令和4年11月29日(火)どんより

赤いコートの記事を書いた後に次々とあの頃のことが
思い出されました。
昭和31年から35年の頃、
私は31年に高校を卒業しました。
しかし当時戦後の混乱は収まってひもじい時代も過ぎ去った頃
でしたが、田舎では職が全然ありませんでした。

田舎としてはエリート校(あくまでも田舎ではです)卒なので
女工や女店員は考えられません。
当時良家の子女で進学しない人は家で花嫁修業して
ひたすら良縁を待つしか選択肢がありませんでした。

私のうちは良家ではありませんしゆとりのない家でしたから
花嫁修業や徒食は許されませんし、第一父はなんと思っていたか
判りませんが私は折り合いが悪かった。

兄弟は4人でしたが、みんな同じ思いだったと思え、
卒業すると即家を出て2度と戻りませんでした。
だから皆頑張りました。

母が自分の弟が佐世保一番の商店街で手広く靴屋をやっていましたので私を引き取ってくれないかと頼み込みました。
叔父さんの店で3年間働きました。

当時叔父さんは結核で療養中でしたがちょくちょく帰宅して
狭い店の上階が部屋でした。
その部屋で寝起きしたせいか私も結核になり、
半年入院して半年家で静養しました。


そしていまだ健康には自信がありませんでしたが
家は針の筵でしたので新聞広告の求人欄で見つけた
東京で働きました。
忘れもしない昭和35年8月3日に上京してきました。
東京では早稲田に行っていた弟以外縁者がありませんでしたので
底辺で孤軍奮闘していましたね。

さて当時佐世保は朝鮮動乱も終わって(1950年6月25日から53年7月27日まで)進駐軍の基地があり、街は進駐軍景気に沸いていました。
日本人のパンパンと言われた女性が米軍軍人にぶら下がって
街を闊歩しておりました。
冬になると軍人の奥さんやパンパンが真っ赤なコートを着て
闊歩していました。

当時日本は貧しくてアメリカは豊かで耀いておりました。
私もその真っ赤なコートが豊かさの象徴として憧れました。
でもその赤いコートは日本人には強烈過ぎて似合わないと
思っていました。
だからせめてレンガ色のコートを買いました。
IMG_20221129_0002
1957年11月4日(いっちょ前に西暦記入だよ)20歳だわ、
おまけに当時カラー写真はありませんでした。
これはおとなしいデザインで、当時トッパーコートと言われる
スタイルの裾広がりのコートが真性のアメリカンスタイルでした。
その画像を検索してるんですが出てきませんね。
(トッパー・コートとは、上半身を覆う程度の丈の女性用の防寒コート。丈が短く、裾が広がった形状のものが多い)
OIP
こんな感じかな

私には赤いコートに対する長年の潜在意識があるのです。
だからどうしても一度は身に付けなくては収まらなかったのです。
真っ赤なコートは色の白い白人にはお似合いでしたけど、
日本人で着こなす人はまれでしょうね。

戦後貧しかった日本が右肩上がりに上昇した始めの年は
昭和36年でした、これは統計上ではなくて底辺の実感です。

高校の同窓生の話でそうだったのかと記憶したのです。
彼は東大志望でしたが、果たせず一年浪人して
横浜国大に入りました。

彼の証言です「俺は1年浪人したおかげで就職が楽々だったよ、35年までは不景気だったのに36年卒業の年は企業の求人が殺到して教授の処に寄越せと寄越せと大変な騒ぎだったんだよ」と言っていました。

彼は日立に入社して順調に出世しました。
そして同窓会の運営も精力的にやってくれました。
しかし定年後間もなく多分年金も貰わない頃
あっけなく亡くなりました。
葬式には同窓生が大勢参集しました。

もうこの時代の事を生で記憶している人々もこの世に少なくなり、
ネットで探してもファッションでさえ引っかかりません。
私は語り部としてこれからも書いて行きます。



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85歳の真っ赤なコート、マスクしていて良かったよ。
顔を出したらみんなぎょっとするね。