昨日は3本の映画を一気に観たが疲れも無く過せた。
「流れる」1956年(昭和31年)
「二十四の瞳」1954年(昭和29年)
「野菊の如き君なりき」1955年(昭和30年)
正に私が高校在学~卒業した頃の映画である、
今の人たちにはとても理解出来ないと思うけど女権が低くて
当時でさえ哀しい辛い時代と自覚していた。
尤も男性だって辛かったかもしれないけどね。
まだ高度成長の兆しの見えない頃であった。
高度成長し始めたのは後から考えてみると昭和35年だった。
「流れる」は芸者置屋の苦境を描いているが、
良い時もあったんだと思う。
芸者置屋の主人山田五十鈴の娘役で高峰秀子が出ているが、
彼女の立ち位置に当時の女のやるせなさが出ている。
娘勝代は芸者は嫌だと言って実家暮らしだが、
家が借金だらけでどうにもならない苦境なのに働いていないのだ。 最後の頃、履歴書を書いている場面があるが、仕事は見つからず、ミシンの練習をしてこれからの為に腕を磨こうと思うと
言っていた。
私が感銘を受けたのはその事実です。
当時女は職業に就くことを期待されていませんでした。
良家の子女は女学校を卒業したら、裁縫、料理、お茶、お花を習いひたすら良縁が降って来るのを待つ生活でした。
多分勝代も女学校は出して貰ったと思います。
しかし職業教育は受けていないでしょう。
当時大学に行く女性も一部いましたが、
そのほとんどが学校の先生になりました。
先生の職業は戦前から女性にも門戸は開かれていましたけど、
民間で仕事をすることは期待されていませんでした。
大企業で女性を採用するようになったのは多分戦後で
それは男性社員の花嫁候補でお茶くみ程度の仕事しか与えられて
いなかったと思う。
高校の同窓生で奈良女子大を卒業した方が研究職に就いて
おられましたのが非常に珍しかった。
その方ついに独身を通しましたね。
そのうちに同窓会にも来られなくなりましたので
消息は判りません。
女の研究職の立場を知りたかったです。
東京でさえ勝代は就職出来ないのですから、
田舎においてはおやです。
勝代の着ている服にとても懐かしさを感じました。
当時私もそのような格好をしていました。

58年(昭和33年8月19日)21歳
スカートの下にごわごわしたナイロン生地のペチコートを
履いていました、何枚も重ねて大きく張り出している
若い女性もいましたが、 私は一枚だけです。

58年(昭和33年9月13日)浅草

当時私は洋画ばかり見ていましたのでハリウッド映画で
ナタリーウッドが着ていた半袖セーターとカーディガンの
重ね着を真似していました。

1957年(昭和32年)5月19日
当時おしゃれ着の既製服はありませんでしたので
全て洋裁店で作って貰いました。
私が上京してから文化服装学院の夜間に入学して、
ミシンを月賦で買いましたので親に保証人になってと
お願いしましたら、
内職で洋裁をしていた母が「もうこれからは既製服の時代になるからなまじ洋裁等習わない方が良い」と言いました。
母はいつも忙しく洋裁をしていましたが近所の母親がのんびり暮らしているのを見ていてなまじ腕があると苦労すると思っていたようです、母の予言は当たりましたね。



全国で展開するようです


続く!かな
なんだ沖縄か
モノクロ、
mamasango672
が
しました