令和3年8月14日(土)一日中雨

六角川②
住民は鉄道、国道の上の高台に密集して住んでいます
六角川地図
堤が沢山あるでしょう

ほとんどテレビでニュースバラエティはみないんだけど、
同志が私のふるさとの佐賀県大町、武雄の水害の模様を放映して
いますよとお知らせくださったので見てみました。
2年前にも同じような水害で脚光を浴びていましたね。
この辺りの水害はほとんど六角川に原因があります。

六角川は佐賀平野の西の方白石平野を大きく蛇行して有明海に注いでいます。
有明海は干満の差が日本一と言われ6メートルほどだそうです。
満潮の時は上流に向かって29㌔ほど遡上します。
昔アマゾンの川が逆流すると大騒ぎして放映しておりましたが、
そんなもの珍しくも何ともない。

だから有明海の満潮の時に大雨が降ると当然川は溢れます。
有明海は潟土の海で泥水です。
この潟土は大昔阿蘇山が大噴火した時の降灰が堆積した土だ
そうです。
子供の頃はそんな知識は無かったんですが、
母が新聞記事で読んだと言っておりました。

石炭産業盛んなりし頃はこの川を利用して有明海の住之江港まで運んでいたそうですが、私が子供の頃は鉄道で運んでいましたので水運を利用していたか知りません、積み込む場所を港町と呼んでいましたね。

そんなわけでこの川は農業用水にも飲料水にもなりません。
我が町は山の中腹にあったせいか、至る所に堤がありました。
農業用水です、堤と言いますから昔のダムですね。

当時夏になると子供たちは町中にある堤で水遊びしました。
小学校に当時珍しい25メートルプールもありましたが、
何しろ日本一の小学校で多い時は4000人はいましたから
プール一つでは間に合いません。

そして毎年子供が溺れ死にました。
そうすると町中の人がその堤の周りに集まって潜水夫が捜索する
様を眺めました。
母親が半狂乱になって泣き叫びました。
堤の水は谷水ですから冷たいのです。

父は堤で遊んでは駄目だと言っても親の目を盗んで遊ぶだろうからと子供4人を特訓しました。
その特訓はスパルタで深い所に投げ込むんです、必死に戻るとまた投げ込む、私は恐怖でおびえていましたら、お前は隠れて堤に入ることは無いだろうから、いいと放免されました。
お陰で私は泳げなくてコンプレックスを抱いて大人になりました。

我が街はこの六角川に面した平野と山の手にあります。
当時は農家以外はこの山の手に住んでいました。
何しろ一雨来ると六角川が氾濫して国鉄佐世保線、当時貫通道路と言っていた国道34号線は浸かります。
高校時代台風の時は生徒は駅で待機して学校から駅に連絡が来るのを待っていました。
今日は休校だと知らせがあると歓声を上げて喜んでいましたね。
佐賀県南部を流れ有明海に注ぐ川。
長崎県との県境にある神六(じんろく)山(標高447メートル)南斜面に源を発してほぼ東流し、
武雄盆地で支流を集め、白石(しろいし)平野でさらに東流して河口近くで牛津川を合流する。
長さ約45キロ。
河口に広大な干潟を形成している。
河口付近の大潮時の干満差は約6メートルにもなる。

"感潮区域が約29kmの六角川を利用し、水運が発達したが、六角川の水は、塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できない弊害がありました。約400年前には、白石平野における水不足を解決するために、成富兵庫茂安は、三段式堤である永池の堤を造りました。
永池の堤は、上流から水路を引いて、淡水を上・中・下の3段の堤に貯め、その水を平野に送ります。"


・六角川の歴史
蛇行する六角川

六角川は日本でも有数の緩流蛇行河川であり、その河口部は有明海の最奥部に位置しています。
そのため、河口部では干満の差が5~6mに達し、感潮区域は六角川で河口より約29km、
牛津川で約13kmに及びます。この著しい潮汐変動によって潟土を上流に送り込まれ、下流域の白石平野の基盤を造られました。
江戸時代、六角川流域に長崎脇街道が位置したことや感潮区域が長いことを利用し、水運が発達したため以前より宿場町が栄えていました。
その反面、六角川の水は、海水が遡上し塩分が多く含まれるため田畑の水や飲み水として利用できませんでした。
白石平野において田畑の発展・飲み水の利用するために、以前から取り組みがなされています。


昼食
今日の昼食、残り物と蛸めし
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今夜の夕食、娘が新宿のとんかつ屋で買って来た

今日は一歩も出なかった。
不整脈は度々発症する,
午前中ヨガ教室に行こうと支度して下まで降りましたが、
気分悪く戻りました。