令和4年1月15日(土)晴れ 富士山見える


途上国から先進国に移住する動きが止まらない。
生まれた土地に仕事が無ければある処に移住する動きは
国外だけではなくて国内にもある。
私が高校卒業する頃はいまだ日本経済が発展する兆しは
見えなかった。

東京に出てきたのは忘れもしない昭和35年8月3日23歳の時だっだ。
識者にはその後日本経済が飛躍的に発展する兆しが見えたと
思うけど、田舎でくすんでいた私にはまだ戦後の貧しさを引きずっていた。

とにかく田舎には仕事が一切なかった、私の出た高校は進学校
だったので進学には力を入れていたが就職指導は一切なかった。

高卒後就職したかったら佐賀工業か佐賀商業に行くべきだったが、女性の場合武高卒の資格は花嫁道具に過ぎなかった。
私達の時代の女性は高卒後洋裁や和裁を習いひたすら良縁の
降ってくるのを待つのみだった。

高校に求人が来たのは1社だけでした、それは佐賀市でアナウンサーの仕事だと言うので応募して行きましたら、
なんと佐賀県中の女性徒が詰めかけていました。
それはアナウンサーと言っても商店街で流される広告宣伝の
アナウンサーで応募した生徒達に落胆の声があがりました、
帰った人も居ましたね。

その試験は常識問題の筆記試験と声を録音するテストでしたが
自分の声を聞いたのは生まれて初めてでがっかりしましたね。
その常識試験問題でいまだ忘れないことがあります。

当時私は活字中毒であらゆるものを読んでいましたので周りの
者から○○さんは常識があると言われていて知らないことは無いと
密かに豪語していました。

他の問題は忘れましたが、一つだけ忘れない問題があります。
私はよ~く知っていましたので詳しく書きました、

そして付け加えました、
オネストジョンは日本語では「正直太郎」と意訳されていると、
試験官が私の名前を呼びました、オネストジョンが日本では
正直太郎と言われているのは知りませんでした。
と感心しておりましたね。
でも肝心の声はとてもアナウンサー向きではありませんでしたので 一発不合格でした。

私は中途半端な存在だった、卒業後語れば長くなる数年後、
21歳の頃結核にり患し、半年療養所に入院し、
あとは自宅療養になったが、
自宅は針の筵だった。当時結核は恐れられていて
父から黴菌扱いされ冷遇されました。

家には居場所が無いので健康には自信がありませんでしたが
私は家を出ようと決心して新聞の求人広告を見て応募しました。
当時田舎からは関西方面、名古屋方面には中卒で就職で渡り、
東京方面は進学で渡りましたが、
私は弟が早大に行っていましたので東京に就職しました。

仕事は当時新宿区河田町にあったフジテレビのレストランでした。
フジテレビは開局して間もなくでしたのでとても活気がありました。

その近くの薬王寺に会社が借りてくれた借家に宮崎県出身の
2人と3人で暮らしました。

その後神田川暮らしも経験したり、いろいろ語れば語り尽くせない 話が一杯ですが割愛します。

月末に家賃を大家さんに払いに行き
通い帳にハンコ押して貰います。
家賃は払う方ではなくて貰う方に回るべきだと強く思いました。
表題とはかけ離れましたが長くなるので又!

1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約 19年間である。
この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。
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池上先生は5,6年の時の担任で思い出に残っている先生でした、
志望校に合格した報告に学校を訪れた時に先生が呼び掛けて
下さった。後に中学に勤務して体育の先生と結婚なさいました。
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高校3年