教育編(長いです)
父は明治42年生まれ、
非常に厳しい父親だった。
あんまり怖かったので私は近寄らなかった。
私は幼児の頃から聞きたがり屋で近所のおばさん達が
「あっ、○○ちゃんが来たから帰ろっ」と井戸端会議を解散するほど だったが、父には何も質問しなかった。
「あっ、○○ちゃんが来たから帰ろっ」と井戸端会議を解散するほど だったが、父には何も質問しなかった。
今思えば父は支那事変に出兵して支那各地を転戦していたんだから聞いておれば貴重な話が聞けたと思う。
一番厳しかったことは「勉強しろ」という事だった。
父は酒を飲んで気分が良くなると必ず自慢した。
「俺は軍隊に入って最初に悟ったことは軍隊では出世しなければ真っ先に死ぬなという事だった、だから俺は必死に勉強して出世して伍長にまで登り、大学出の部下を持つまでになったのだ、暇はすべて勉強して消灯後は便所の明かりで勉強したもんだ」と
毎晩夕食が終った後はその食卓で子供全員が揃って勉強しなければならなかった。
勉強が出来て父の自慢の長男は隣の部屋に勉強机を与えられていた。長男とその他の子供に格差をつけてもそれが当たり前だった。
父に反抗的だった次男は必ず汚いくみ取り便所に入り、
その間長時間出てこなかった。
父は必ず同じセリフを吐いた。
「お前はそんな成績じゃ大人になって土方しか出来ないぞ」と
バカにした言葉を毎回吐きました。
バカにした言葉を毎回吐きました。
私は父親にしょっちゅうそんな言葉を聞かされて成長したら
よくないだろうなと幼心に思っていました。
母は父に逆らえない人だったので何も言いませんでした。
通信簿を見せる日がとても怖かった、
成績が落ちているときは家に帰りたくなかった。
成績が落ちているときは家に帰りたくなかった。
父はいつも言っていました。
「俺は子供4人を受けたいだけ教育を受けさせる」と
よそ様の家庭は知りませんが当時の周囲はそんな風潮では
ありませんでした。
ありませんでした。
父の父(祖父)の事はよく知りませんが、明治30年代生まれの
伯母さん(父の姉)二人は無学文盲でした。
伯母さん(父の姉)二人は無学文盲でした。
叔父(父の弟)は父と真逆の人で優しい性格で5人の子供を
締め付けてはいないように見えました。
締め付けてはいないように見えました。
父は弟を虐めた奴らを待ち伏せして二度と手を出せない様に
仕返ししていたそうです。
仕返ししていたそうです。
父は強くて家族思いではあるんです。
炭坑は上下の差が大きいのですが、一番上はホワイトカラー
二番目はブルーカラーでこの二階級は役人さんと
あがめられていました。
二番目はブルーカラーでこの二階級は役人さんと
あがめられていました。
一番下が坑夫でした。社宅もホワイトカラーは大きな池に面した
岡の中腹に広い庭付であり、ブルーカラーは丘の麓にありました。
父はこの社宅に入る権利を持っていましたが持ち家を買い、
社宅には入りませんでした。
社宅には入りませんでした。
納屋の周りは子供で溢れ、大人は皆仲良しでした。
父の向上心は子供に引き継がれ、長男は父の期待に応え
明治、早稲田に現役で合格し佐賀県は早稲田があがめられたので
早稲田に行き、東芝関係の会社に就職しました。
明治、早稲田に現役で合格し佐賀県は早稲田があがめられたので
早稲田に行き、東芝関係の会社に就職しました。
そして関西に派遣され、嫁を貰いすっかり関西人になって
おりました。
おりました。
しかし長男が言うには俺は長男だから末は親の面倒を見なければ
ならないがサラリーマンでは無理なので資格を取って独立すると
言って妻子を抱えて勉強して司法書士で独立しました。
しかし、重役並みの収入を得られるようになったと言っていた頃、 胃がん、肝臓癌で44歳の時に3人の子供を残して亡くなりました。
三男は父の方針に従いトヨタ自動社に入社しておりましたが、
「トヨタ自動車では末期癌で死ぬことはないな、健康診断受けなかったら働くことが出来ないから必ず検査うける」と言っておりました。
はやり自営業者はうちもそうですが少々具合が悪くても
受診しないものです。
受診しないものです。
私も66歳の時、必死で勉強して当時難関だったケアマネの資格を
取りました。だから83歳まで働けました。
三男も現在77歳ですが、
定年後系列の会社で働き、そこも定年後ボランティアで
身体障碍者の通院介助をしながらヘルパーの資格を取り、
請われて施設の送迎バスの運転をしておりましたが、
先日聞きましたら、
定年後系列の会社で働き、そこも定年後ボランティアで
身体障碍者の通院介助をしながらヘルパーの資格を取り、
請われて施設の送迎バスの運転をしておりましたが、
先日聞きましたら、
今は車の運転は卒業して内勤で週に数回働き釣りが趣味なので
嫁さんに小遣い貰わずに楽しめて悠々自適だと申しておりました。
嫁さんに小遣い貰わずに楽しめて悠々自適だと申しておりました。
長男の嫁さんも夫亡きあと3人の子供を大学出して
立派に育てあげました。
その間阪神大震災では灘区大石東町の自宅が一瞬で崩壊する災難にあい、仕事先も崩壊して散々な目にあい、おまけに自衛隊に勤務していた長男が30歳で重度の脳梗塞で倒れ(原因はダイビングで重深度に潜った)それから数十年生ける屍状態でした。が
今はその長男の保険や遺産で何不自由なく暮らしていると
報告がありました。
父の勉強が大事と言う教えが効いています。
次男の成長期は辛い時期だったと思う。
一刻も早く家を出たかった。
だから勉強もしなかったし、中卒で集団就職して上京しました。
父は見栄っ張りで世間体を気にする人でしたから
自分の息子が中卒と言うのは許せないものでした。
自分の息子が中卒と言うのは許せないものでした。
終いには頼むからどこでもいいから高校に行ってくれと
懇願したらしいけど次男の決心は揺るぎませんでした。
叔父さんは次男びいきでしたので兄貴の言動が許せませんでした。
曰く「兄貴は長男の自慢ばかりして次男の次の次も言わない、
すっかり消し去っている」と
すっかり消し去っている」と
