕事も入らず体もがたがたで
辞めざるを得なくなりました。

そんなわけで貯金もわずかで、
年金もわずかで、
私にも借金返せず、
そのうちに生保のお世話になる運命です。

私の兄弟で老後設計が成り立たないのは次男だけです。
父はこうなることを見通していたんです。
弟の人嫌いで頑固なところは育ちのせいでしょうか?
持って生まれた性格のせいでしょうか?