その他毎日上映する映画館と劇場、総合病院、幼稚園も
運営していました。
右側の池の上に社宅がありました。
![03_channel_o_rekishi_entotsu[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/8/a/8a76c35f-s.jpg)
高い煙突がランドマークでした
![04_channel_o_rekishi_botayama_syoki[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/4/c/4c1f4cd9-s.jpg)
ぼた山
![16_syougakkou_hitomoji[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/4/b/4b08c45b-s.jpg)
日本一の小学校でした、右側が小学校、左中学校
![9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/e/6/e6bef67b-s.jpg)
当時住宅地は山の斜面にありました、山際に佐世保線と貫通道路がありました、手前の農地は台風が来ると六角川が氾濫するので農家以外は建物を建てませんでしたが、今は病院等建てているので台風が来る度にニュースになります。
![201908281016353[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/d/2/d248ecd1-s.jpg)
![24030552c4f43f61b6f72641c25c8c5a[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/0/e/0e0e0182-s.jpg)
六角川が有明海まで蛇行しています、石炭は鉄道で運ぶ前は
六角川を船で有明海の住之江港まで運んでいたそうです。
だから積み出し口付近を港町と称していました。
![maxresdefault[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/8/d/8d046a5a-s.jpg)
現在の街の様子、住宅地は平野ではありません、山麓です
![img_d46fdcb7201f5013f46e14686dd671c05525964[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/e/4/e4fa1010-s.jpg)
街はずれに杵島商業高校がある、
町は山続きにあるので至る所に農業用水「つつみ」があります、
![03_channel_o_rekishi_entotsu[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/8/a/8a76c35f-s.jpg)
高い煙突がランドマークでした
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ぼた山
![16_syougakkou_hitomoji[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/4/b/4b08c45b-s.jpg)
日本一の小学校でした、右側が小学校、左中学校
昭和35年には、日本一のマンモス小学校となり、
最大4,069名の児童数を誇った
最大4,069名の児童数を誇った
https://www.zck.or.jp/site/essay/5638.html
![9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/e/6/e6bef67b-s.jpg)
当時住宅地は山の斜面にありました、山際に佐世保線と貫通道路がありました、手前の農地は台風が来ると六角川が氾濫するので農家以外は建物を建てませんでしたが、今は病院等建てているので台風が来る度にニュースになります。
![201908281016353[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/d/2/d248ecd1-s.jpg)
![24030552c4f43f61b6f72641c25c8c5a[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/0/e/0e0e0182-s.jpg)
六角川が有明海まで蛇行しています、石炭は鉄道で運ぶ前は
六角川を船で有明海の住之江港まで運んでいたそうです。
だから積み出し口付近を港町と称していました。
![maxresdefault[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/8/d/8d046a5a-s.jpg)
現在の街の様子、住宅地は平野ではありません、山麓です
![img_d46fdcb7201f5013f46e14686dd671c05525964[1]](https://livedoor.blogimg.jp/mamasango672/imgs/e/4/e4fa1010-s.jpg)
街はずれに杵島商業高校がある、
町は山続きにあるので至る所に農業用水「つつみ」があります、
例えば古事記日本書紀を納得いくまで
読み込みたいです。
この世は資格を持っている者が最強です。
資格は荷物にもならないし、
一生独占的に仕事が出来ます。
差別化です。
ケアマネ日記と言う記事を過去に書いていますので
参照なさってくださいね。
昔は介護施設の責任者はケアマネ資格が必要でした。だから医者、看護師も取っていました。
最近は緩和されたようですけどね、
そしてケアマネは介護職の頂点です。
ケアマネの試験は普通の頭があれば努力でとれます。
頑張って下さい。
自信がつきますよ。
mamasango672
が
しました